あなたは、夫の暴力・DVを容認していませんか? 暴力のある家庭環境で暮らす子どもの心を守ることを忘れていませんか?

[Ⅵ-A] 臨床現場からのレポート(1) DV・児童虐待。暴力と精神疾患

戦争加害によるトラウマの世代間連鎖と和解修復の試み

 
 ドメスティック・バイオレンスの被害者としての子ども達「親と子と教職員の教育相談室」相談員 徳永恭子 <週刊SPA!>18歳から20年間、路上と刑務所で生活する知的障害者
~”HWH: Healing the Wounds of History(歴史の傷を癒す)”の手法を使って~
村本邦子(立命館大学教授,Ph.D)

1.はじめに
 臨床心理士として、20 年ほど、虐待、性暴力、DV など、女性と子どもへの暴力の問題に取り組んできた。だんだんと、避けて通れない問題の根っこは、過去の戦争加害のトラウマをどう捉え、向き合うのかというところにあるのではないのかと考えるようになった。個々のケースを通して、子どもの問題を遡ると、親世代の暴力、そしてもう一世代遡ると、戦争という集団レベルの暴力に行き着く。敗戦後、戦地から帰ってきた青年たちは、過去を振り返らないよう大慌てで結婚し、ベビーブームで、たくさんの子どもたちが生まれた。焼け野原となった日本を建て直すために、皆が必死だったろう。しかし、想像を絶する非人間的な経験を抱えてしまった男性たちに、どのような家族を作ることができたのだろう。こうして次世代が育てられ、さらに次の世代が育てられた。
 抑え込まれたトラウマは、再体験、麻痺・回避、過覚醒という症状をもたらす。再体験の例には事欠かない。「戦地から帰ってきた父親は、毎晩のように悪夢にうなされていた」と語る娘たちの証言をたくさん聞いた。上の世代の女性から「戦地から帰った兵隊さんは、みんな家で暴力をふるっていたのよ」と耳打ちされたこともある。PTSD の診断名が確立するきっかけとなったベトナム帰還兵の問題も、アルコール依存と家庭内暴力ではなかったか。こんな例も見つけた。戦後間もなく死刑になった連続強姦殺人犯は、調書のなかで、「上海事変当時、強姦のちょっとすごいことをやりました」と、書くに耐えない強姦強盗の証言をしている(本多、1997)。これは再演の例である。自分の感情とつながっておらず、家族と絆を結べない男性たちの麻痺・回避は、そのまま日本人男性の問題ではないか。それを補うかのように、過労死するまで働き続け、奇跡的な経済復興を遂げたのは、まさに過覚醒によるものではなかったか。

2.「加害トラウマ」とトラウマの連鎖
 1回の暴力は想像を絶する破壊力を持ち得、その前後、すなわち、過去と未来を大きく変えてしまう。それが繰り返し起こるなら、暴力が織りなす織地自体が人生を構成していくことになる。コミュニティにも同様のことが言える。マスレベルで起こった暴力は、コミュニティを破壊し、コミュニティの在り方に否定的なインパクトを与える。これらがそのまま放置されれば、そのインパクトは世代を越えて引き継がれ、社会全体が歪んでいく可能性がある。
 ここで、暴力被害によるインパクトをトラウマと呼ぶことに問題はないと思われるが、暴力加害によるインパクトをトラウマと呼ぶことには弊害もあろう。それでは、被害者と加害者をあたかも同等に扱っているように感じられるからである。ここではっきりさせておきたいことは、特定の暴力について、加害者には絶対的責任があるということだ。加害者が、別の関係においては被害者だということはあり得るが、それは、決して加害の責任を帳消しにするものではない。
 そもそも、トラウマという語は身体的損傷を指すものだった。1894年、ウィリアム・ジェームズ(William James)が、「衝撃の残りが潜在意識に影を落とし、それは、『催眠』状態においてのみ確認できる。そこに留まったままだと、いわば、魂のなかの『精神的トラウマ』の棘のような影響を与える」と記述して以来、徐々に精神的意味を獲得していったという(オックスフォード英語辞典)。リフトン(Lifton, 1993)によるナチ加害者の研究によれば、加害において、「二重化」(doubling)、すなわち内的な解離状態が発生する。一定の状況下で「部分自己」が形成され、やがて、これが大きな部分を占めるようになり、自律的な自己として機能するようになる。この「第二の自己」ができることによって、「普通の人」が悪を成すことが可能になるが、その後、「二重化された」自己を再統合する心理的作業が成されないままならば、加害者は、解離の歪みを抱えたまま生きることになる。
 ジェームズが言うように、統合されないまま潜在意識にあり続け、否定的インパクトを与え続ける棘のようなものをトラウマと捉えるならば、加害者の抱えるものもトラウマと呼ぶことができるだろう。ここでは、上記の弊害を避けるために、それを「加害トラウマ」という表現で、被害者のトラウマと区別することにする。トラウマという用語を使用したからと言って、加害者も傷ついた被害者であるといった意味合いは含まれていない。

