あなたは、夫の暴力・DVを容認していませんか? 暴力のある家庭環境で暮らす子どもの心を守ることを忘れていませんか?

[Ⅵ-A] 臨床現場からのレポート(1) DV・児童虐待。暴力と精神疾患

「子供が親を殺したいと思うとき」 2010年度第1 回今熊野セミナー 講師:真城義麿校長

 
 <産経新聞>「人の思い出捨てるのがボランティアなのか」 GWで現地入り 悲惨な現実に言葉失う <ダイヤモンド・オンライン>社会復帰を阻む、心の傷。「児童虐待」のトラウマに苦しむ人たち ――虐待の傷を超えて
日時:2010年4月27日(土)

親殺しに先行して子殺しがある
「いい子」という条件を満たすことで家庭での存在理由を与えられている
自分を殺して生きている子どもたち(存在感覚の欠如)
「いい子」を演じるエネルギーの続く間はなんとか
そのエネルギーが無くなると→生きている意味が見つからない
→家庭内暴力、或いは、何もしない(引きこもり、ニート状態)
「いい子」を生きろと命じるから、親の指示する(させる)ままに生きてきた。その結果がエネルギーの枯渇状態である。もう動きたくても動けない。それを引きこもりだニートだと非難する(さらに否定的圧力をかける)。
(追い詰めておいてその状態をさらに否定し、追い詰める→殺意、戦争に)

2004年11月24日以来の親殺し事件
①教育家族(エリートをめざす)
他人と比較、成績で評価
バカは家庭にいる価値がない(「私を殺さないで」)
家庭は無条件の居場所でない
父親の威圧的な指導と監視
②親の離婚(家族崩壊、喪失体験→もう以前の自分に戻れない)
家族の一員としての子の存在が忘れられている(捨てられる恐怖)
離婚で一番打撃を受けるのは子ども(自分が悪いから両親が別れる?)
両親の関係の安定→子どもの存在が安定
③対人関係(コミュニケーション・スキル)重視
友だちが多いか、浮いてないか、お荷物になってないか
単独志向の子→集団への適応・協調性・和(多数者の価値観)になじめない
「偽りの自分」の仮面とパフォーマンス
④(父親の)社会的コンプレックス
不遇意識が我が子へのサディスティックな行為に
大人の都合が子どもを殺す
親の求める条件を満たすことができない子どもが否定される
地獄(我今無所帰、孤独無同伴)--居場所がない

2008/6/8 秋葉原事件
孤独(いるのにいない) 「誹謗中傷されるということは、存在だけは認められているという
ことですから、無視されている不細工な私は、その存在すら認められていません。」(4/16 携帯サイトに)「孤独な私は既に社会的に死んでいます。」(5/29 同)
無条件肯定
「天上天下唯我独尊」「摂取不捨」「選ばず、嫌わず、見捨てず」
家族はセーフティネット
構成員を価値付けしないどの子も必要(丸ごと肯定)
自分がそのまま自分であっていいと感じることができたとき、その安心感、安定感をベースに子どもは、自然に次の第二のステップに踏み出していく。自分の意欲、意向、希望を行き始める。
現代日本・都市化「無痛文明」(不都合・不便・不快の排除)
・個別化あらゆることが私事(プライベート)に家単位のひきこもり
自分が最大の関心事、自分が得たものを分けない
→不都合の他者を消したい、無視する(⇔他者肯定)
→他者の期待に合わせて生きる「よい子」(⇔自己肯定)
生きる生かされて生きる生かして生きる生きているか?(死なない)
個別化の時代(個室のお浄土へ)
共に生きる自分と(自分の中のもう一人の自分と) 他者と単なる「仲間意識」(よそ者は入れない)ではない幻想の共有多数者の論理
生きていく力は自立力と共存力
自立力(独立力) 自分は自分として生きるんだ孤独にも耐えられる
自分を愛し、自分を尊び、自発的に動こうとし、自分で自分を律し、自信を持つ共存力共に生存する共に生きていく他者と共に生きる
世界から逃げない辛くても嫌な人とでも生きる
他者の発見significant others 私以外の人は必要な(重要な)他者なんだ
子供が育つには三つの体験が必要
①親子体験自分は守られている愛されている望まれている肯定される
②自然体験不如意うまくいかないことがあるうまくいけば喜び・感謝に
③他者体験(子供同士) 異年齢・障害・遊び場の状況などを把握してルールを決める
年上の子が年下の子の面倒を見るよそのお兄ちゃんの言うことを聞く

1997/5/24 神戸市須磨区の少年A が友人を殺害(「透明な存在としての僕」)
1998/1/28 栃木県黒磯中学校で一年生が女性教諭を刺殺
1998/2/2 東京都で中学三年生がピストルを奪うため警官殺人未遂
2000/5/1 豊川市の高校3年生が主婦刺殺、直後に西鉄バスジャック事件
2004/6/1 佐世保で小学校6年生が同級生女児をカッターナイフで

 この「今熊野セミナー」では、毎年第1 回目はちょっときつめのドキッとするような題名でお話ししているわけで、去年は「子供の成長を妨げる方法」というのが第1 回目のテーマでした。この今熊野セミナーというのは、以前はいろんな講師を招いて仏教講座のようなものをしていたんですが、教育の公開講座みたいなものにしようということで、もう十年以上も前になると思いますが、ここの地名であります今熊野という名を付けて、京都新聞にも毎回案内を出して、校長が現代を生きる子供たちとの関わり、あるいは教育ということを仏教の視点で語れということでありまして、続けているわけであります。
 それで、年度当初に5 回分のテーマを出すことになっていますが、私は直前にならないと話す内容がはっきりしませんので、多少変化はあるかもしれません。
 さて、芹沢俊介さんという方の『親殺し』という本があります。思春期の子供さんをお持ちの親御さんには是非読んでいただきたい本です。教えてもらうことが多いのではないのかなと思います。私はたまたま、2005年だったと思いますけれども、「真宗の教育力」というシンポジウムがあったんですよ。これは真宗大谷派学校連合会という組織がありまして、全国に真宗大谷派東本願寺系の学校が40 数校あります。たとえば北海道で言えば、北から稚内大谷とか、帯広大谷、室蘭大谷、登別大谷、札幌大谷、函館大谷とあるわけです。大阪にも大谷ってありますし、そういう高校が19校あります。中学校は6校あるんですが、今一校が募集停止になりましたので、実際に開いているのは5校、小学校は1校、短大・大学が約20校ありまして、これが1つの連合体を作っております。その40 周年事業ということで、「真宗の教育力」というシンポジウムを行いました。その時に出ていただいた一人が芹沢俊介さんだったんですね。あとは山中康裕さんと阿満利麿さんと僕がパネラーというか喋る方で出していただきました。また今年の11 月28 日に東本願寺でシンポジウムがありまして、今度は私はコーディネーターなんですが、来ていただく一人が芹沢俊介さんで、あと浜田晋さんという精神科のお医者さんと、反貧困ネットワークの湯浅誠さんがパネラーで、私がコーディネーターをすることになりました。そんなことで、京都教区というところが主催した『親殺しあなたは子供を殺していませんか。親殺しには子殺しが先行しているのです』というテーマの講演会がありまして、2 月26 日に、これを聞きにというか、芹沢先生のお話を伺いにいったところであります。その時に色々お聞きしたお話が、私が日ごろ考えていることとかなり重なることが多かったので、この際、一回整理をしておこうというところであります。
 この「芹沢俊介NTT出版」と書いたプリントは、この本の前書きの一番最初のところのコピーです。そこに①とか②とか④とか書いてありますのは、別のプリントの①教育家族②親の離婚③対人関係④父親の社会的コンプレックスという動機と言いますか、原因別に下に書いておきました。それから殺害の方法について、そこにメモだけ書いておきました。これを見るだけで、子供たちが殺すにいたった時の怒りや恨みの深さというものが感じられるのではないかなと思いますね。
 2004年の11月24日には、奇しくも同じ日に2件、12時間ほど時間をあけて親殺し事件が起こるんです。水戸市で起こった時に使ったのは4 キロの鉄アレーなんですが、2005年の東京板橋の鉄アレーは、8キロの鉄アレーなんですね。8キロの鉄アレーで人間を殴ったらどんなことになるのかというね。お父さんについては鉄アレーで殴った上に包丁で刺す、お母さんは鉄アレーはなくて包丁だけ。ただし、この15歳の少年は、タイマーを使って家のガスを使って、台所を爆破するわけですね。4時間後に爆発するようにして、というようなことでした。タリウム事件という
のは、タリウムという毒物を少しずつ飲ませて、殺してしまおうとした事件ですね。奈良の事件は記憶におありだと思いますが家を燃やしてしまってということですね。また稚内では、自分では手を下さずに友人に母親を刺してもらったということですね。これも両親の離婚が原因なんですが、友人というのも両親が離婚しているということですね。2007年の17歳の少年の会津若松はですね、これは結構センセーショナルに報道されました。母親の首を切っただけではなくて手首も切って、白いスプレーでペンキを塗って、植木鉢に刺してという、そんなようなことですね。最後の八戸も18歳の少年はサバイバルナイフを10 本ぐらい持っているんですが、そのうちの刃渡り50センチの一番大きいもので全員の頸動脈を切って家に火を付けたということですね。というようなことが連続して起こった。実際はもっとありますが、芹沢俊介さんは、2004年11月24日をきっかけに事件を取材し続けて行くわけですね。それがこの本に一つ一つの事件と、どうこの事件を見て行けばいいのか。どういう風にして子供が子供が殺され、殺されというか否定されていったかということですね。
