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[Ⅶ-20]<ことば>プレス。道徳・教養、思考。心の肥やしを「知識のひきだし」に

<SYNODOS JOURNAL >東日本大震災と日本の転機(3) 何が「正義」なのか?

 
 <毎日新聞>DV:「不起訴不当」議決 せめて真相を知りたい 父、再捜査に望み /北海道 <SYNODOS JOURNAL>東日本大震災と日本の転機(2) あらゆる主体は「偏向」している
4月25日(月)13時23分配信

◇「公共へ開かれた対話」へ◇
 では、異なる立場と、異なる論証手段をもつ者が、いかに妥結し合意に至ることができるのか。何が「合意」で、何が「正義」なのか(多数の人々が同意することなのか、倫理的に正しいことなのか、経済合理的なことなのか、環境負荷の低い方なのか等々)。
 こうしたことを考えると、「公共とは何か」という抽象的な問題に接近せざるをえない。つまり、何らかの物差しである種の優先順位をつけること、およびその決定について構成員の合意形成を図ることである。この部分を抜きにしたまま、各種の専門家が「真実」をいくら標榜しつつ論争しようとも、流言がおさまることも、政治的な不安定さが改善されることもないだろう。
 かといって、思弁的に「公共」を考えることのみで、人々の「信頼性」をえることができないのももちろんである。結局の所、さまざまな専門をもつ者が知恵を結集する必要がある、としかいいようがない。
 しかし現実には、低次元のレッテル貼りと罵り合いが、「知識人」のあいだですら、盛んになるばかりである。今回の震災に、知識人の多くは、無力感にさいなまれているのではないだろうか。それは、自身の「信仰」が世に広く受け入れられない、あるいは受け入れられるはずがないことを自覚させられた、といった挫折感であるだろう。
 しかしそうした挫折感は不必要であり、「信仰」を脱し、自らの拠って立つ「偏り」に自覚的でありつつ「公共へ開かれた対話」へ向かうことを考えるべきなのである。
 残念ながら、現在の学会および大学院教育などは、新規参入者に「信仰」と、それを共有しない者への敵意を、せっせと植えつけるだけの場所になって久しい。知識人が対外的に行う言動も、このスタイルのものがあまりにも多い。
 たとえば社会学とは、「公共性」「討議の条件」といったことを主要なテーマとする分野のひとつであったはずなのにも関わらず、今回もっとも専門的な発言が少ない分野でもある。巨視的に物事を考える能力をみずから率先して放棄し、際限なく細分化した小分野に閉じこもってきた結果である。
 それと関連して、政治のレベルでいえば、筆者が以前から指摘してきた「日本型システム」とは、こうした「公共のありか」を画一的に規定し、参加者がそれについて自覚的に考えなくて済ませるシステムであったと言い換えることもできる。先述の学問の動向は、そのなかでこそ許されてきたものかもしれない。しかし今回の震災は、その画一性の脆弱さを、劇的なかたちで示すものでもあっただろう。
 今回の震災とそれにつづく一連の出来事は、筆者にとっても「学問」とは何なのかを深く考えさせられる機会となった。学問や政治といったものが、この震災によっていかなる転機を迎えるか、それは地下深くのプレートではなく、われわれ自身の意志にかかっている。(高原基彰・東京工科大学非常勤講師)



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