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[Ⅶ-10]<トラウマ、心の傷と闇>新聞事件簿。DV・虐待、被害者の苦しみ

<ダイヤモンド・オンライン>パニック障害と「ウツ」―“いま”を生きづらい現代人への警鐘 ―「うつ」にまつわる誤解 その(21)

 
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 突然、強い不安とともに動悸や息苦しさ、冷汗、吐気などの発作(パニック発作)におそわれるパニック障害は、現代において「うつ」と同様、多くの方々が悩んでいる問題です。
 初めてパニック発作におそわれた人は、身体的な問題ではないかと考えて内科などを受診することが多いのですが、検査を行なっても特にその原因と思われるような異常は見つかりません。
 新しいタイプの「うつ」では、このパニック障害との境界線はかなり曖昧で、両者が合併していると診断されるケースもあれば、パニック障害から始まって後に「うつ」が徐々に現われてくるケースもあります。
 今回は、このパニック障害という病態について掘り下げて考えてみたいと思います。
「死ぬかもしれない」不安は、なぜ起こるのか?
 パニック障害は従来「不安神経症」と呼ばれていたもので、その特徴である発作(パニック発作)は、もともと「不安発作」と呼ばれていました。このことからもわかるように、パニック障害は強烈な不安を伴っているところが最大の特徴です。
 この不安は「このまま死ぬかもしれない」と感じられるようなものであることが多く、それがあまりに強烈であったために、予期不安と呼ばれる「またいつ発作が起こるかわからない」という心配におびえ、生活にもさまざまな支障を来たすようになります。
それにしても、なぜ「死ぬかもしれない」といった不安が、わざわざ自分の内部から起こってくるのでしょうか。
 第4回で「病というものは、何らかのメッセージを自分自身に伝えるべく内側から湧き起こってくるものである」、あるいは「病は、その中核的な症状によって、自分自身をより自然で望ましい状態に導こうとしている」という見方で「うつ」について考察しましたが、ここでもその考え方を用いてみましょう。すると奇妙なことに、「死ぬかもしれない」と自分自身に思わせることにパニック障害の意味がある、という話になってしまいます。
 さて、これはいったいどういうことでしょうか。
“メメント・モリ”――死を忘れるな
 古いラテン語の格言に、“メメント・モリ(memento mori.)”というものがありますが、これは「死を忘れるな」「死を想え」という意味の言葉です。
 同じことを、古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスも、次のように述べています。「一万年も生き永らえるであろう者のように振る舞うな。(死の)運命はすでに迫っている」(『自省録』鈴木照雄訳、講談社学術文庫)
 これらの言葉は、「死というものを視野に入れて生きなければ、人間は限りある生の大切さを忘れて過ごしてしまうものだ」という意味の警句です。空気がなくなって初めて空気の存在の大切さに気づいたり、米不足になってから急に米についての意識が高まったりするように、人は「死」を身近に突きつけられて初めて、いまの自分の生き方を検証せざるを得なくなる。つまり、「いまの生き方で、あなたは後悔なく死ねますか?」と厳しく問いかけられることになるわけです。
 パニック障害の「このまま死ぬかもしれない」という不安自体に何らかの意味があるとすれば、この“メメント・モリ”のメッセージしかないのではないか。ある時私はそう思いいたって、以来、パニック障害の方との面接においてこのテーマを採りあげるようになりましたが、はたして実際、ほとんどの方がハッとされ、何らか思い当るところがあるという反応を示されました。

なぜ、地下鉄や特急電車でパニック発作が起こりやすいのか?
パニック発作や予期不安は、特に地下鉄や急行・特急電車の中で出やすい傾向がありますが、同じ乗り物でも、地上を走る各駅停車の電車やタクシーなどは比較的大丈夫なことが多いようです。
 これは、地上なのか地下なのかによる「閉塞感」の違いや、「降りたい時にすぐに降りられるかどうか」という点が重要なポイントになっていることを示唆しています。ここからある大切なことが推測できるように思います。
 つまり、その人はすでに心理的にいまの生き方に「閉塞感」を感じ、「降りたい時に降りられない」レールの上を走っているような人生になってしまっているのではないか、ということです。そうだとすれば、まさに同じような状況が物理的にもたらされた時に、その人は心理的・物理的に二重に「閉塞」させられるわけで、それに反発して発作が起こりやすいのも不思議はないと考えられるのです。

いまを生きよ!
 先ほどの“メメント・モリ”と対にして考えられる言葉として、やはりラテン語で“カルペ・ディエム(carpe diem.)”というものがあります。ホラーティウスという詩人が残した詩の一節で、「今日という日を摘め」という意味です。すなわち、「いまを生きよ」というメッセージなのです。

 現代の私たちの生活は、常に「将来に備える」ことを求められ、いまを生きることをかなり犠牲にせざるを得なくなっています。もちろん、この時代を生きるうえではある程度避けられないことではあるのですが、あまりにそのバランスが将来への投資に偏ってしまった時に、私たちの「内なる自然」はやむなく警鐘を鳴らしはじめるのだと考えられます。
これまで何度も用いてきた「頭」「心」「身体」の図式(第1回参照)で、今回も考えてみましょう。図1をご覧ください。

【図1】

「頭」というコンピューターはシミュレーションが得意ですから、過去の分析やそれにもとづいた未来の予測を行ない、あとで少しでもうまくいくようにと計画を立て、現在を犠牲にしてでも「将来に備えよう」とします。

 しかし一方、自然の原理でできている「心」(=「身体」)のほうは常に「いま・ここ」という現在を重視するので、「現在を犠牲にせよ」という「頭」の指令を基本的には歓迎しません。「頭」の計画によほど説得力があれば、「心」側もある程度までは妥協し応じてもくれますが、それにはやはり限度があるのです。

「将来に備える」価値観の落とし穴
 いくら将来のためとはいえ、現在を生きることに手応えが欠けてしまっては、「心」(=「身体」)は早晩、実力行使に訴えてくることになります。
 その実力行使が、パニック障害の形をとることもあれば、「うつ」の形をとることもあるでしょう。しかし、重篤な身体疾患を引き起こし、仮想の“メメント・モリ”ではなく、身体的で現実的な死の恐怖の形で“メメント・モリ”を突きつけてくることもあるのではないか。
 つまり、象徴的な次元でメッセージが発せられた時にはメンタルのトラブルの形をとりますが、現実的な次元でなければメッセージが届かないとなれば、やむなく身体的疾患の形をとることになるのではないかと私は考えるのです。
「将来に備える」という考えは、仏教的に観れば「執着」と捉えるべきものでもありますが、今日ではこの考えが真っ当なものとして、個人のレベルを超えて社会全体の風潮にまでなっています。しかし、「将来に備える」という一見正しく合理的に見える価値観は、「いま・ここ」を生きるという自然な在り方を犠牲にする危険な側面も持っていることを忘れてはなりません。
 忍耐強く禁欲的であることを美徳として勤勉に生きてきた私たち日本人は、ともすると「いま・ここ」を大切にすることに罪悪感すら抱いてしまう傾向があります。しかし「将来への備え」の正体とは、実のところキリのない「執着」であり、「いつかそのうちに」と思って「いま」を浪費しているうちに、貴重な人生の時間は終わりを迎えてしまうかもしれないのです。
「死を想え」という古い格言や「今日という日を摘め」という古い一節は、今日の私たちにとって決して無用なものではありません。古今東西、人間の生きている実感とは、常に「いま・ここ」以外で得られたことはなかったのです。
 次回は、「うつ」を生み出す精神的背景として、私たちの中に根強く潜んでいる「努力」信仰について考えてみたいと思います。




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