あなたは、夫の暴力・DVを容認していませんか? 暴力のある家庭環境で暮らす子どもの心を守ることを忘れていませんか?

[Ⅵ-D] 司法判断。DV・虐待を起因とする離婚事件、どういう立ち位置か

「ドメスティック・バイオレンスと法」 後藤弘子(富士短期大学助教授) 

 
 「援助者が直面する問題」 マギー・ジーグラー 当事者に学ぶ -アディクション・アプローチ- 信田さよ子(原宿カウンセリングセンター所長・臨床心理士)
(財)女性のためのアジア平和国民基金
援助者のためのワークショップ2000 ドメスティック・バイオレンス家庭内における女性と子どもへの影響⑥


1.はじめに
私はずっと刑事法という領域に関連した研究をしてきました。刑事法というのは、犯罪と刑罰に関する事柄を対象とする学問です。そのなかでも、刑事政策といわれる分野を中心に、犯罪や非行に対してどのような対応をしていけばよいのか、特に犯罪に関係する女性や子どもに焦点を当てて、実態の分析を含めて研究してきました。1997 年以降、少年法の改正が政治問題化してきたこともあって、最近は、少年犯罪や少年法に関連したものを書いたり話しをしたりすることが大変多くなっています。
また、私的な領域における犯罪というテーマも、私の研究のもう1 つの柱です。子ども虐待やドメスティック・バイオレンス(以下、DV と略す)などは、暴力という行為をみれば明らかに犯罪の構成要件に該当するのに、私的な領域における行為であるために、いままで犯罪として考えられてきませんでした。法が入らない、私的な領域において正義が実現されないということを社会はいままで見過ごしてきましたし、それが当たり前だと考えてきたということです。しかし、私的な領域における暴力についても、「犯罪である」と考えないと何も進んでいきません。たとえば、ストーカーにしても、あれが犯罪だという認識ができたからこそ、法執行機関である警察によっていろいろな対応が可能になったわけです。犯罪であると認識されているからこそ、それに必要な法制度の整備が行われるのです。
ですから、子ども虐待やDV も、犯罪だという認識をきちんともって、その視座をゆるがせにしないで、問題にアプローチすることが重要だと思います。しかし、犯罪だからといって刑罰を科せばいいという単純なものではありません。刑罰もひとつの選択肢として用意はされているけれども、それ以外に、やらなければいけないことが数多くあるわけです。最近、警察の「民事不介入」や「法は家庭に入らず」という対応が批判のやり玉にあがっていますが、その対応は、とりもなおさず私たちの意識の反映なのです。私たちの意識をかえ、不正義な状況を、なんとか変えていく方法はないだろうかと考えることが必要です。


2.オリエンテーション
きょうのお話はDV と法に関するものですが、法を身近に感じ、自分たちの生活領域のなかで法を考えていただきたいと思うので、最初に「法律とは何か」という説明から始めます。法は難しいと敬遠されてしまいがちですが、法を味方にすることで、自分たちにとって役立つ制度を作ることができると思うからです。
その後、最近相次いで施行されている、親密な関係性に関する法律についてお話します。「ストーカー行為規制法*」(11 月24 日施行)や「児童虐待防止法*」(11 月20 日施行)といった具体的な法律(P.99 およびP.101 参照)を参考にしながら、「法律は私たちにとってどういう意味をもっているのだろうか」ということをお話しします。後半のパートは「ドメスティック・バイオレンス法をつくる」というテーマで、グループ討議を行いたいと思います。
また、このワークショップには、いろいろな機関の方が参加していらっしゃいますので、ぜひ、こういう機会を利用して情報交換の場として活用していただきたいと思っています。
病院、警察、福祉関係機関、学校、裁判所といった公的な機関や、シェルターに代表される私的機関のそれぞれが、自分たちのできる活動を一生懸命やっているのですが、すべてを統括したり、すべての機関をきちんと結ぶシステムがまだできていませんから、今後こういったシステムの構築が大きな課題になってくるわけですが、いくらシステムや法律ができても、具体的な活動がうまくいくかどうかは、結局、それぞれの機関の人びとが形成したネットワークにかかってくると思うのです。ですから、法律があるかないか、システムがつくられているかどうかにかかわらず、自分たちで、まず私的なネットワ-クを地道につくっていきましょう。そういう意味でも、このような機会を自分たちの具体的な活動に役立てていただきたいと思います。


3. 「法」とは何か
ここで少し法についての基本的なお話をしたいと思います。法の世界では、ことばの意味はとても大切です。それは、法が最終的に裁判のルールとして使われ、裁判の結果には強い拘束力があることと関係しています。法について語る場合に、「法律」といったり、「法」といったりします。ここでは、「法」は法規範のことを意味し、それは社会規範の一部、つまり社会のルールの一部だと理解しておいてください。そして、「法律」は法規範の一部だということを前提として、法についてお話ししていきたいと思います。
● 社会規範
たとえば、流行も社会規範です。ただし、流行という規範には従わなくても、そんなに困りません。「ちょっと流行遅れね」と思われるだけです。しかし、ファッション業界において、流行に合わない服装をしていたら、その人は仕事の上でかなり問題が生じます。「こんな人にデザインを頼んでいいのだろうか」と思われたりもします。そういう意味では仕事が来ないというのも、ひとつの社会的制裁にもなります。流行やファッションなどもひとつの社会規範なのです。ほかの社会のルールとしては、道徳とか風俗・習慣といったものを思い浮かべられると思いますが、道徳も宗教も社会規範です。
たとえば、お正月のお供え餅やお飾り。誰も5 月5 日にお供え餅は飾りません。皆さんが何気なくやっていることも、社会のルール、社会規範に従った行動なのです。「おはようございます」という挨拶についても同じことです。朝から「こんばんは」という人はいません。それはみんなが、「朝のあいさつはおはようである」というルールを共有し、それに従って行動しているからです。さまざま文化的歴史的背景をもちながら社会は存在し、そのなかで社会生活がうまくいくための社会規範が形成され、維持されていく。その1 つが「法規範」なのです。
● 社会的制裁