 実際には凶悪犯罪というか殺人事件というのは、年々ものすごい勢いで減っています。現在は戦後最低の発生数です。テレビや様々なメディアが一杯報道しているから、現代日本はものすごい悲惨な事件が増えた。しかも問題が解決されていな事件が多いという印象を持っておられるかもしれませんが、未解決事件もどんどん減っています。人口あたりの殺人事件率で言うと、日本は自殺は世界のトップクラスですが、殺人事件では先進国の中ではダントツで少ない。それでも結構あるんですが、もう今は少ないですね。人口10万人あたり1 人ちょっと、2人はいかないんですね。自殺者の数は10万人あたり20数名おりますから。しかしその殺人事件の中に現代を象徴するような共通するものがあります。私たちが本来大切にしなければならないことをどこかに置き忘れてきたり、見失ったりということがそういうことの引き金になっているという共通点があります。これは親殺しには限りません。例えば一昨年の6 月に東京秋葉原で連続無差別殺傷事件というのがありましたね。加藤智大という人が歩行者天国にトラックで突っ込んでいって、その後、ラガーナイフで何人も殺したということがありました。その話からしましょうか。
 横長のプリントの左のページの下のところにそのことを書いておきましたが、あの頃、彼はご存じの通り携帯サイトにずっと発信し続けるわけですね。それで、当初しばらくの間は反応してくれる人がいるわけですが、いつの間にか何を言っても無視をされる。かなり極端な、これから殺すということを言っても、無視されるというようなことになっていくわけですね。彼も大変に勉強のできた子です。中学校までは大変勉強ができた子です。高校に入ってからは、高校も進学校にいくわけですが、ぐずぐずとなっていった。彼が親を殺さなかったのは、その後、家を出たからです。その後ずっと家にいていれば親殺しということになっていたかもしれませんが、家を出まして、最終的には殺す相手は誰でもいいということになっていくんです。が、そのサイトの中でも、誹謗中傷されるということは存在だけは認められているということですから、「無視されている不細工な私」はその存在すら認められていないという孤独感ですね。まだボロカスに言われた方がマシなんですね。それは存在を認めてもらっている。5月29日には、「孤独な私は社会的に死んでいます」と書いている。そういう、膨大なメールがあるわけです。
 そのようなところの根本にあるものと、もともと仏教や日本、あるいはアジアのものの考え方にあった大事なものが、いつの間にか私たちが西洋的な物の考え方に根こそぎひっくり返ってしまって、その部分での心配なことを今日はお話申し上げたいと思います。
 親殺しに先行して子殺しがあるという話ですが、親というのは誰にとっても一番大切な人ですよね。もっといえば一番殺したくない人ですよね。それを殺すと言うのは、そこにどれほどの追い詰められ感があるかということだと思うんですね。京都にテラ・ルネッサンスというNPO 法人があって、そこはカンボジアでの地雷除去やラオスでの不発弾除去、ウガンダやコンゴでの元・子ども兵の社会復帰支援などの活動をされています。ウガンダやコンゴでは、あっちこっちの子供がさらわれてゲリラ兵に育てられ、無理やりしつけられて、平気で人を殺せるような訓練をうけて、兵隊にさせられる組織があります。そういう組織から子供たちを奪還して、社会生活ができるように再訓練して社会へ戻すということを地道にやっている団体です。
 そこの代表の鬼丸昌也という人に来てもらって、生徒たちに話をしてもらったことが一度あります。本当に日本でいうと小学校に行くか行かないかぐらいの子供たちをさらうわけですが、それでずっと平気で人を殺すことができるように訓練、洗脳していくわけですね。色々洗脳して、武器の使い方、銃の使い方からすべて教えて、第1 回目の実習があるわけです。現場実習というか、最初の命令は何が下されるかと言うと、自分の村へ行って母親を殺してこいというのが最初の命令なわけですね。もう体が拒否するわけですが、頭は洗脳されていて、最終的には訳が分からなくなって、とにかくこれを終えないと、と追い詰められて、母親を殺してしまうわけです。そうするとそれ以降、一番殺したくない、一番大切な人を殺してしまった私だからということで、そこから後の殺人が随分平気になってしまうと言いますか、もう母親まで殺したんだからということで。だからそれが逆に子ども兵を育てる側からすると狙いなわけですね。そういう現実があるんだという話でした。今、全世界中で約30万人ぐらい、子供の兵隊というか、戦う子供たちがいるんですね。
 父親を殺すというのは、父親が自分の壁であるから殺すという面もあるかもしれないんですが、一番守ってくれるはずのお母さんを殺すほどに追い詰められる、その追い詰められ方というのはどんなだろうかと少し知ってもらって、その上で、多かれ少なかれ、私たちはそういう要素を持ってはいないかということですね。それで、これが子供に限らないんですが、家族の中の誰かが都合の悪い存在になったということがありますよね。寝たきりになったとか、認知症になったり、色んなことがあります。あるいは、引きこもりになったとか、そうなった時に、そうなった人たちを私たちはどういう風に見てしまうのか、あるいは価値づけするのかということですね。
 以前、私は平成5年3月までこの学校に勤めていまして、平成5年に一旦退職して、瀬戸内海の小さな島が私の故郷なんですが、そこへ帰りまして、そこの寺の住職になりました。その頃、田舎へ時々は帰っていましたが、住むということになったのはその時からなんです。住んでみると、イメージは全く違っていまして、ショックなことが次々と起こってきました。その私にとって一番大きな象徴的なショックだったのが、それまでは中学生高校生と、その保護者の方が私の話し相手というか、対話の対象でしたが、田舎へ帰ると中をとばしてぐっと高齢者の方と話をするようになった。大体、70代以上の方と話をすることが圧倒的に多くなるわけですね。そうすると、その人たちがほぼ百パーセント共通のことを仰るんです。70代の人も80代の人も男の人も女の人も同じことを仰る。それは何かと言うと、「住職さん、わしらも若い頃は元気でよかったが、こうやって年を取るとつまらんようになりましたわい」と仰るんですね。つまらんようになったというのは、価値が下がったということですね。これは大変なことだなと思いましたね。長生きできたというのは、人類始まって以来の夢がかなったわけです。人類始まって以来、不老長寿を目指してきたわけです。それが実現した今になって、自分自身のことをつまらんようになったと
思い、世の中全体がこれから高齢化社会になったら、大変だ大変だと言って心配して、場合によっては恐怖を覚えている。
 ありとあらゆるメディアは、みなさんも多少その域に入られた方もいるかもしれませんが、アンチエイジングばっかりをコマーシャルして、それで日本の通信販売業界は何兆円という規模になっているわけですが、年を取っていくということに対する恐怖があるわけですね。年を取った人が自分のことを非常に卑下して、自分のことを仰る。そういうことをディスカウントというんですね。ディスカウントというのは値切ること、価値を下げるということですね。「まけてえな」というのは、それはその値段より安いやろという風に価値を下げてみるというのをディスカウントと言いますけど、元気でバリバリ働いている時以外はどんどんディスカウントされてしまう。
 自分でもそう思い、周りからもそう見られてしまっているんじゃないかと思ってしまう。そういうことで、私にとっては非常にショックでしたね。
 人間は、みんな全員が、長く生きれば間違いなく機能は衰えていくんですから、それを価値が下がっていくと言う風にしか見れなかったら、みんな価値が下がって人生を終って、死んでしまわなければならない。価値がさがっていくところへ向かって進んでいかなければならない。それでいいのかということですね。その頃、私にとってのキーワードは「人材」でした。人間を材料としてしか見ないということですね。材料というのは役に立ってなんぼのものですから、役に立つ間は価値を認めるけれども、役に立たなくなったら価値を認めない。いつの間にか人間が人材になってしまう。人材派遣の会社のコマーシャルでもひどいもんですよ。人材は三種類ないし四種類あります。宝のような人(人財)、いるだけの人(人在)、足を引っ張る人(人罪)、どれもみんな人材なんだけどうちの会社はこの人財だけを派遣しますとか言うわけです。はっきりと序列のつく、見る人が価値づけをする世界ですね。