 加害トラウマも、世代を越えて受け継がれる。劇団IMAGINE21 を主宰する渡辺義治氏の事例を挙げよう(村本、2008)。彼は被虐待児であり、DV の(元)加害者である。彼の父は旧満州国の軍将校であり、後にC 級戦犯として裁かれた。渡辺氏自身は1947 年の生まれで、父の暴力と退廃した雰囲気の家庭に育った。この父も、上述したように、悪夢や暴力という形で加害トラウマを再体験、再演し、そこで次世代が育ったわけである。渡辺氏は、高校卒業後、逃げるように家を出て、芝居にのめりこむようなり、そこで知り合った横井量子さんと結婚。母のことをきっかけに、妻に暴力を振るうようになる。母は、その後、自殺。渡辺氏は、「なぜ暴力に終止符を打てたのか、はっきり覚えていない。少しずつ、自分の問題に向き合うようになり、妻の言葉の意味、殴られる側の気持ちがわかるようになってきたからではないか」と語っている。
 「自分の問題に向き合うように」とは、1989年、中国残留婦人に関するドキュメンタリーを見たことをきっかけに、父の罪を実感し、「再会」を書き、横井さんとともに中国を含む世界各地で13年にわたって上演、2006年からは、南京虐殺をテーマにした「地獄のDECEMBER ~哀しみの南京」上演のために全国行脚を続けている。「日本人の精神構造は、基本的に刹那と退廃。その場その場の享楽を求めて、過去を忘れる。戦後生まれの人たちも無自覚なだけで、それを引き継いでいる。最近の殺人事件を見ていると、ふと、この人たちは意識的に殺人犯になって、こっから逃げたいんじゃないかと思う。自分たちの存在が、どういう精神構造でつくられてきたのか、そこと向き合っていかない限り答えは出ないだろう」と語る。
 心理学的に言えば、渡辺氏の苦しみは、DV家庭に育つ子どもの抱える症状そのものである。渡辺さんの不安症状や自傷行為に対して、精神科医は薬を与え、心理療法家はセラピーを提供したかもしれない。時代が違えば、妻はシェルターに駆け込み、夫は加害者プログラムを受けることになっただろう。それで問題は解決しただろうか。ジィフロフスキー(1987)は、ナチ加害者の子どもたちの心理的後遺症についての研究がほとんどないことに触れ、1960~70年代の心理学ブームは西独に何百万もの専門家を生み出し、国民が幸せで満足するようにと手を貸したが、集団蛮行から罪悪感の集団抑圧へと変えただけではないのか、ナチ加害者の家庭に育ったという事実こそ心理的障害の原因だったという患者は少なくなかったろうに、いったいどういう治療が施されたのだろうと問いかける。
 心理学ブームの到来は遅れたものの、これはそのまま、日本の問題でもあるだろう。皮肉にも心理学ブームによって隠ぺいされ、世代を超えて持ち越された加害トラウマは、その後、どうなったのだろうか。渡辺氏も指摘する殺人事件や、リストカットやOD(大量服薬)の流行など、現代、表面化している若者たちの問題は、これと密接に関わっているように思えてならない。