規範は「○○してはいけません、△△しましょう」という禁止や命令のかたちで現れます。このことは、違反する人を前提として規範があることを意味しています。誰も違反しないのであれば、ルールを作る必要はありません。基本的には私たちは自分の意思に基づいて、自由に選択、行動できますし、それが望ましいと考えられています。けれども、おたがいが自由に自分勝手に選択、行動していくと、ほかの人といっしょにやっていくのが難しくなってしまいます。その社会に生きている人たちが、おたがいの関係をうまくやっていくために、社会規範があり、禁止・命令に対しては、それらに違反した場合には制裁を科すという構造になっているのです。
「制裁」というと、皆さんは刑罰や損害賠償請求を思い浮かべるかもしれませんが、先ほど言いました「流行遅れね」という非難の目とか、「流行遅れの人には、仕事は回せない」といったようなものも一種の制裁です。「約束は守りましょう」、「嘘をついてはいけません」という道徳規範に関しては、これも破る人がいます。その破る人はやはり制裁を受けているのです。どういう制裁かと言いますと「良心の呵責」という制裁です。良心の呵責という制裁が制裁として機能するかどうかは、人によって異なります。法規範以外の制裁は、制裁を制裁として受け止められるかどうかが人によって異なります。
法規範以外の制裁は、相手がそれを制裁として意識しなければ、制裁として十分に機能しないという特徴がありますが、法規範の場合は、国家的なレベルでの制裁になります。つまり強制力が出てくる制裁を前提としている規範、それが法規範なのです。法規範の制裁は物理的な強制力をもっており、その代表格として「刑務所に行く」という刑罰がありますし、損害賠償を払うといったこともあります。たとえば、養育費を払わない、お金を貸したのに返してくれないケースのとき、裁判という手段に訴えて、「お金を返せ」という判決を得た場合には、強制執行というかたちで国が代わって取り立ててくれます。この強制執行もひとつの制裁です。もちろん、事実上強制執行ができないケースもあります。つまり、お金がなければ強制執行しても、お金を取り立てることができないのです。それを確保する制度がないのが日本の問題だと言われています。
昨年、旧東欧諸国の警察関係者に対して、研修の一環としてDV の話をしたことがありました。「日本では、離婚しても養育費を得られないから、なかなか離婚できない」と話すと、「どうしてだ」と不思議な顔をされました。「自分たちの国では、養育費を払わないのは犯罪だ」といういうのです。
養育費を払わないと犯罪になるので、みんな絶対払うのだそうです。養育費の支払いを国家的なレベルで義務づけ、犯罪とすると、それに対する制裁は非常に強力になります。その強力な制裁を前提として、離婚しても必ず養育費が確保できるというしくみを作っているのです。
私たちからすると、行きすぎに感じるかもしれませんが、それもひとつの社会のあり方です。生活の保護を国が行うのではなく、あくまで当事者に刑罰という手段を使って支払わせるというのも、ひとつの制度の選択としてあり得ることだと思います。
日本ではDV を犯罪だとすること自体も難しいのに、「養育費を払わないのは犯罪です」というキャンペーンがどこまで成功するかは別にして、そういうアプローチも可能だということです。そうすると、生活費や養育費が得られないとか、離婚のときの財産分与がうまくいかないといった関係性から生じる金銭問題を、もしかしたらクリアできるかもしれません。
● 法規範の代表が法律
法規範は、違反に対する制裁が物理的な強制力をもっているという意味で、非常に強大な力をほかの社会規範と比べてもっているということになります。それほど強力なものだったら、やはり勝手につくられては困るわけです。ですから、法規範の大前提として「民主主義的につくる」つまり、「私たちのルールは私たちが決める」ということがあります。そのルールに代表されるのが法規範で、法規範の代表が「法律」です。法律は国会の議決を経て成立したものです。制度としては国会議員は私たちの代表者で、間接民主制をとっている日本は、私たちが国会議員を選び、その人たちが国会で法律をつくることになっています。「主権者である国民が選んだ人たちがつくったルールであるから、それは民主主義的なルールである」という仮説のもとに、すべての法律はできています。
法規範にはいくつかの種類がありますが、国会でつくられたものだけを「法律」と呼んでいます。そのほかに、「慣習法」や裁判所で形成されたルールである「判例法」、一般常識としての「条理」があります。
法律は、法規範のなかで民主主義的なしくみのなかでつくられた規範、ルールですが、この法律にはおもに2 つの機能があって、1 つは行為のルール、「行為規範」と言いますが、つまり、私たちが行動するときのルールとしての役割を果たしています。もう1 つは、裁判規範として、裁判の際のルールとして使われます。
最初に「ことばが大切」と言いましたが、裁判は全部ことばでやります。ことばに表せないものは裁判ではあまり重視されません。たとえば、刑事裁判ではDV でも子ども虐待でも傷害罪に当てはまるかどうかが重要な関心事となります。自分に対して起こったことをことばで相手にわかるように、なおかつ犯罪として立証してもらえるように話さなければいけないのです。それはかなり困難なことです。
● 条文の明確性と曖昧さ
資料1(P.99 参照)は「児童虐待の防止等に関する法律」です。第1 条に「この法律は、児童虐待が児童の心身の成長及び人格の形成に重大な影響を与えることにかんがみ」とあります。日常会話で「かんがみる」を使ったことがある方はたぶん1 人もいらっしゃらないと思います。また「児童虐待の防止等に関する法律」、「ストーカー行為等の規制等に関する法律」というように「等」がたくさん使用される傾向が法律にはあります。行為規範であると同時に裁判規範でもある法律は、明確であると同時に、紛争解決のためのルールとして使えるように、ある程度解釈の余地を残しておく必要があります。そのため、明確性と曖昧さを同時に満たすようなかたちでつくられています。そのために、ただ法律を読み下していっただけでは、抽象的で理解できないといったことになるのです。