 私たちが子供たちをどう見ているかということなんです。この本に出てくる話で、ある中学校で生徒300人に親に対しての不満を書いてもらったそうなんです。不満というか言いたいこと。そうすると、300人の回答のうち200 人がなんらか親に対して言いたいことがあるわけです。つまり、親に自分のことをこんな風に言ってもらいたくないというのが大きく分けて二つあります。
 一つは人と比較されるということですね。すぐに親が「隣の誰誰さんはどうなのに、あなたはどうね」とか、あるいは兄弟で比べたりしてしまう。「お姉ちゃんはあんなにいい子なのに、あなたは」とかね。私なんかも保護者や生徒と喋っていると出会う話ですね。もう随分前に卒業した子だから言いますが、よくこの子は親にあんなことを言われながらがんばっているなと、自分だったらおれんなと、そんなこともありました。学校の校則違反をして、母親と生徒とが校長室へ連れてこられて、ちょっと校長先生叱ってやってくださいみたいな話ですね。まあ、叱るのもあれだけど、まず話を聞こうかというと、本人がそこにいるのにお母さんが本人のことをディスカウントするわけですよ。「校長先生、この子、私嫌なんです」って、本人がいるのにですよ。本人がいるところで、「お兄ちゃんはいい子でね」と言うんですね。お兄ちゃんはいい子なんだけど、生まれつき障害があって、ずっと寝たきりなんですね。とっても優しい子。2 番目の元気なこの子に全期待がかかっているんですよ。でもまあ、言ってみればお兄ちゃんのスペアとしてしか見られていないわけですね。「あのお兄ちゃんと反対だったらいいのに」とお母さんは言うわけですね。それは、ちょっとおれんぞという話ですね。もう少し聞いていくと、お母さんも超プレッシャーの中で子供を育てているわけですね。御主人もそうだし、家族中、親戚中が東大京大出の弁護士とか医者ばかりの家に嫁いできたのが、最初に生まれた子供がそういう状態で、2 番目に生まれてきたのも男の子だった。この子を何とかしなければという、許さんぞという空気が、お母さんのところにもプレッシャーがかかっている。だから、あれやりなさいこれやりなさい、あれ駄目これ駄目ということが厳しくなっていくんだと思いますね。だけど、子供からすると、それはあっても、どこかで甘えさせてもらったり、ごろにゃんとしたかったりとか出来ればと思うんですけどね。そういうようなことに私たちはしてしまうということですね。
 私たちは、言葉以外にもディスカウント・メッセージというものがありまして、知らず知らずの間に相手をおとしめる振る舞いをしてしまう。顔の表情とか、舌打ちをするとか、相手が一生懸命言っている最中に携帯がかかってきたら出るとかですね。あるいは時計ばかり見たりとか、あくびをしたりというのは、話している人からすれば、自分のことを軽んぜられている。大事に思ってもらっていないと感じますね。生まれてすぐの赤ちゃんなんかは言葉は全く分からないわけです。しかし、お母さんが自分に向かって発しているのがディスカウント・メッセージなのか、逆にストローク・メッセージなのかは敏感に感じるそうですね。「あなたが私にとってどれだけ大事な子供か」ということが、言葉は分からないですよ、何も言葉を知らないんですから、その状態の時にやっぱり伝わるのです。
 ピジョンって哺乳瓶を作っている会社があるじゃないですか。なんかの時に、どこかのグループにピジョンの人がいたんです。雑談をしていたら、ピジョンにも子供に飲ませる間に両手が使える哺乳瓶を作ってくれと、つまり、両手でゲームをしていたり、メールをしたりしながら子供に授乳できるような色んな道具というか部品を作ってくれというのが結構あるんだと言う話をしていました。
 それはね、赤ちゃんのおなかの中に哺乳瓶の中身が移されれば、それが授乳したことになるわけじゃないんですね。そこに一杯いろんなメッセージがくっついて、赤ちゃんは育つわけですからね。ところが、そういう肯定的なメッセージがないと、赤ちゃんにしてみればディスカウントメッセージ、自分は大事にされていないというメッセージを母親から受けることになるわけですね。これを浴び過ぎると子供は壊れるといわれています。
 今から言われてもと思うかもしれませんが、1966年に日本では、『スポック博士の育児書』という本が出ました。これは1946 年にアメリカでThe Common Sense Book of Baby and ChildCare という「赤ちゃんとその取扱いについての常識」という題名、わざわざ常識っていうのが題名につくような本で、全世界で翻訳され、世界中で5000 万冊売れたといわれます。それが20年後の1966 年に日本に入ってきて、大ベストセラーになって、それから後の日本の育児を本当にひっくり返してしまったわけですね。当時の厚生省もこれを参考にして「母子健康手帳」で指導しました。簡単に言うと、抱き癖をつけてはいけない、添い寝はしない、早く離乳食にするっていうやつですね。今はご存じの通り、それがいかに間違いであったかということは、どこへ行っても言われていることですが、その当時は抱き癖を付けると子供の独立を妨げるから甘えさせてはいけないとか、三時間ごとの授乳時間が来るまでは泣こうがわめこうが放っておいてもいいんだとかね、子供は別室で寝かした方が自立心が付くんだとかね、今の育児論から言えば嘘ばっかしですよね。
 本能や祖母・母から受け継いだ子育てではなく、高度に管理された「知的な新しい子育て」です。大人の都合のいいように子供を育てたって大丈夫だよという考え方、それから大人がゴチャゴチャしなくったって子どもはもともと素晴らしく育つ力を持っているんだから、それを信用して大人はあまりああしろこうしろと思わない方がいいという考え方ですね。これが入ってきて、日本では今までこうしてたのが、急に極端にこっち向きに。これは日本の特長ですね。なんで中間ぐらいでいかないのかなと思いますけれどもね。振り子が端から端へ振れてしまいますね。こうやって育った子供たちがいかにさびしく育つかということですね。現代では、体温異常とかアトピー、ストレス過敏、キレるなどの原因ではという説も出てきています。
 これも科学的データがないので、人間の体をずっと触り続けているある人の感想ですが、つまり整体師の方があるところでおっしゃっていましたが、子供の時の皮膚接触での満足感、抱かれたとかさすってもらったとか、ポンポン背中を叩いてもらったとか、くっついてたとかなんでもいいんですね。それが足りないと、ある年齢を超えてからも皮膚接触を求める傾向を持つんだそうです。だから、簡単に肉体関係になったりとかですね、色々ととにかく別にそういうことがしたいということよりも、誰かと肌をくっつけていたいと思ったりとかですね、色々ある。勿論そうなるばっかりじゃないですよ。それは、僕だって子供の頃、僕は母子家庭ですし、親は忙しいですし、それこそ放ったらかしで育ちましたけれども、別にそう肌を恋しがるという風には自分ではそんなに思いません。けれども、ひょっとしたら無意識のどこかに隠れているのかもしれませんが。その整体師さんはそんなことを感じると言うことですね。マッサージを受けたがる人はそんな感じがするというんですね。とにかく触って、生の肌で触ってもらいたがるそういう人たちがいるというんですが、あんまり言うと差しさわりがあるといけませんね。だけどそのぐらい、子供たちはそういうものが嬉しいんですね。本当に小さい時には皮膚の触れあいが嬉しい。そん
なところですね。
 私たちは、近代という時代に生きているわけですが、そういう近代という時代の持っているものの考え方ですね、合理的であるとか、効率的であるとか、あるいは個ということがものすごく大切になってきた。家族よりも個が大切という、そういう時代ですね。またこれは経済的にもそうです。資本主義というのは、家族が助け合って生きるよりも一人ひとりが独立して生きてくれた方が経済は活性化するんです。だから、地域が協力し、家族が協力し、親族が協力してね、「服なんか買わなくていいよ。うちのお下がりあげるから」とか言ってやっていたら、経済は活性化しないわけです。経済を活性化させるためには、一代限り、一人限り、個人で手に入れたものは人に分けちゃ駄目よという風に洗脳しなければ、資本主義というのは発達しないわけです。世界中そうです。先進国の経済大国ってみんなそうなんです。
 以前お話したかと思いますが、イギリスにレスター大学という大学があって、そこのエイドリアン・ホワイトという先生がイギリスのシンクタンクを使って世界幸福度ランキングというのをやりました。178カ国の順番を付けた。それは、インターネットでも見れますが、実は色んな幸福度ランキングがあって、何を大事にするかによって結果が全然変わってくるんですが、ホワイト博士のランキングのユニークなのは178カ国の1位から20番目の国に経済大国の先進国はただの一国も入っていないんですね。上位20カ国の共通項は、自然が豊かであるということとちょっと不便で人々が助け合わないといきていけない国ですね。そういうところの方がお金さえあったら一人で何にも困らないという国よりも幸福度が高いということですね。日本は90位ですよ。178カ国あって90番目です。こういう話を中学の生徒にしたら、随分ショックを受けていました。もっとずっと上だと思っていたと。なんで上だと思っていたかというと、日本は世界で2番目の経済大国だから。今、日本人全員が貯金を吐き出せば、日本政府の借金を全部返せるぐらい貯金を持っていますから、1400兆円あるんですよ、日本人の貯金は。ローンも何百兆ってあるんですけどね、300兆ぐらいあるのかな、400兆かな。でも、それを差し引いても1,000兆ぐらいある。そうすると国の借金が800兆とか900兆と言っていますから。というぐらいお金があっても幸福感が低い。