3.過去に向き合う~ HWH との出会い
 このような問題にいったいどのように向き合うことが可能なのだろうか。このような問題意識をもちながら、2007年3月、立命館大学で行われたアルマンド・ボルカスによるプレイバックシアター「戦後世代が受け継ぐアジアの戦争」に参加し、HWH(Volkas, 2009)と出会った。HWH については、後に詳しく紹介されるので、ここではその説明を省略するが、これは、非常に印象深い出会いだった。プレイバックシアターでは、観客の一人が自分の経験を語り、役者達がそれを即興劇として再現し、参加者全員で共有する。シアターが始まるや否や、フロアから、ファシリテーターが原爆を落としたアメリカから来ていることを指摘し、「本当は日本こそ被害者なのだ!」という強い感情を伴う叫び声があがった。フロアは一瞬、凍りついたが、ボルカスは、冷静に、そして真摯にこれを受け、この声はプレイバッカーたちによって演じられた。ふだんならば怒りで一杯になるところであるが、舞台を見て、このような発言の奥にある深い哀しみと傷つきが私の胸にストンと入ってきて、涙が出た。感情的な闘争になることなく、誰一人、裁かれたり、場外退出になったりすることもなく、シアターは、静かに、次のエピソードへと進んでいった。
 シアターでは、役者たちが、提供されたエピソードから、一人の人のなかにあるさまざまな声を注意深く聴きとって、それぞれを演じる。あたかも、どんな声も無視されず、聴き取られる権利があるのだと言わんばかりに。ひょっとすると、殺しは、自分のなかにある声のどれかを殺すことから始まるのかもしれないと思った。すべての声を救うために、他者が全身全霊で耳を傾け、共感しようと努力すること、それをたくさんの人々が証人として見守ることを通じて、どんな声も必ずや変容していくのだと感じた。
 このイベントを企画した村川治彦を中心にした「こころとからだで歴史を考える会」は、これまで、日本における多くの歴史教育や平和教育が、客観的事実に重きを置くあまり、そこからもたらされる様々な感情を置き去りにしてきた結果、戦争の記憶が意味ある形で伝わり、自らの生き方につながった出来事として受け止めることを困難にしてきたと考える。南アフリカの「真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission)」は、4つの真実、すなわち、①事実としての、あるいは法廷の真実、②個人にとっての、また語りとしての真実、③社会的あるいは対話的真実、④癒し、修復する真実という考え方を提示するが、とくに、②個人としてや、語りとしての真実、③社会的あるいは対話的真実によって、日本の若者が他国の若者たちと自らの感情にしっかりと根ざした対話を行い、共に、④癒し、修復する真実に向けて新たな関係性を築く道が開かれることを期待しているという(村川、2009)。
 南京事件70周年にあたる2007年11月、この会のメンバーたちと、南京師範大学で開催された国際会議「南京を思い起こす」に参加した。この会議は、上記の考えに基づき、参加者がそれぞれの見解、感情を表現することを奨励し、日中戦争と南京の悲劇について、心を開き互いの声を深く聴くことを目的としていた。日本、中国、その他の国々からの参加者が、共に生存者の話を聞き、殺害の行われた地を訪れ、慰霊の儀式を行った。全員で、また、グループに分かれて、思いを分かち合う時間を十分に取り、合間に、体を動かすセッションや音楽のセッションが盛り込まれていた。
 いつの頃からか、南京に行ってみたいという思いを自分のなかに感じるようになっていたが、不思議な力に導かれるように、このプロセスに自分のすべてを委ねる決意ができた。私の一番の目的は、頭でしかわからないことを胸に落とすこと、つまり、自分のなかの感覚麻痺を少しでも解除すること、そうすると、その後で、いったい何が起こるのかを確かめることだった。私の母は東京大空襲の生存者であり、子どもの頃より、辛い話を聞かされて育った。振り返れば、子どもだった私は、理解を超える恐ろしく悲しいそれらの話に圧倒されて自分が崩れてしまわないよう、「戦争は自分と関係のない遠い昔々のこと」と線を引くことで自分を守ってきた。戦争の話を「存在まるごと」感じることは困難だった。時が熟したと感じたこの時、私は、無防備なまでに心を開いて、場に臨んだのだと思う。その結果、もたらされたものは、うまく表現できないが、とてもよいものだった。
 生存者証言に耳を傾け、抗日戦争記念館の展示を見た最初の晩、激しい頭痛と吐き気に襲われた。翌朝、私の体調は回復したが、日本側の参加者のほとんどが、多かれ少なかれ、頭痛、発熱、嘔吐、身体の痛みなどの身体症状を呈した。明らかに、皆のからだが反応していた。それと同時に、記念館で見た日本兵たちの写真から、自分が紛れもなく加害国の一部であることが胸に落ち、虐殺記念地で、一緒にいる日本人たちと共に泣き、中国の人たちに謝ることができて、胸のなかの氷が溶けてくように感じられたのである。「存在まるごと」に小さな一歩を踏み出せたような気がした。
 中国の若い人たちは、私たちを暖かく迎えてくれ、「日本の若い人たちと交流したい」という強い希望が訴えられた。私たちは、若い人たちを連れて、再度、ここに戻ってくる決意をした。そのためには、準備が必要だった。定例で小さな勉強会を重ね、2008 年7月、これまでの試みを総合し、京都にて、4日間にわたる平和教育プログラムを実施した。先に紹介したIMAGINE21 によるノンフィクション・ステージ「地獄のDECEMBER ~哀しみの南京」の上演と、「こころとからだで考える歴史のトラウマ~アジアの戦後世代が継承する戦争体験、Armand Volkas を迎えて」のプレイバックシアター、および2日間のワークショップである。また、2009 年年3月には、サンフランシスコにて、「壊れた橋を修理する~第二次世界大戦の遺産に直面する日本と中国の文化」というテーマでHWH のワークショップを行った。HWH を通じて、中国やその他アジアの国の人々と交流しながら、自分自身の抱える歴史のトラウマへのプロセスも行うなかで、HWH のゴールと6つのステップの意味を実感している。そして、2009 年10 月、いよいよ、日本の若い人たちとHWH と一緒に南京再訪が実現する。