資料2(P.101 参照)が「ストーカー行為等の規制等に関する法律」です。一般的には「ストーカー行為規制法」と言われています。第2 条は、「この法律において『つきまとい等』とは、特定の者に対する恋愛感情その他の好意の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨えんこんの感情を充足する目的で、当該特定の者又はその配偶者、直系若しくは同居の親族その他当該特定の者と社会生活において密接な関係を有する者に対し、次の各号のいずれかに掲げる行為をすることをいう」とあります。これを読んで、何がいけないのかよくわからないと思われる人は多いと思います。
次に第2 条第1 号ですが、「つきまとい、待ち伏せし、進路に立ちふさがり、住居、勤務先、学校その他その通常所在する場所(以下「住居等」という。)の付近において見張りをし、又は住居等に押し掛けること」とあります。以下「その行動を監視していると思わせるような事項を告げ、又はその知り得る状態に置くこと」、「面会、交際その他の義務のないことを行うことを要求すること」といろいろ書いてあり、まだこのあたりはいいのですが、第4 条を読んでみます。「警視総監若しくは道府県警察本部長又は警察署長は、つきまとい等をされたとして当該つきまとい等に係る警告を求める旨の申出を受けた場合において、当該申出に係る前条の規定に違反する行為があり、かつ、当該行為をした者が更に反復して当該行為をするおそれがあると認めるときは、当該行為をした者に対し、国家公安委員会規則で定めるところにより、更に反復して当該行為をしてはならない旨を警告することができる」とあります。まずどこで切っていいのかわからないし、どこがどこにどうかかるのかわかりません。
ストーカー行為に関しては刑罰が科されますから、罪刑法定主義の原則から「何をやってはいけないのか」「何をやったらいいのか」ということが一見してわかるようなかたちになっていなければいけません。しかし、この法律は私からしますと、あるレベルまでは「これは、やってはいけないよ」ということがわかるような具体性・明確性をもっていますが、完璧に十分というわけではありません。
では実際にその行為が本当に「つきまとい行為」なのかということになると、「つきまとい、待ち伏せし」と言っても、どの程度がつきまといなのか、どういう行為を待ち伏せというのかは曖昧です。「進路に立ちふさがり」というとき、1 人しか通れない狭い道路で立ちふさがられたら、それは明らかに「進路に立ちふさがり」かもしれませんが、4メートルくらいの広さの道路に立っていたら、それは「立ちふさがり」になるのか、どうやって立っているのが「立ちふさがり」なのか。具体的な行為に関して法律を適用するためには、法律の解釈が必要になります。
● 法律の具体性と抽象性
裁判所が具体的な事件を判断するにあたって条文の解釈を行ったりするわけです。そこで、本当に「つきまとい」とか「立ちふさがり」というのがどういう行為なのかということを具体化していきます。法律はある意味、ルールの大もとの考え方を決めているものですから、抽象的で具体性に欠けます。一方で、あまり具体的に規定すると、起こりうるすべての事例に適用できない可能性が出てきます。
たとえば厳密に法律レベルで考えると、売春防止法に根拠をもつ婦人相談所を、DV のために使うことは、「違法」という理解も可能です。けれども、そんなことを言っていたのでは現実に対応しきれないので、法律が実態に対応していない場合、運用でその不備を補うことも必要になってくるのです。日本では法律を新たにつくることに対して慎重でしたから、運用によって問題に対応してきた経緯があります。法律の下にある「命令」、たとえば内閣が出す「政令」、省庁が出す「省令」や「通達」といわれるもので対応してきたので、日本は「通達行政」ともいわれたりしています。
これまでお話したように、法律をつくるときには常に「具体性」と「抽象性」の両方が満たされることが必要です。抽象的であることが大変役に立つ場合もありますが、裁判のときのルールや、行為をするときのルールとして法律を使わなければいけないとなると、抽象的であるとあまりにも解釈の幅が広くなって、みんなで決めたルールとして役に立たないこともでてくるのです。にもかかわらず、日本の法律の場合、法律はあまり変えない方がよいという考え方が強かったために、抽象的な法律が多いのです。
「殺人罪」という刑法の法律があります。人を殺した者は死刑、無期もしくは3 年以上の懲役に処するという条文になっています。ここでは「人を殺したる者」というだけが要件となっています。外国では、人を殺すという行為に対して適用されるべき規範がたくさんありまが、日本の場合、殺そうと思って殺した場合には、基本的には「殺人罪」しかないのです。そういう意味では、すごく抽象的なルールだということができます。
けれども、実際に法律をつくるときには、抽象的な法律の条文がよい場合と、具体的でなければ困る場合とがあるわけです。なるべく両方を兼ね備えた法律をつくろうとするのですが、やはりルールですから抽象化されることは否定できません。そのために、法律の解釈が重要になってきます。そして、法律の解釈が命令などのかたちで行われるのではなく、裁判所によって行われるためには、事件が裁判で争われる必要があります。
● 裁判の役割
日本の場合、刑罰法規に関しては、検察官が起訴するかしないかを決定する「起訴便宜主義」をとっています。そのために、刑事事件は有罪になる可能性が高いものしか起訴されません。不起訴にすると裁判にならないのですね。その結果どうなるかと言いますと、解釈が裁判所レベルで行われないということになってきます。どういう具体的な行為が、この法律に違反しているかということを確認する作業が公になされないのです。これが日本の刑事裁判の特徴であり、いちばん大きな問題でもあります。
検察官が起訴するかしないかを決定する権限をもっています。裁量権が広いのです。その権限の乱用を防止するために、検察審査会制度があります。起訴されなかった事件について、申立があれば、そこで「起訴相当」とか「不起訴相当」といったかたちでなんらかの判断をします。ただし、その検察審査会のコメント、結論は検察庁に対して強制力をもつものではなく、「一応参考にしてください」というレベルでしかないのです。交通事故で、不起訴になったということで、ご両親が署名等を集めて検察審査会や検察庁にはたらきかけて、最終的には起訴に持ち込んだ「片山君事件」という事件を記憶していらっしゃる方も多いと思います。
さらに、法律ができたとしても、たとえば、「DV は犯罪である」「ストーカー行為であるつきまといも犯罪である」となったとしても、刑務所に行くまでの道のりが非常に長いのです。刑務所に行かせるためには、まず起訴便宜主義のハードルを越えなければいけませんが、その前のハードルとして、まず警察がそれを犯罪だと認知してくれなければならないわけです。