 この間からNHKで時々特集番組を組んでいる「無縁社会」というのがありますが、無縁社会というのは他の人間を頼らなくても生きていける社会です。つまり、お金さえ持っていれば衣食住に困らず、あらゆるサービスをお金で買うことができる。私の知っているあるおばあさんは、一人暮らしでもう90 を超えているんですが、大金持ちなんですよ。僕のところのお寺の門徒さんではないんです。もうちょっと早く知りあっていれば、うちのご門徒さんになっていたんですが、知らないもので手近なところのお寺に何百万円か払って、永久にそこで供養してもらうように契約をして、納骨室も事前に購入して、そういう風に準備をしていて、ほとんど家から出ることがないんです。マンションで一人暮らしているんですね。ありとあらゆるものを配達してくれるし、電話一本でお金を払えば買い物をしてくれる人とか便利屋さんみたいなのはいくらでもあるわけですね。月に1回か2回病院に行く時だけタクシーを呼んで、それも電話をすれば来ますから、それで下に降りていって、お金を払っているという生活です。そういう人が亡くなっていた時に誰が気が付くんだろうかという、そういう状態で亡くなる人が今日本では3万2千人。無縁死ですよ。無縁死というのは、ご遺体はあるけれども、引き取り手がない。お葬式を出してくれる人がいないというご遺体が、1 年間で日本で3万2千人です。そのうちの1,000人は警察がどれだけ調べても、名前も分からない。昔はこういう人たちは、行旅死亡人と言って、生き倒れの人ですね。でも、今は無縁死専用の特殊清掃業者とかがいて、残った財産をちゃんと処理したり、なんやかんやするのが職業として成立するぐらいなんです。3万2千人ですよ。自殺される人の数が3万2千750人ぐらいでしょう。
 という世の中に、良かれと思ってみんなで来たわけですよ。お金さえあれば24時間店は開いているし、物を買うことも、食べることもできる。家にいてインターネットでなんでも宅配で物を買うことができる。そうすると、お金を持っているものには困ることの少ない、自分の都合よく生きていけるような錯覚と言いますかね、そういう風になってしまう。人に助けてもらわなくても生きていけるという風に、いつの間にか思い始めるようになってしまう。
 そうすると、それが例え家族であっても、わずらわしいものはいてほしくない。あるいは自分にとって都合のいい間は受け入れるけれども、都合が悪くなるともういてほしくないというようなことですよね。そうすると、お年寄りのための施設とか色んな病院とか、今ね、私の身近に特養の老人施設で働いている人がいるんですが、虐待しそうになるって言いますよ。本来なら精神病院に入るべき状態で、そういう診断もあるんだけれど、ご存じの通り日本の精神病院は満床で、余裕がないですから。そうすると認知症の老人に混ぜて特養に入れてしまったりしているんですね。そうすると、殴られるわ、蹴られるわ、噛まれるわ、唾を吐きかけられたり色んな事がいっぱいあるそうです。それで、施設長や指導員からは一切手を出すなと言われているけれども、してしまうかもしれないと、この間言っていました。この間、そこの施設長に電話をしたら、空いたところがありましたので精神病院に移ってもらいましたとか言っていましたけれどもね。そういう人たちを、本当にたらいまわしというか、あっちこっちに自分の傍からは離してしまおうとする。そういう物の考え方、つまり都合の悪い人は排除というか、認めないというか、否定することになっている。そういう発想が近代という時代の中でも、特に経済大国になって、私たちの
ところに来てしまっているということですね。
 ちょっと話を元に戻しましょう。「今熊野セミナー」と書いてあるプリントの左のページですが、この人材について先ほどお話ししましたけれども、人材は子供で言えば「いい子」なんですよ。
 私は平成9年にここの校長になったんです。田舎で住職をしていたんですが、突然やれと言われて、校長になった。その頃、お年寄りといっしょに田舎生活しながら、ずっと人材という言葉が引っ掛かっていたのですが、学校へ来てみると、子供というのはそういう言い方で言えばいい子なんですね。そういういい子がどんなご苦労をしているかということを、本当にいろんな場面で感じさせられましたね。
 力関係がありますから、子供は親から見放されたら生きていけませんので、本当に生まれてしばらくの間に、喋ることよりも先に生まれた子供は親の機嫌を取ることを覚えます。機嫌を取るというのかな、にこっと笑ったら母親は喜ぶとかそういうことをどんどん学習していくわけです。
 そろそろにっこりしないといかんかなとか計算しているみたいですよ。抱っこしてずっと見つめられるというのは、これが大変なプレッシャーなんですよ、小さい子供にとってみれば。もちろん、それはある意味ものすごく大事なんです、今の世の中では。あまりにも子供の顔を親が見ていない、見ていない親がたくさんいるから、そういうことで言えば、もっと子供を見ましょう、見つめましょうと言うんだけど、一昔前だったら、やっぱりそれがすごいプレッシャーだったということですね。
 龍谷大学の何とかいう先生、そういうことを研究している人がいて、新聞だったかに書いていましたけれど、おんぶがいいんだというのはその人の主張ですね。おんぶしているのは、子供が親から一切顔を見られない。だから、ものすごい気楽なんですって。完全に野次馬ですから。抱っこは顔を突き合わせていますから、プレッシャーなんですね。お母さんなんか嫌いという雰囲気を出せませんしね。時々ニコっと笑ったら喜んでくれる。これは結構疲れるそうなんですよ。
 長いとですよ。足りないのはもっと駄目ですよ。おんぶがいいんです、皮膚接触は嫌と言うほどしているわけですからね。親も皮膚接触をしていると、分かる。僕は男だから分かりませんが、おんぶぐらいはしたことがありますが、もうそろそろオシッコに行きたがっているなとか、こういうむずむずの動きは、次はこれをしたいんだなと分かりますから。オムツだってそうですよね。
 貧しい国の映像が出た時に、幼い子供が下半身スッポンポンで走り回っていて、不潔だなと思われるかもしれませんが、あの子供たちって本当に歩けるようになったらほとんど粗相をしていないんですよ。今日本のようにオムツをあてて、いつどんな時でも出し放題してもいいよということにすると、子供が自分でコントロールするということなんか、なかなか身につかないわけですよ。何もなしで育てると、それは随分親も子も敏感になるそうです。なかなか日本の社会の中ではしにくいでしょうが。
 ちょっと話が横にそれましたが、その子供たちが丸丸、丸ごと安心していられるということが、なにより大事です。それはそうですよね、それがなかったら生まれてくることはできないですよね。人間ってね。生まれてきた時に誰も引き取ってくれなければ、生きて行くことができないんですから。それが分かっていたら、生まれるかどうか。どうですか、みなさん。だけど、安心して、自分で移動することも餌を取ることもできない、この自分があらゆる動物の中で最も未熟と呼ばれる状態で生まれてくるわけです。それは、間違いなく自分を受け止めてくれて、自分をそれこそ命を差し出しても守り、育ててくれる人のところに生まれてくるんだという安心感があって、そしてそれが受け止められて、そしてしばらくの間に私が生まれたこの世界はいいところなんだ、人間の世界はいいところなんだ、私は家族として迎えられているんだ、みんなが私が生まれるのを待ち望んでくれていたんだ、私が生まれた時に色んな人が喜んでくれたんだ、今も優しいメッセージを送り続けてくれているんだというのを生まれてから当分の間にきっちりと、子供が浴びていると、その後が随分違うということが言われますよね。それが不十分だと、後で取り戻すこともある程度はできるんですが、不十分だとどんなに成功しても不安ということが一生付いて回るんですよね。
 前も言いましたけれども。そういうのがデータで出る方法があるんです。オムロンなども人事関係に使っているそうですが、CQというものです。12項目あって、人を信用する度合がどれぐらいとか、コミュニケーションを自分から発信するのはどれぐらいとか、基本的な安心感をどれぐらい持っているかとか、12 項目あってそれがチャートに出るんですね。それに詳しい人に説明してもらうと、たとえば京大の理学部のある教室で全学生にやらせているそうでして、その分析をそこが受け持っているらしくて、名前だけを隠してデータを見せてくれたりするわけです。「どう思いますか。この子、めちゃくちゃ優秀なんです。だけど、どこの会社に行っても、絶対に続きませんよね」というのがわかるんです。つまり、それを見ると、きつくしかられたら潰れる子とか、少々しかられても大丈夫とかそういうのが出るんです。僕もやりましたけれども、質問が120項目ありまして、イエスかノーかで答えてメールを送ると、翌日メールで向こうから送ってくるんです。