4.おわりに
 心理学的には、暴力によるトラウマは、人々のつながりを破壊し孤立させる。これに抵抗するためには、つながりの回復が必要である。過去、現在、未来をつなぐこと、他者とつながること、世界に開かれること。また、個人史と歴史をつなぐことが鍵になるのではないか。それは、とりもなおさず、個人のなかの暴力性と歴史のなかの暴力性をつないで見ることだろう。広い文脈のなかで一見、無関係に見えるものを、つながりのなかで見てみること。学際的、国際的なつながりのなかで、是非とも継続していく必要のある課題である。

文 献
本田勝一(1997)『南京大虐殺』朝日新聞社
Lift on, R. J. (1993). From Hiroshima to the Nazi doctors: Th e Evolution of psychoformative approaches to understanding traumatic stress symdoromes. In J. P.Wilson & B. Raphael (Eds.), International Handbook of Traumatic Stress Syndromes. New York / London: Plenum Press.
村本邦子(2008)「家族を通じて受け継ぐもの~戦争とトラウマ」『女性ライフサイクル研究第18 号』村本邦子村川治彦(2009)「ドラマセラピーの手法を使った体験的アプローチによる平和教育の試み」日本心理臨床学会『心理臨床の広場』一巻一号
Sichrovsky, P. (1987) Schulding Geboren. Verlag Kiepenheuer & Witsch Koln.( ペーター・ジィフロフスキー著、マサコ・シェーンエック訳『ナチスの子どもたち~お父さん、戦争のとき何していたの』二期出版、1988)
Volkas, A. (2009). Healing the Wounds of History: Drama Th erapy in Collective Trauma and Intercultural Confl ict Resolution. In R. Emunah & D. R. Johnson (Eds.). Current Approaches in Drama Th erapy. Springfi eld, Illinois, Charles C.Th omas.



もくじ   3kaku_s_L.png   [Ⅵ-A] 臨床現場からのレポート(1) DV・児童虐待。暴力と精神疾患
FC2 Blog Ranking
   

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【ドメスティック・バイオレンスの被害者としての子ども達「親と子と教職員の教育相談室」相談員 徳永恭子】へ
  • 【<週刊SPA!>18歳から20年間、路上と刑務所で生活する知的障害者】へ