ストーカーについても専従班をつくってやるとは言っていましたが、なかなか末端の意識改革は進まないものです。私もお話しをするときに、「皆さん、性犯罪の被害があったらできるだけ大きな警察署に行きましょう」と言っています。交番には「女性のための○○相談所」と書いてあるところもありますが、その交番で、性犯罪の被害に対して適切な対応をしてもらえるかと言うと、いまの状況では、なかなか難しい面があると思います。
しかしそれは、日本だけではなくて、アメリカでもそうだったし、いまでもそうなのです。伝統的に犯罪を捜査するという立場で動いてきた警察の意識改革は、とても時間がかかるのです。ですから、実際問題としては、なるべく被害者対策室もある大きな警察署に行くという自衛手段をとる必要があるのです。
● 制度だけでは不十分
どのような法律がつくられたとしても、警察がその行為を犯罪として認知して活動してくれなければ、法律は「絵に描いたもち」になってしまいます。ですから、法律をつくる場合に、警察が認知しやすい法律をつくることも必要となります。
この前、アジア女性基金の研究会のためにシアトルに行ってきました。そこで、DV の加害者に対するプログラムのインタビュー調査をしてきたのですが、ワシントン州では、警察官は呼ばれて行ったら必ず加害者を逮捕しなければならないという法律ができていました。そこで、問題になっていたのは、最初に殴った人が誰だかわからないとき、被害を受けた女性が逮捕される可能性もあるということでした。
たとえば、首を締めていたのは男性だけれども、褐色の皮膚の被害者だと痕が見えないし、抵抗しているうちに男性側にたくさん傷がついてしまった。そこへやって来た警官はどちらが最初のアグレッサー(加害者)かを正しく判断できず、傷がたくさんついているほうを被害者とみなして、女性を逮捕することがあるということなのです。これが、警察が介入する法律をもっているシアトルでいちばん問題になっていることでした。警察に間違って連れて行かれ、裁判で加害者だとされた女性に対するカウンセリング・プログラムまで用意されているのです。
つまり、制度ができれば、それですべて解決するわけではないということがわかっていただけると思います。保護命令(プロテクション・オーダー)が日本にもほしいと言うと、シアトルでは、「あれはただの紙切れ、“a piece of paper”だから役に立たない」と言われました。私は「日本ではその“apiece of paper”が必要なのだ」と言いますと、「そうね、ないよりはあったほうがいいわね」という答えが返ってきます。日本よりも20 年進んでいるといわれているアメリカでも、新たな問題が出てくるわけです。制度をつくり、警察が介入するようになればなったで、そこに問題が出てきます。
たとえ、日本で保護命令の制度ができても、それを効果的に運用していくためには、警察や検察裁判官に対する教育が必要になってきます。皆さんも、制度ができたからといって、それだけでは安心できないことを忘れないでいただきたいと思います。


4. 法律の成立過程
● 法律の成立と公布
法律は国会でつくられると言いました。法律がつくられるとき、誰がその法律を必要として法律をつくろうとするのかによって、法律の成立過程が2 つに分かれます。
1 つは政府が出す「政府提案立法」です。最近は、衆議院でも参議院でもいまどういう法律案が提出されているかがインターネットのホームページを見るとすぐわかるようになっています。このような法律案は、内閣が国会に上程するものですから「閣法」と言います。これに対して、議員が提出する法律案として「議員立法」があります。「ストーカー行為規制法」、「児童虐待防止法」だけではなく、「少年法」もそうです。これは、衆議院議員でも参議院議員でも可能です。
それぞれにメリット・デメリットがあります。日本は、議院内閣制のために、閣法が全法律案の90 %以上を占めています。閣法の場合、担当の役所、たとえば少年法だったら法務省が、法律案づくりを担当しています。一方、なかなか役所間のニーズからは出てこない分野や、議員立法のかたちを取った方がよいと思われる分野、たとえば「臓器移植法」や「児童虐待防止法」などは、議員立法で成立しました。DV に関する法律も、いま参議院の超党派でプロジェクトチームができていますから、議員立法というかたちの提案になると思います。
議員立法は、国民の代表である議員が、国民のニーズに従った立法を行うというしくみとしては、極めて民主主義的なしくみです。「少年法」も、私は今回の改正は被害者のことに関する以外は改正する必要がないと思いますが、世論調査では91 %の人が「少年法」の改正に賛成しています。それを前提とすれば、国民の意見を集約して議員が立法したという、あるべき民主主義の姿をまさに実現したものだと思います。
上程された法律案は、まず、主旨説明が本会議で行われて委員会に付託されて、採決されて、さらに本会議で採決されるというプロセスをたどります。それが衆議院と参議院でそれぞれ行われてはじめて、法律が成立します。
その成立した法律は、次に「公布」という段階を経ます。私たちが決めたルールで、そのルールについて私たちが行為規範として、もしくは裁判所が裁判規範として、認識することが必要となります。「そんなの知らなかった」と言わせないために、みんなに「今度こういう法律ができましたよ」と公布するわけです。法律が物理的強制力のある規範であるために、法律ができた場合には、みなに知らせるという手続が必要になるのです。公布は、毎日発行されている「官報」に掲載されるというかたちで行われます。
2000 年5 月24 日には「ストーカー行為規制法」と「児童虐待防止法」の両方が公布されました。私が関心をもっている2つの法律が官報に並んで掲載されている、その意味では、忘れられない日となりました。
● 法律の施行
公布された法律は、次に「施行」という段階に入ります。「施行」とは、法律が実際に効力をもつということです。ストーカー行為規制法の附則1条に「施行期日」という条項があります。「この法律は公布の日から起算して、六月を経た日から施行する」とあります。5 月24 日が公布日で、公布日から6 カ月の日、11 月24 日が「ストーカー規制法」の施行の日というわけです。