 また横へそれましたね。さて、私たちはいつも何を見ても、判断するときの基準というか物差しは「私の都合」です。私たちの最大関心はいつもこの私であるということですね。そうするとあらゆることがプライベートなことになっていくわけです。今話しているのは、右側のぺージの現代日本という辺りです。さっきの資本主義というのは、自分が手に入れたものは人に分けないようにしましょうという考え方ですから、それぞれ一人一個ずつしましょうという考え方です。
 自分が得たものは分けない。ところが家族というのは違うわけです。家族というのは、分け合うのが家族だし、助け合うのが家族だし、認め合うのが家族だし、順番を付けないのが家族だし、評価しないのが家族だし、評価というか数字で比べないのが家族なんです。京都の伏見稲荷のところに伏見人形ってあるでしょう。ご存じですか。小さな子供が二つに割った饅頭をこうやって持っている人形。土で作った素朴な人形ですが、あれはお父さんとお母さんとどっちが大事とか、どっちが好きと言われたのかな。それで饅頭を二つに割って、比べられないと子供が答えたということですね。子供の方はお父さんとお母さんと比べないようにしているのに、親の方が子供を比べたりしてしまう。それで、圧倒的な力関係の中で、弱い子供は強い大人のできるだけ気にいるようにしていれば安全が確保されるということを雰囲気の中で感じてしまうと、そういう風に振舞うようになっていきます。元々持っている性格がありますから、必ずしもそうばかりではないんですがね。
 だけど、さっき言いました本当の安心感というところにいると、割と天真爛漫に育っていくわけですね。つまり、天然のままでいても家族の中で誰からも責められない。しかし親はなかなか子供をなんでもいいよと見ることはできないですよね。それができるのは、ばあちゃんやな。ばあちゃんは「0点取ろうが100点取ろうが、あんたはワシにとって可愛い孫以外の何ものでもない」と、これがとっても大事なんです。できたことの成果で自分の価値づけをされないということですね。100点を取ったら喜んでもらえるけれども、0点を取ったらご飯を食べさせてもらえない。ある訓練の途中で、信頼関係がある上でそういうことをやるのはいいかもしれませんが、それが基本原理になってしまうと、大変なことになってしまう。順調なうちはいいんだけれどということですね。
 それで、縦書きの方に書いてある事件のほとんどは、1番と書いてありますね。下にたとえば茨城県水戸市の事件、茨城県土浦市の事件、それから奈良の事件、こういうのは1 番と書いてあるでしょう。1 番というのは、左のページの①の教育家族です。この1,2,3,4 の分類は芹沢俊介さんの分類です。芹沢俊介さんがこの本の中で、他のページで書いてあるので、今私がここに書き足したわけです。教育家族というのは、現代の日本は多かれ少なかれみな教育家族の面は持つわけですが、その左のページの2004 年11 月24 日以来の親殺し事件という部分の①教育家族、エリートを目指す。ここで子供たちが一番つらいのは比較されるということ、数字で評価されるということですね。つまり、成績が上がれば子供の評価は上がるし、下がれば評価も下がる。そうすれば上がっている間は安心して生きて行けるけれども、下がり始めると、家にいられなくなっちゃう。特に家庭の目標と言いますかね、子供はみんなエリートにならなければならない、そこに書きましたけれども、馬鹿は家庭にいる価値がないんだという風にみてしまうと、子供は「殺さないで」と書きましたが、私を否定しないでということですね。認めてということです。あなたの思った点数を取れていない私だけど、認めてほしい。あなたも家族として大事な一人よと見
てほしいということですね。教育家族って分類される特長は、条件付きなんですね。いい子であれば褒められる、認められる。成績が良ければ、つまり親の出す条件を満たせばということで、本来家庭というのは無条件に認められる場所でなければならないにもかかわらず、そこに安心できないようにしてしまうということですね。
 それからもうひとつは、父親が威圧するか監視するかみたいな感じで、お目こぼしがない状態ですね。ホッと息抜きとかね。子供は子供の世界にある程度任せてしまった方がいいんですが、子供の世界の隅々まで親が監視して、アカンと思ったら指導が入る。たとえば、奈良でお父さんお医者さんでというのがありましたよね。母親と妹たちを焼き殺してしまった事件ですね。あの事件は、とにかくエリート教育をずっと受けるわけです、子供がね。奈良県ではトップの中高一貫校に入る。親は鼻高々ですよね。ところがそれまでは、トップクラスなんですが、そういう子ばかり集まっているわけですから、成績が下がっていく。そうすると、親が自分を見る目がだんだんとディスカウントになっていくんです。父親は暴力もふるう。しかも、7 歳の時ですか、お父さんとお母さんが離婚するんですね。で、新しくお母さんが来られて、新しいお母さんとの間に子供がまた生まれて、その3人と比べて自分だけがはじき出されたような感じで、成績がいいということでかろうじて家庭の中での位置がキープされていたのが、本当にいる場所がなくなった。
 また、その新しく来たお母さんもお医者さんなんですね。
 それからね、②親の離婚、これは本当に随分多いので、それはそれぞれに事情があると思いますから、必ずしもいいとか悪いとか言えないんですが、だけど、子供が少なからず傷つくと言いますか、喪失体験をすることは間違いないです。それを乗り越えられる子もいるし、乗り越えられない子もいるということですね。家族和気あいあいとしている中での自分というものを、子供はそういうイメージをとっても大事にしていますから、お父さんとお母さんが別れてしまって、どっちかに付きますから、どっちかを失うわけですね。そうした時の喪失体験というのは、たとえば父親と別れたというだけではなくて、父母と自分と、という一体感のところにもう戻れない。
 あれはなくなったんだというね。そういうことですね。その時に大事なことは、子供もちゃんと尊重して離婚協議とか色んなところに参加させるというか、ある程度ちゃんと話をさせるということですね。これは大人の問題なんだからと言ってやってしまうと、家族としての自分というものを無視され、否定されたと受け取ってしまう。とにかくそういうものを持つわけです。時には、その話を聞いた途端に自分が悪い子だから、親がそんなになってしまったんだと、自分を責めるケースもかなりあるということですね。両親というのは、やっぱりベースキャンプみたいなものですから、そこが安定してないと、その上に成長する子供の安定もなかなかできないですね。一輪車で走りながらという状態では、バランス取るのが精いっぱいという状況のところで、希望に向かってがんばれと言われてもなかなかできないところがあるわけです。
 ③の対人関係重視というのは、色んな子供がいるわけですよ。友達といた方が楽しい子もいるし、一人が全然苦痛ではない子もいるんですよ。でも、世の中の価値観として、今とにかくコミュニケーション、コミュニケーションということが言われて、友達、集団というか、多数派の価値観に所属していないと、いじめられたり、仲間はずれにされたりということがついつい日本ではなってしまいます。親も、友達が多いんだろうかと心配するし、クラスで浮いていないかと心配するし、もっといえば、うちの子は担任の先生やクラスのお荷物になっているのではないだろうか、ということで、親がそれを思えば、子供はそれを感じますから、親がそう思っているなということは感じますから、しんどくなってくるわけですね。そうすると、そういうところに行きたくないとか、色々なっていくわけです。この時に子供は大体二種類の動きをします。一つはそういう集団に行かなくなるか、一生懸命演技をしてがんばるかです。仮面を被ってよろいかぶとを着て、一生懸命合わせて。「合わせて」ということは自分を殺して殺してということですね。これがものすごくエネルギーを消耗するんです。それで、エネルギーが続く間はできるんですが、エネルギーが続かなくなると、にっちもさっちもいかなくなる。
 そのページの上の方に「自分を殺して生きている子供たち」と書いておきましたけれど、いい子を演じるエネルギーが続く間はなんとかやっていくんですが、そのエネルギーがだんだん枯れてくるんですね。そうすると周りの期待にこたえることはできない。といって自分自身を生きるということをしていないわけですから、私として生まれて私として生きているということに自信もないし、そういうことをしてこなかったわけですから、私が生きている意味はどこにあるんだろうかということになっていって、それが暴力という形で出てくる、あるいは何もしない。どっちかになることが多いですね。
