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[Ⅶ-20]<ことば>プレス。道徳・教養、思考。心の肥やしを「知識のひきだし」に

<SYNODOS JOURNAL>東日本大震災と日本の転機(2) あらゆる主体は「偏向」している

 
 <SYNODOS JOURNAL >東日本大震災と日本の転機(3) 何が「正義」なのか? <SYNODOS JOURNAL>東日本大震災と日本の転機(1) なぜ流言は生まれるのか
4月25日(月)13時18分配信

◇あらゆる主体は「偏向」している◇
 おそらく「情報」とは、社会的・政治的文脈を抜きにして、単一の対象として抽出できるものではないのだろう。「情報統制と抵抗」、「マスメディアとインターネット」、「風評と事実」などといった、近年よくみられる認識の対立軸の設定は、それこそ「情報」だけを単体でみてはじめて可能になるものである。
 それぞれの組み合わせの後者はしばしば、諜報的な情報活動や、「実証的」な数字や、専門的な知識などによって、他人の知ることのできない「真実」を自称することになる。そうした努力はもちろん必要であろう。
 しかし、その「真実」の主張は、どこまで行っても、大多数の人々が納得するかたちで伝達されることはない。つねになんらかの(政治的)「偏向」が疑われる余地を持つからである。たとえば放射線の専門家が、いくら客観的な指標を自称しながら情報を発信しても、「御用学者」といったレッテルを貼られることがあるのは、そのためである。
 ではどう考えればいいのか。むしろ、発信する側も、受け取る側も、情報とはそうした(政治的)文脈抜きにはやり取りのしえないものである、ということを念頭におく必要があるだろう。
 あらゆる主体は、最初から「偏向」している可能性が高い。「客観的」な指標とは、それぞれが自分の立場を論証するためにこそ、可能なかぎり努力して集め、提示するものである。この当たり前の認識が、前提として共有されておくべきだろう。
 そもそも議論・対話とはそうしたもののはずで、あらゆる「特定の立場」と無関係で、普遍的に無謬な「実証」「真実」などというのは、ごくかぎられた科学的実験の場などに限定されるべきものである。
 にも関わらずその実在がナイーブに信じられるというのは、一種の「信仰」の問題でしかない。それぞれの専門は異なる「信仰」をもつだろうが、それが前提におかれるかぎり、結局のところ、異なる手法で「真実」を語るもの同士が、いつまで経っても合意できない神学論争を繰り広げることとなる。
 「検査機の数値によればまだ大丈夫なのが真実である」と語るものと、「関係官僚がわたしに耳打ちしたところでは大丈夫ではないのが真実である」と語るものがいくら議論したところで、何らかの合意に至ることも、生産的な結論を導き出すことも永遠にない。知識人がこうした神学論争を行っている間に、その背後にいるフォロワーたちのあいだには、それこそ部分的な情報を元にした流言蜚語が蔓延することになる。【(3)につづく】(高原基彰・東京工科大学非常勤講師)



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