一方、同じ日に公布された「児童虐待防止法」はどうでしょうか。同じく付則を見ていただくとわかりますが、「この法律は公布の日から起算して六月を越えない範囲内において政令で定める日から施行する」とあります。つまり六月を越えないということは、11 月24 日までのあいだに内閣が出す政令によって、施行日を決めるということです。内閣が決めたのが、11 月20 日でしたから、11 月20日から施行されるわけです。
このように、公布された日が同じでも、法律によっていつ効力をもつか、施行されるかというのが違ってきます。場合によっては、公布と施行の間に何年もかかる場合もあります。「男女雇用機会均等法」の改正法は、1997 年に法律ができて、1999 年4 月1 日から施行されました。「PL 法」、つまり「製造物責任法」も1 年間、公布から施行するまで時間がありました。たとえば、製造物責任法のように、メーカーがそれぞれの商品についていろいろな注意書きや警告を作成するために1 年という準備期間が必要である場合もあるのです。有名なところでは、「日本国憲法」もそうです。施行まで半年間の期間がありました。
どの法律も必ず衆議院と参議院の両方の委員会と本会議を経て成立して、公布されて、施行するというプロセスをたどります。以上が、法律が世の中のルールとして受け入れられるまでに、必要な手続についての説明です。


5.ドメスティック・バイオレンスに関する法律をつくるために必要なこと
いままでは、法律についての形式的なお話でしたが、これからは、DV に関する法律をつくる場合に、どのようなことに注意をしたらよいのかを、アメリカの法制度や、「児童虐待防止法」や「ストーカー規制法」などを例にとって考えてみたいと思います。
● アビューズとバイオレンス
DV と子ども虐待に関しては、たとえばアメリカなどでは「アビューズ」というかたちですべてを一括して規定しています。アビューズは「虐待」と訳してもいいのですが、マサチューセッツ州の法律でも、ワシントン州でもそうですが、「アビューズの行為にはこういうものがあります」というかたちでの規定がなされています。
子ども虐待で有名な4 つのアビューズは「身体的な虐待」「性的虐待」「ネグレクト」「心理的虐待」ですが、若干バリエーションはあっても、この4つの類型を基本としています。まず、アビューズとして、行為が列挙されていて、そういう行為を一定の関係のなかで行った場合には、保護命令を申し立てることができるという規定になっています。
そのため、アビューズの範囲は広くなります。子ども虐待も「チャイルド・アビューズ」ですし、最近大きな問題となっているのが高齢者に対する虐待も「エルダリ・アビューズ」です。DV に関して、これをアビューズでくくることの是非はあると思いますが、DV のような一定の親密な関係にあると人のあいだで起こったバイオレンスを、アメリカでは立法形式上は「アビューズ」としているものが見られます。法律の規定の方法として、「アビューズ」でななく、犯罪性を明確にするという意味で、「バイオレンス」=「暴力」を使うということの意味は、当然あると思います。ただ、社会的な注目がはじめに子ども虐待に向けられ、それを拡大するかたちで一定の関係性の暴力に対応していったために、「アビューズ」というかたちでの法的な対応となったのだと思います。
● 法的取り組みの日米格差
法的な話をするときに、「アメリカでは」という言い方が問題になることがあります。アメリカは50 州あって、ワシントンDC もコロンビア特別区という特別な裁判管轄区を設けています。さらに、連邦も独自の法律や司法制度をもっています。今回の大統領選挙をみてわかると思いますが、たくさん裁判所が出てきます。州の最高裁と連邦の最高裁があるというようにいろいろ管轄が違っています。連邦がやるべきこととして期待されているものと、州がやるべきこととして期待されているものは違います。たとえばDV に関しては連邦法があるのですが、その連邦法はかなり原則的なことを規定していることと、もう1 つはお金です。「こういうことをやれば、連邦からの資金援助があります」というようなことが連邦法には書いています。アメリカは、州の権限が強い国ですので、直接州民に関わるものは、州法が規定する。けれども、国として、1 つの方向性を示す必要がありますから、国の方針を州に実現してもらうために、「お金をあげるからやってね」という方法をアメリカは採用しているのです。日本の場合は、アメリカほど地方分権的ではないのでなかなか難しいのですが、福祉の分野はかなり地方分権的になってきました。
望ましい政策を実行するために、一から国等が行うのではなく、これまである社会資源を有効に活用するひとつの方法として、お金を出すというやりかたが提案されています。
ただ、どのようなかたちを取ったにせよ、国や地方公共団体が果たすべき役割は当然あるわけで、先進的な取り組みを行っているNPO に対して資金面の援助をするというかたちは、今後は公の機関に期待される大きな役割となると思います。
● 行為の定義
「児童虐待防止法」では『児童虐待』がどういうかたちで定義されているかを具体的にみてみたいと思います。
同法の第2 条に「この法律において、『児童虐待』とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう。以下同じ。)がその監護する児童(十八歳に満たない者をいう。以下同じ。)に対し、次に掲げる行為をすることをいう」とあります。ですから、この法律は、あくまで保護者が児童に行った行為に対する「児童虐待防止法」なのです。
ここには、現にその子の面倒をみている児童福祉法上のいろいろな施設、児童養護施設などの施設長や職員も入ると解釈されています。何らかのかたちで、子どもの養育に責任をもっている者が18 歳未満の児童に行った場合だけにこの法律では「児童虐待」になるのです。これにも当然ながら批判があります。特に、性的な虐待の場合、親でない場合があります。学校の先生や、リトルリーグなどスポーツをやっている子どもの指導者からの虐待、ベビーシッターによる児童虐待もあります。
これらの虐待は、「児童虐待防止法」では対象になりません。この法律の趣旨は、他人の場合は、誰かが見ている可能性があり、そうであれば、犯罪として問題としやすいけれども、保護者の場合は虐待が家庭内、つまり、密室で行われ、発見されにくい、その発見されにくく、しかも親という特別な関係を持っているものによって行われるために、潜在化してしまう行為に焦点をあてようとしたものです。審議の過程でのこういう限定はおかしいと強く主張している人たちもいます。