 それで親殺し事件のかなりのパーセントで、その前に家庭内暴力みたいなことが起こっています。家庭内暴力を無理やり押さえつけると、何と言うのかな、それが見えなくなって、しばらくしてこういう極端な形で出てしまう。恨みが消えたわけではないし、怒りが消えたわけではないし、憎しみが消えたわけではない。それは出入口を閉じると、濃縮されていくんです。お腹の中でね。だから、カウンセリングとかがとっても大事なのは、出すことです。子供たちに溜めこませない。なんか雰囲気がしんどくなってきましたね。親殺しまで行った事件を話しているわけですから、それは極端な例かもしれませんけれども、多かれ少なかれ、家庭の中で気付いて欲しいということのために話をしているということで聞いてください。
 それから④の場合ですが、縦書きに書いているものの3番目ですね。東京板橋区の両親殺害、父親を鉄アレーで。8キロの鉄アレーですからね。もし頭だったら殴った途端に頭蓋骨陥没ですね。
 この両親は何をしていたかというと、社員寮のような寮を経営している。経営じゃないです、社員寮のまかないをしているんですね。お父さんは、それがとても不満で、俺はこんなことをする人間じゃないんだということをずっと思い続けているわけですね。それで、子供にそれが全部あたるわけです。命令して嫌なことをさせて、気にいらなかったら殴るということをずっと続けていたんですね。それで、また子供は母親に暴力をふるっていたんだけれども、母親はそれを父親に一切言っていなかったんですね。ですから、子供が母親に対して家庭内暴力をしているということが、全然子どもの問題解決する何の方法にも手立てにもならないという状態ですね。母親にはしているんだけど、本当に憎いのは父親でというようなね。
 ④の話は結構いろんな場面でありますね。最近はちょっと少なくなったんじゃないかとは思うけれども、父親が社会的に、実際はそんなことはないんだけど、本人が自分は馬鹿にされているという風に思っている、感じているという時に、子供が愚かな行為をした時に、本当に許せないほど腹が立って、暴力を振るったりということが、私の田舎の様子を見ていても、そういうことがありますね。あるいはそういう人が親の介護をしていたような時に、親に暴力を振るうということですね。
 僕らのところの田舎は本当に不便なところで、何と言うのかな、親はね、子供たちに「しっかり勉強しないと、ここに住まなくちゃいけなくなるよ」というような物の言い方をするわけです。ということは、成功した人たちが出ていって、成功し損ねた人が島に残っていると島全体でみんなで思わせるような空気があるんですよ。なかなかこれが変わらない。だから、島に住んでいる男たちがみんな劣等感を持っているんですよ。お前たちは島の外で戦えないから、島の中で偉そうにしているだけじゃないかみたいな。で、結婚していなくて独身も多いんですよ。独身の40代、50代がいっぱいいるんですよ。いっぱいって言ったって総人口が少ないんですが、比率でいったらすごいですね。独身率はすごいと思いますよ。あるいは都会で結婚したんだけれども、離婚で帰ってきた人とかね。そういう状況で、男の人が一人で暮らしていて、そこに年老いた父親が一人でいて、その父親の面倒をみないといけない。自分のできる仕事は限られていて、ちょっと魚を釣って近所の人に買ってもらって、正式な漁師さんでもないしというような状態で、収入もままならない。なんやかんや役場に生活保護をくれといっても、なかなかどうのこうのと、書類の書き方の不備があるとか。そういう怒りが全部父親のところにいくんですね。で、その家の近所
の家なんかでも、その父親を殴る音が聞こえているんですが、手を出していいのやら悪いのやら、またこの人が逮捕でもされたら、父親はどうなるんだと心配している間にですね、色んなことがあります。が、そういう色んな鬱屈した自分の中で処理しきれないものが、弱いところに出てしまう。
 それで、親はどうしてもいい子である、つまり親の条件にかなう状態を期待しますから、子供からすると、プリントの2004年と書いているところの4行上ですが、子供からすると、親がいい子を生きろと命ずるから、親のさせるままに生きてきた。その結果、自分はエネルギーがなくなったんだと。動きたくても動けない。それを親はお前は引きこもりや、ニートやとか言って、否定的に圧力をかけられる。追い詰めておいて、さらにその状態を否定してまた追い詰める。そうすると、それが自分ではコントロールできない怒りや憎しみや恨みになっていって、家庭の中が戦争状態になってしまうと言うような構図だと、芹沢俊介さんが言っているんです。人のせいにばかりしますけれども。真城は恐ろしいことを言うやつだと。だいぶん私の意見も入って喋っていますが、そういうことなんですね。
 ということで、私たちは、やはり少なくとも家族の中では、仏教的にいうとどの子も仏様から丸まる肯定されているんだ。子供だけじゃないですよ、大人もね。そういうところに立つ。大きな安心感、基本的安心感、原信頼と言うんですが。プリントの右のページの下のところに子供が育つには三つの体験が必要というところがありますね。子供が育って、自立力と共存力と両方とも身につけてほしいわけですよ。自分として生きるということと、ともに生きるということの両方。そのためには、三つの体験が必要だと。第一が親子体験で、自分はこの親から守られているんだ、愛されているし、望まれているんだ、無条件に肯定されているんだと。「どんなになってもあなたはうちの大事な子よ」ということですね。基本的にはですよ。そこから先なんの注文もつけちゃいかんと言っているわけではないです。そんなことはできないですよ。だけど、まずはベースを肯定する。否定しない。 
 先生方にも言っているんです。たとえば校門指導をする時に、まずは挨拶して認めて、その次に「お前、ネクタイがどうや」とか「スカートがどうやとか」言いましょうと。とにかく顔を見るなり、「お前こっちこい」とやるんじゃなしに、まずはあなたは大谷の大事な生徒だと認めた上で、「大事だからここはちゃんとしましょうよ」ということを時々言っているんですが、なかなかね、いきなりというのが身についていまして、みなさんの大事なお子さんをお預かりして、申し訳ないことですが、今訓練中ですので。というか、本当にそうなんですね。学校って、成長してもらわなくちゃいけないし、学力つけてもらわなければいけないし、運動能力を高めてもらわなきゃいけないしということがありますからね。そんな生易しいことを言っていたらということはありますから、そこのところのバランスがあるんですね。ですから、あまりどこの学校がと言っちゃいけませんが、とにかくスパルタ一本でいって、勉強しないようなものは存在する資格がないんだというように子供を追い詰めちゃうと、学校にいられなくなって退学したり、そしてそれは親が望んでいないということを知っていますから、そうすると今度は外に出られなくなってしまったりとか、自分を傷つけたり、もっと極端になると自殺も含めてですね、というふうな追い詰め方を、大人の社会が子供に向かってしてしまいがちだということですね。こういうことを私たちはやっぱり知っておかなければいけないなと思いますね。
 右のページに「天上天下唯我独尊」と書いてありますが、天上天下の「天上」というのは、恵まれた状態、順境のことを天上だと考えてください。「天下」というのは逆境、なんで私ばかりこんな目に遭わなければならないんだという辛い時。つまり天上天下というのは、「どんな状態であっても」ということです。「唯我」というのは、かけがえのないあなたという意味ですね。代わりのきかない、代行不能です。秋葉原で無差別殺傷をした容疑者は、会社から「雇う相手は誰でもいいんだ」と、こう言われているわけですね。我々は労働する人が欲しいんであって、お前が欲しいわけじゃないと会社から言われているわけです。誰でもいい。そうではない。あなたじゃな
ければ困る、それが唯我です。だけど私たちは、機能だけを、何ができるかという機能だけを見てしまう。人間そのものの価値というのを見ない。ですから、機能が衰えていくと、お年寄りが自分のことを「つまらんようになりましたわい」と、こう言わざるを得なくなってしまう。
 「摂取不捨」はセッシュフシャと読むんですが、これは仏様(阿弥陀如来)は、どんな人も捨てないということです。私たちは自分の都合という物差しで価値判断をします、評価をします。それは仏様から見たら、まったくどうでもいいことです。取るに足らないことです。もっと大きなところで、人間には生きているあなたには価値がある。どの人も必要があって生きているということですね。それを分かりやすく言えば、「選ばず、嫌わず、見捨てず」。この西洋の近代の物の考え方の基本は、「我思う、ゆえに我在り」。“I think, therefore I am.”ですね。ラテン語で"cogito ergo sum"(コギト・エルゴ・スム)。こっち(私が知恵で考える)が先というのは西洋の考え方です。人間が物を考えることができる力を手に入れたために、人間は他の動物と違ってこうして文明を築くことができた。科学を発展させ、産業革命を起こし、経済金融システムを作り、それから近代の、近代国家が成立し、政治、外交、軍事、教育、福祉、あるいは法律の整備を知恵によってやったわけです。「思う」ということでやったわけです。これを極端に進めると、これができなくなったら人間は生きていても、死んでいるのと一緒だと見る。
 これは「脳死」です。この脳(考える)というところから、「する」とか「できる」とか、その結果としての「成果」というものがあるわけです。このやったこと、できたこと、その成果によって人間を価値づけていこうということですよね。これが基本的な物の考え方で現在一般化していますね。ヨーロッパ近代の考え方、価値観です。
 仏教や東洋のものの考え方は逆なんです。私が人間としてこの私として生まれたということは、説明がつかない、不思議としか言いようがない。不思議としか言いようがないけど、私が人間に、この私に生まれた事実がある。この私ができることがある。だから、私が私として今生きているということに対して、安心できるという状態があった上で、自分に与えられたこの能力ですね、機能とか、あるいは資質、こういうものが安心感の上で発揮できるんだということです。
 勉強でもそうなんです。3月だったかな、現在はアビリティ・トレーニング(アビトレ)という会社を経営している木下晴弘さんのお話を聞く機会がありました。希学園とか浜学園とか、灘中に何人入れたかというのを競争している塾がありますよね。その塾が立ち上がって行く時に中心的に活躍したカリスマ講師の人がいるんですね。数学の先生で木下晴弘さん。この人たちが、子供たちがどうすればいちばん勉強するだろうかということを徹底的に考えて研究するわけです。
 最初はここ(考える→ する・できる)を一生懸命やるんです。どうやって、できるようにするか、させるようにするか。どうやって分かりやすい授業をするかと一生懸命やってみるのですが、限界がある。結局、色んなことをやった挙句、最後に到達したのは、何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、何に向かって生きているのかと、子供たちが考えるようになった時に、ものすごい勉強をし始めるということに出会っているんですね。そこの塾では、先生方の勉強会があって、オープンで子供たちに見せるんです。先生方がどんなに必死で勉強しているか、勉強した時にどんないい感じになっていくのかということを子供たちに見せる。そうすると子供たちに火が付くんですね。燃え始める。
 ですから、最初は本当に一回の授業で3回感動させるということを木下さんはトレードマークにして、徹底的に準備をして、色々と小技のネタですね、生徒が喜ぶようなものを持っていて、いいタイミングで出すわけですね。(そういうのもインターネットで今有料で配信していますが。)それを彼は全教科用意するんです。たとえば漢字だったら、これは本当はこういう意味なんだけど、日本ではこうなって、ここにはこういうことが隠れているんだというようなことですね。
 そうすると生徒たちは、面白いと感じる。それを色んなところに入れている。でも限界がある。そういう外からのモチベーションには限界がある。モチベーション、やる気、これには外発的モチベーションと、内発的モチベーションというのがあるわけです。外発的って何かというと、報酬がもらえるということです。これをやったら、こんなにいいことがあるよということがあるというのは、外からのモチベーションですね。褒めてもらえるとか、成績が高いとどこそこの学校に入れるよとか、お母さんが何かを買ってくれると言うのはこの外発的モチベーション。これは長続きしないんです。
 内発的モチベーションというのは何かというと、自分はこうなりたいから勉強する。子どもたちに、どうなりたいのか、人間として生まれてということを色々と考えさせて、あんな大人になりたいというのが出来てくるとがんばれる。木下さんが言うには、内発的モチベーションが高い時の自習が子供たちは一番学力が伸びる。授業を受けている時よりも、内発的モチベーションが掛っている自習をしている時に子供たちは一番学力が伸びると言っているんですね。つまりね、大学に合格できるということは目標なんですが、目的じゃないんですよ、人生のね。この大学に入学して何を実現するのか、何を成し遂げるために大学にいくのか、だから大学はステップの一つですよね。もっと先。その時に、自分さえうまくなればいいんだというモチベーションよりは、他の人に喜んでもらえるような人になりたいというモチベーションを持つ子の方がはるかに高くなっていく。そういうのを木下さんたちは色々経験してきたわけですね。塾としてエリートを目指させているわけですから、どうなんだということを子供たちにやるわけです。人から感謝されるようになりたいと思わないかということをやるわけですね。人から感謝されるためには、人のためにならないと感謝されないよなということを言って、そういうことを頻繁に考えさせている
んですね。
 それで、また話を元に戻さないといけませんが、子供が育つには三つの体験が必要と、親子体験の話をしているうちにどこかへ行ってしまったんですが、まずは第一段階は原信頼。何歳になってもですよ。お年寄りでもそうです。今、老人性うつの人がものすごくいるんですが、その人たちは責めると悪化するんですよ、病状がね。だけど、責めずにいられないんですよね。「ばあさん、またか」とか言いたくなるじゃないですか。「この間言ったじゃないの」と。そうすると、自分の粗相を全部隠すようになるし、誤魔化すようになるし、嘘つくようになったり色々するんですが、そんなところですよね。とにかく子供の時代に、間違いなく自分は親から守られてる、大事にされている、愛されている、肯定されているという、これが本当のベースです。
 ストロークメッセージというのは、勇気づけるメッセージなんですが、肯定的ストロークメッセージと否定的ストロークメッセージがあって、否定的ストロークメッセージというのは叱るとか、指導するとか、変更させるというようなものです。今のあなたは駄目だよ、こうしなきゃと言うのが否定的ストロークメッセージなんです。だけど、それはベースとして愛情というか、そういうものがあってなんです。子供たちがわざと悪さをしますよね。わざと悪さをするのは、否定的でもいいからストロークメッセージがほしいんですよ。叱るという形でもいいから、こっちを向いてほしい。何か声をかけてほしい。叱るでも怒鳴るでもいい、とにかくノーメッセージが一番つらいわけです。ディスカウントメッセージも辛いんですよ。お前なんかというのは。改めてそういう目で見てみると、私たちの言葉とか振る舞いというのは、中には結構ディスカウントメッセージが含まれているなと、自分も含めて思いますね。
 で、まず基本的に、あなたをあなたとして認めるよ、認めているよというのがあった上で、成長に必要な二番目の体験は、世の中は思い通りにならないもの、不如意、意の如くならずであるという体験。うまいこといかんもんなんやでと。そうなつていると、たまにうまくいくと、それが喜びにも感謝にもなる。自然体験ともいいます。自然は不如意ですし、私たちの無力を思い知らせてくれます。
 それで、三番目は、他者体験と書いてありますが、つながり体験ですね。他人の力を大事にすることで、共に生きるということで、色んな事が出来るんだということを実感する。昔で言えば、異年齢とか障害とか色んな体の状態の子と遊びを共有する。遊び場だって今のように安全が確保されているものじゃないわけですから、そんな中でみんなでルールを決めて遊ぶ。一緒に遊ぶ。よその子の面倒をみないといけない。怪我をしたら、そのことも考えなくちゃいけない。よそのお兄ちゃんの言うことを聞かなくちゃいけない。このことが後に子供を育てる時の予習になっていくんですね。そういうことをどこかで意図的にでも経験させないと、なかなかね。そうやって一人で生きていく力というか、自分を大切にして自発的に生きる力と、他者と共に生きる力とが育っていく。不如意の現実の中で、つながりを大事にすることで進んでいける。
 子供たちにもよく言うんです。先生に見つからなかったとか、大人に見つからなかったって思うかもしれないけれども、自分が見ているじゃないかと。自分がやっていることを自分が許すのか許さないか、そっちの方が大事だよという話を始業式や終業式でするんですが、他人に見つかったとかということでなしに、自分の不具合なことを自分で許せば許すほど、自分に自信がなくなっていくんですよ。自分はどんなに追い詰められても、このことだけはしないっていうことを自分として誇りに持っていくことはできるのか。いつも他人の目だけで生きていると、見つかりさえしなければいいんだというところにしか立てない。それは本当に自尊感情という、セルフエスティームというのが駄目になってきますから。
 それで、右のぺージの「家族はセーフティネット」。今、家族の人数が少なすぎるから、かえって厄介ですね。昔の大家族の時には大概、家の中には勉強できない子もいるし、体の調子の悪い子もいるし、体が不自由な人はいるし、そういう子がいてですよ、誰もそれを責めたりせずに、この家族で生きることをお互いに前提にしながら、家族が成立し、そこにそれぞれが家族の一員としての色んな事があったんではないかなと思いますね。私たち大人が、自分が合理的だと思っていることを条件にして、当てはまればほめるし、そうでなければ否定するしということだとなかなかね、ということがあります。ですから、自分がそのまま自分であっていいと感じることができたとき、その安心感、安定感をベースに子供は次の第二ステップに踏み出していって、自分のやりたいこと、実現したいことをがんばろうとなっていくわけです。