定義の問題はDV の法律をつくるときにも当然問題になります。たとえば「ストーカー行為規制法」もそうです。この法律は何を対象にしているのかということに関しては、当然かなり議論があります。
先ほどのストーカーの話で「つきまとい等」という行為は「特定の者に関する恋愛感情その他好意の感情、またはそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的」ですから、ストーカーの場合は恋愛感情がストーカーとして評価されるために必要な要件です。
実は、「恋愛」ということばが法律に出てくることはすごいことなのです。「刑法には『故意』(『恋』)がない」ということで、無味乾燥の最たる例として挙げられますし、また、民法でも婚約なら別ですが、恋愛については、法は基本的には介入しないと原則が維持されていました。婚約の破棄なら損害賠償の対象になる可能性がありますが、恋愛関係の一方的終了は、法的保護の範囲外でした。ストーカーの場合、恋愛感情をもった人に対して行われる行為は、当然ながら行為者が男性でも女性でも関係ありません。女性のストーカーも女性のDV 加害者よりは頻度が多いと言われています。行為者や被害者の性別には限定はないけれども、恋愛感情をもった人に対して行うという限定がついています。
では、何をもって恋愛感情というのでしょうか。まだ児童虐待のほうの保護者という定義は、客観的に確定することが比較的簡単ですが、「恋愛感情を持つ者」を客観的な基準ではかることはなかなか困難です。場合によっては、非常に哲学的な議論になる可能性もあります。「好きだ」という感情すべてが恋愛感情とは限りません。伝統的に、客観的な基準で把握可能な行為を対象としていたのに対して、「恋愛」という主観的な基準をもちこむことで、いろいろな問題が生じる可能性が出てくることになります。
このあたりのことについては、『法学セミナー』(2000 年10 月号)に「検証・『民事不介入』の揺らぎ」という特集が組まれ、その中に「警察の介入姿勢の『変化』と『法は家庭に入らず』の維持」という記事がありますので、参考になさってください。また、「児童虐待と家庭への介入」に関連して「児童虐待防止法」の詳しい解説記事も載っています。さらに「ストーカー行為規制法」に関する記事、介入のしかたなどの加害者への対策等の記事が載っています。
法律の専門誌でこういう企画をするということは、いろいろな問題には法が対処できる領域と対処しきれない領域があるということを認識したうえで、最近行われている法的対応の隙間を埋める立法に対して焦点を当てようという動きがあることを示しています。たぶん、皆さんも、「法は家庭に入らず」という格言に対して、現場で日々対応に苦慮していらっしゃると思いますが、皆さんを法的に支援するための特集だと理解していただければと思います。
● 私的領域と公的領域
法の適用領域を考える場合、基本的な区別として、「私的領域」と「公的領域」の区別があります。私たちの生活領域を「私的領域」と「公的領域」を区別して、法は公的な領域に関するルールとして考えられてきました。私的な領域に対してもやはりルールは必要で、まったくルールがなければ、無秩序状態になってしまいます。そうすると、弱い者の権利が保障されなくなってしまうということになります。
では、私的な領域におけるルールは、どういうかたちでつくられてきたかと言いますと、たとえばそこにキリスト教的な伝統がある場合は、教会など、宗教規範がこの私的な領域のルールとしてあったと言われています。しかし、西洋でも宗教規範はだんだん揺らいできていますので、私的な領域に関するルールを宗教規範に求めることは難しくなってきています。私的な領域で誰がルールを決めていたかというと、日本でいえば以前は「家」制度における戸主にあたるような家長が、つまり父親や夫といった男性が私的な領域のルールを決めていたのです。日本における家制度のような家父長制では、家長だけが公的な領域で法的な主体として活動します。そして、その家長が家ごとの個々のルールを決めており、それをコントロールすることのできる宗教規範のような存在がなくなってしまった。それが、私的領域の無秩序化を招いた大きな要因です。
警察は法執行機関、公的領域において活動することが期待されてきました。警察は法を執行する機関です。法の目的、たとえば、社会の安全・秩序維持、を実現するために働いています。そのため、法が機能しない領域、つまりは私的な領域に介入することは、制度的に要求されなかったのです。
私的な領域をコントロールしてきた宗教規範の影響力がなくなったことにより、権力者である家長の勝手放題の状態になってきた。家庭でも家族でも何でもいいですが、私的な領域でルールがなくなるとどうなるかというと、権力が生のまま出てくるわけです。そうなると、弱い者が犠牲になります。
法がルールとして機能している公的な領域においては、無権利状態におかれる人をなるべく少なくしようということで、権利の保障というアプローチで、社会的弱者の生存であるとか、自由を保障してきた歴史があるわけです。それに対して、私的な領域に関しては、違うルールが存在し、そのルールが弱体化してきた。それは、ある面から見ればよいことですが、伝統的によしとされていた規範がなくなってきたことによって、生の権力が出てきたわけです。
家長をコントロールするルール自体は弱体化しましたが、私的領域において、家父長制は色濃く残っています。家父長制は強者がもつ権力をより正統化する役割を果たします。常に力を握っている人が決まっている。ある場合には父親が権力者となり、ある場合には母親が権力者となるという立場の互換性がまったくなくて、権力者が固定していることが家父長制の問題です。家父長制が思想的に続いている私的な領域では、権力が変容されることなく、ストレートに問題とされるようになり、支配・被支配というDV などで問題になる状況がそのまま放置されるという状態になってしまうのです。
● 私的領域で必要とされる法の力
家父長制は、もちろん権力が戸主に当たる人たちに集中していたということのデメリットも当然あったのですが、その人たちに課せられる責任も重く、あるシステムのなかでは有効に機能しているので評価することがまったくなかったわけではありません。
しかし、現在公的な領域で課せられる責任が少なくとも夫婦は同等であるということからすると、現代社会においては家父長的なものの考え方は、私的領域の無秩序のなかでの権利を固定化し、継続化させる役割しか果たしていないという問題があります。そのなかで起こるのは、権力と支配、パワーとコントロールによる秩序維持です。本当は、対等な話し合いという民主的なルールが私的領域にも適用されなければいけないはずなのに、力による秩序の維持が私的領域のなかで行われてきたのです。
そういう場合どうするかというと、2 つの戦略があって、1 つは違うルールを新たにつくる。もう1つは私的な領域にいまある法律を適用するというものです。これは弱者の権利を守るために、公的な領域に存在しているルールを導入し、無秩序状態を解消しようというものです。
公的な領域においてのみ妥当すると考えられてきた法を、私的な領域という本来は違うルールによって存在すべきだと考えられてきたところに適用する。つまり私的領域に関する新たなルールをつくるのではなくて、外にある、そして強力な力をもっている法の力に期待をする。そのような状況に現在はなっています。
これについてももちろん賛否両論あります。私的領域に関して法が介入すると、最終的には警察が介入するというイメージになっていきます。そういうことが私的領域に相応しいのかどうか。家父長制は、女性に対して大変抑圧的にはたらいてきたことは言うまでもないことです。けれども、法が家庭に入らなかったのにはそれなりの理由もあります。物理的強制力と親密な関係とのミスマッチは、人間関係そのものにも関連する重大な問題です。そのため、本当に介入の必要があるのか、介入するとしてもどこまで介入できるのかという問題を解決する必要があります。
無権利状態に置かれている死にそうな人に対して、介入をしていかなければいけないということで、法が家庭に入ってきています。「児童虐待防止法」は明らかにもそういうことを念頭に置いています。ストーカーに関しては、いっしょに住んでいないことを前提としてつきまとい等が犯罪行為として規定されていますので、公的領域と私的領域の境界線の問題だと考えることができます。そのため、法律をつくって介入することが比較的容易だったように思えます。
● 児童虐待の発見
「児童虐待防止法」に関しては、第2 条の第4 号で、「児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと」とありますが、DV を見て育った子どもにもあてはまるかどうかということは、議論の余地があります。DV を見て育つということは「著しい心理的外傷を与える言動を行う」という範疇に入るのだということになれば、そこにDV と子どもの虐待との関係が明確に関連づけられることになり、それが望ましいことはいうまでもありません。ただし、今の制度で果たしてそういうかたちの対応ができるかどうかは疑問です。
「児童虐待防止法」は、基本的にいままでの命令のレベルでやってきたことを法律に規定しなおしただけだという批判もあります。ただし、法律で規定することのメリットも当然にあります。守秘義務との関係で今までは通告できなかった人たちがいたかもしれませんが、第5条「早期発見」の項で、「通告しても守秘義務違反にはならない」と規定したことによって、これまでよりも、子どもの虐待が発見しやすくなるだろうと思います。たとえば、弁護士や医師などは、そこで見聞きしたことを話してしまうと刑法上の犯罪になります。刑罰でもって守秘義務を課しているということが、弁護士や医師にとっては、足かせになっているのです。ですから、「子ども虐待の早期発見のためには、通告しても守秘義務違反にはならない」と法律で明示することの意味はかなり大きいと思います。
なお、通告義務自体は、児童福祉法第25 条ですべての人に課されています。そのことがあまり理解されていない。たとえば、1999 年度の児童虐待死は5 件、相談所関与後に起こっているという新聞記事が載っていますが、そこに、「20 日施行された児童虐待防止法では、虐待の早期発見・通告が、教師や医師らに義務づけられた」という記述があります。これを普通に読んだ人は、「そうか、特別な人だけに義務づけられたのだ」と思ってしまいます。けれども、児童福祉法は児童虐待を通報する義務はすべての人にあるとしているのです。今回の法律だけを解説するのではなく、これまである法律との関係も射程にいれた記事を書くことが必要です。
皆さんもご存じのように、アメリカでは通報法がありまして、一定の職種の人は、児童虐待を通報しないと刑罰を科すという重い義務を負わせています。それに比べて、今回の早期発見の義務化は、まだまだ不十分な段階にとどまっているということになります。
特に児童虐待は、発見しないと介入も何もできないわけですから、どうやって見つけるかが子どもを守る生命線というわけです。今回の規定ですと、守秘義務違反にならないといわれても、どこまで実行性があるかという疑問が出てきます。せっかくつくったものですから、実行性がある解釈を行って、一般の人たちの意識を変えることが必要だと思います。医師や弁護士に限らず、どんな人に対しても義務があるということを自覚させ、子ども虐待かどうかを常に疑う態度を身につけさせるためには、法律がどうであろうが「通告は義務なのだ」と言い続けることが必要です。一般には、法律上の「努力」という文言は隠しておいて「あなた“義務”なのですよ、“義務”ですよ」と、繰り返し主張していったほうがいいかもしれません。
もっといいものにしましょうということで、何年後かに見直しをするという規定をつけることが多いのですが、まだ検討不十分な部分もあるし、いろいろな検討も必要だということで、付則第2条に「三年を目途として施行見直しをする」となっています。その見直しのために、いろいろな問題点を今後も検討していく必要があります。
● 警察の援助
第10 条「警察官の援助」ですけれども、援助を求めることはいままでもできました。問題は「鍵を誰が開けるか」です。つまり、そこで虐待が行われているという通告があって行ったのだが、鍵がかかっているときに鍵を壊せるかということは、現場の人たちにとってはかなり重要な問題なのです。鍵を壊せるか壊せないかについて、国会の審議過程では「鍵を壊すのは警察です」と言っていますが、警察へ行くと「私たちは鍵は壊しません」と言うのです。児童相談所が警察に「鍵を壊してください」と言うことがこの条文でできるのかどうかは問題です。