 だから、こっちの「我在り」の方が先なんです。こっち(我思う)先で行くと、本当に息苦しいし、現代社会はこっちばっかりの社会ですから、ここで競争するわけです。競争して出来た方がいい目にあう。それが当たり前なんです。それは本当に、全体としてこの道を選んだんですから、ある程度仕方ない部分はあるのかもしれませんが、本当に私たちがなりたい世界、その実現の方向に向いているのかどうかというようなことですね。
 後ね、右のページの下の方に、割と話題になったいくつかの事件を挙げておきました。1997年の事件は有名な酒鬼薔薇聖斗を名乗った少年A という事件ですね。これも御存じだと思いますが、両親揃っているんですが、少年A はおばあちゃん子ですよね。おばあちゃんはどちらかというと丸ごと認めてくれるおばあちゃんだった。だから、彼はおばあちゃんが一番好きで、よく遊んでいたわけです。だけど、それがおばあちゃんが入院して死んでしまうわけですが、両親はお見舞いにいくよりも、塾へ行かす。彼をお葬式にも参加させていないんですね。お葬式にあんたは行かなくていい、あんたは塾に行きなさいといってね。ですから、おばあちゃんがいなくなったというのがうまく彼のハラに入らないと言うか、ハラに収まらない。お母さんお父さんは塾の方を選ぶ人ですから、そういうことになっていくわけですね。それで死ぬということの実感がわかないわけですよ。ですから、動物を殺すんですが、動物を殺しても死ぬという実感がわからない。
 で、人間を殺すようになるわけですね。
 あれもそうですね、2005年の豊川市の高校3年生の殺人というのも、人間が死ぬ時がどんなのか見てみたかったというので、自分の母親を殺すわけですね。あれもそうですよ。静岡県伊豆の国市のタリウム事件というのもそうですよ。自分の母親にタリウムを飲ませて殺すんですが、この子は小さいところから昆虫が好きで、動物が好きで、動物を殺したり昆虫を殺したり、色んな薬を飲ませて殺したりしているわけですけれどもね、ですからお母さんにタリウムを飲ませて、調子が悪くなっていく様子を淡々と、男の子の名前で出していたブログがあるんですが、そこに経過を本当に冷静に載せ続けていくわけですね。
 それで元に戻りますが、神戸須磨区の少年A の時に酒鬼薔薇聖斗が書いた作文が有名になって、そこに「透明な存在としての僕」という言葉が随分と話題になったんですが、これには意味が二つあって、他人から見えていないという透明感ですね。いるのにいないことにされてしまう。もう一つは、自分の色を出せば、いじめに遭ったり、叩かれますから、自分を一生懸命透明にしなければ生き苦しいという、二重の透明なんですね。1998年の事件は、女の先生が中学1年生にナイフで刺された話ですし、一番下の佐世保の事件は、御手洗怜美(さとみ)という子がインターネットの書き込みが元で同級生にカッターナイフで殺されると言う事件ですね。私はね、この事件があった後、佐世保に話をしにこいと言われて行ったことがあります。その前に長崎市で4 歳の子供を駐車場から突き落として殺した事件がありましたね。1年もたたない間に長崎県でこんな事件がまた起こって、どうすればいいんだろうかということで、各お寺が一人からでもいいから子供会をやろうというような話になったりしていました。僕は学校に勤めているということもあってか、なんか話をしろと言われて行ったんですが、その時にむしろ地元の人から教えてもらったことなんだけど、殺されたのは、御手洗怜美(さとみ)という女の子なんですが、少し離れたところの小学校にさとみという女の子がいるんですよ。この子に対して、天真爛漫な言葉なのかもしれませんが、「大久保小学校のさとみは死んだのにお前は死なんのか」ということでいじめに遭うわけですね。本当にいわれのないいじめなんですが、子供たちは全然ピンと来ていないわけですね。ただ、あのさとみは死んだのに、お前はなんで生きているんだと。それが子供たちにピンとこない、話をしてもなかなかということでね。そんなことが、僕らからすれば、子供たちにとってもものすごくショッキングな事件なので、それをネタにして自分の同級生をいじめるなんてとんでもないことだと思いますが、本当にさとみという子が学校に行けなくなってしまって、近くのお寺の奥さんが、「うちのお寺で預かっている。家から出ていくんですが学校に行けなくて、結局途中にあるお寺で時間を過ごしている、みたいなことをしているんです」とお話されている方がおられましたが。そういうことのあった事件ですね。
 2005年の豊川の、先ほど言いました、人が死ぬ時を見てみたかったと言って、母親を殺した事件の、その2 日後に西鉄のバスジャック事件があって、こちらの少年は「しまった先を越された」と言って、大急ぎでバスジャックをして人を傷つけるわけですが、ちょっとこの時代、そういうのが頻発しましたね。
 『親殺し』という本を、またゆっくり読んでいただくと、一つひとつの事件について非常に掘り下げた分析をされています。その中には、私たちがそうやな、自分もひょっとしてしていたかもしれないなというようなことも含めて、振り返る材料がたくさんありますね。と同時に、私たちが良かれと思ってここまで来た、このこっち(考える→ する・できる→ 成果)中心の競争社会であったり、近代的な物の考え方の社会というのが、何か大事なものがすっぽりと抜け落ちていくということを知らないといけませんね。こういう世の中において、自分の家庭の中において、家族一人ひとりがきちんと安心できて、それが安定的に続くというのがとっても大事なんですね。
 そういうことですね。
 さっきちょっと離婚という話をしましたが、岡山県に学芸館高校というのがあるんです。そこは理事長夫人が、理事長の奥さんが保護者教育係なんですよ。その人が保護者に、よくそんな話を聞かせるなというぐらい、昔の修身みたいな話をいっぱいするんですが、それが一種の魅力で、今人気校なんですが、そこはね、その理事長の奥さんが、入学式の後に保護者を残して、うちに入学された限りは、この3 年間はどんなことがあっても離婚してはなりませんということを言うわけですよ。それは割と有名な話です。それから学校に言い分があって来るときには、T シャツ・ジーパンは許しませんので、きちんとした格好で来てくださいとか、色々あるんです。その中で面白いなと思ったのは、3年間離婚するなという話。3年後はいいよというわけではないでしょうが、子供たちの安心の根拠というのはやはり家庭にあるわけですから、もしそうせざるを得ないことは起こった時、その時にどれだけ子どもと話ができるか。納得できないにしても、あなたは例えば、もうあの人と会っちゃだめよじゃなくて、親は離婚したけれども、子供にとってはどっちも親なんだから、いつでも会えるよという、チャンネルが開かれている、そういうケアがなければならんなと思います。勿論、そうは言っても状況状況がありますので、そういうことであり
ます。
 そんなこんなで色々お話しをしましたが、子供たちは親をじっと見ています。と言ってビビったり何もできんわと硬直してしまうんではなく、あなたが大事だからこそ、そんな風に育っていってもらうわけにはいかんのやということはちゃんと伝わりますから。ということで、今日たくさんお見えになった人たちの中には、身に覚えがあって、私は殺されるんじゃなかろうかと不安を持っているかもしれませんが。でね、大概のことはある程度のことは回復可能だと思います。
 ここまで来たからどうしようもないということではなくて、一生懸命話をすればいいと思います。あまり理屈を言わずに、正直に大事なもの同志、不十分なもの同志がいるんだなということだと思いますね。芹沢俊介という人が一番影響を受けたと思われる精神科医の、あるいは小児科の先生がいて、ドナルド・ウィニーコットという先生がいるんですが、この人は、一番大事なことは、「ほどほどに良い子育て。完璧なんて絶対に目指しちゃいけない」と言っていますね。ほどほどに良い子育てをしましょうと言っていますね。このお医者さんも、こっち(我在り)が先だと、Beingの方がDoingよりも先だ。何をやったかということよりも、あなたがあなたとして存在しているということの方が、そっちが先だと仰っていた方です。そんなことで、ちょっとシビアな話もあったし、みなさんにとってちょっと差し支えがあった話もあったかと思います。言い方が悪くて、辛くなった方がおられたら申し訳ないと思いますが、こういう構造的なことで子供たちは殺意に至るほどの辛さと言いますかね、そういうものを抱えることがあるんだということを知ってほしいと思います。以上です。



もくじ   3kaku_s_L.png   [Ⅵ-A] 臨床現場からのレポート(1) DV・児童虐待。暴力と精神疾患
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  • 【<産経新聞>「人の思い出捨てるのがボランティアなのか」 GWで現地入り 悲惨な現実に言葉失う】へ
  • 【<ダイヤモンド・オンライン>社会復帰を阻む、心の傷。「児童虐待」のトラウマに苦しむ人たち ――虐待の傷を超えて 】へ