警察は私的な領域には、あまり介入したくないのが本音だろうと思います。しかも事件にならないようなものには介入したくない。しかし、こうして条文があるので、警察官に援助を求めることができるとなっていますから、「助けてください」、「鍵を開けてください」、「なんとかしてください」と言えるわけです。そこまでやってくれないかもしれないと否定的に考えないで、せっかくもらったツール(道具)なので、最大限に解釈して使っていくことが必要だと思います。
● 法の目的と運用
もし、DV 法ができたとしたら、それを最大限活用できるように条文を解釈して行く必要があります。もちろん、文言からくる制約はありますし、特に刑罰法規の場合は厳密に解釈される必要があります。けれども、危機的状況の場合、人の生命とか安全を確保することが至上命題ですから、そのためにできる努力を最大限行うことが必要になります。条文を根拠とした対応は、それがない場合よりも当然やりやすくなります。
「児童虐待防止法」では、保護者である加害者に対しては、第11 条で「指導を受ける義務」に服さなければならないことになります。ただし、誰が親に指導するのかというかなり大きな問題があります。児童相談所は、子どもを中心に対応しなければいけない機関です。そして、指導が必要な親に対しては、子どもを一時保護して親から取り上げることを行っています。親から見れば、子どもを取り上げられた上に、自分も指導されるというのはなかなか受け入れがたい事態です。また、児童相談所にとっても、子どもにへの対応だけでも大変なのに、さらに親にまで対応し指導していかなければいけないとなると、その蓄積がないだけにおざなりに終わってしまう可能性もあります。
具体的にどういう指導が行われる必要があるのかについてなど、まだまだ詰めなければいけない問題が多々あります。アメリカでは、加害者への対応は、そのノウハウのある民間に委託しています。東京ではNPOと協力関係を結び民間委託への道を歩みだしています。有効な社会資源の活用という点からも、なんでもかんでも行政がやる必要があるのかという点についても考える必要があります。
アメリカでは、DV の加害者に対してカウンセリングを行っているわけですが、いろいろな団体やグループが行っています。アメリカの場合は、裁判になると「有罪答弁」という手続があります。有罪答弁で、「私はやっていない」という人だけが、事実認定手続に進み、「やった」と認めた人は、そのあとはもう量刑の手続きに入るのです。日本では、有罪答弁の制度がありませんから、被告人がどのような主張を行っても事実認定手続が行われます。やったかやらないか、犯罪事実を確認するのが事実認定で、やったことを前提としてどういう刑罰を科すのか決めるのが量刑の問題です。アメリカでは、事実認定については陪審員による裁判を受ける権利が認められています。量刑手続は、例外もありますが、基本的には裁判官がやります。量刑の一選択肢として、DV が初めて刑事事件になった場合、たとえばワシントン州では、1 年間の介入プログラムを選択することができます。「あなたは刑務所へ行きますか? それとも1 年間の介入プログラムを受けますか?」と尋ねられます。
そこで、1 年間の介入プログラムを選択することができます。プログラムの内容や期間も法律で決まっており、「週に1 回を6 カ月、その後の6 ヶ月は月に1 回」と決められています。
このインターベンションのプログラムの特徴は、ジャッジメンタルということにあります。セラピーやトリートメントという場合には、「ノン・ジャッジメンタルにしましょう」と言いますが、「相手を受け入れましょう」ではだめだということです。悪いことをやった加害者のプログラムですからジャッジメンタルでなければいけないのです。だから「私たちはセラピストではない」とプログラムを担当している人たちは言っています。「ノン・ジャッジメンタルではなくて、ジャッジメンタルにしなければいけない」と言うのです。そこで、加害者に自分の行動に対して責任をもつということを教えていくわけです。
そういうジャッジメンタルな介入プログラムをやっていて、なおかつ来る人がお金を払うというシステムになっています。介入プログラムを選択することで、刑務所に行かなくてもよいというメリットがあり、加害者がお金を払うということになります。払えなくなったらどうするのかというと、プログラムによっては「来てはいけない」と言うところもあるし、1 カ月ぐらいは待ってもらえるところもあります。基本的にはプロベーション・オフィサーという人がいて、いろいろなアドバイスやサジェスションをしてくれます。もちろん、プログラムを行う技量があるかどうかについては、当然審査もありますが、民間に委託して、1 年間プログラムを担当してもらいます。そして毎月、プロベーション・オフィサーに報告書を出します。このように、民間委託ですといろいろなプログラムが可能になってきます。これは、アメリカに共通して見られることで、そのために、特徴ある多様なプログラムが非行少年に対しても行われるのです。ワシントン州の場合には、最低限のプログラムは法律にあり、そこにはおもにしてはいけないことが記載されています。プログラムのファシリテイターになる人の養成についても、法律が規定しており、加害者に対する援助を30 時間学び、被害者に対する援助を30 時間学んだ人しか、加害者介入プログラムに携われないと、法律で決まっているのです。
アメリカの法律は、法律が州ごとに決まっているということもあって、かなり具体的なことまで決められていますので、日本における法律と命令をいっしょにしたようなものだと思っていただければわかりやすいでしょう。
● 日本の民間委託状況
日本においても、親を教育するときに、全部児童相談所がやるのではなくて、虐待防止センターなどがやって報告をするとか、そういう外部委託(アウトソーシング)のシステムがはじまっていますから、DV に関しても、外注システムをつくる必要があるのではないかと思います。
これはまったく夢物語ではありません。日本では、長らく保護の現場で、刑務所から出てきた成人や少年について「保護観察」をやっています。保護観察というのは保護観察官(プロベーション・オフィサー)のほかに、普通の民間人の保護司がいて、最初の2 日間の訓練だけで、実際の保護観察を担当しています。保護司は基本的には素人が、オン・ジョブ・トレーニングでケースを担当しています。素人に対して、犯罪者の処遇を担当させるという民間委託をすでにやっていますので、DV の介入プログラムなど、訓練された人たちに対する民間委託の道は比較的簡単に開けるのではないかと思っています。民間のいろいろな活動を利用しながら、さまざまなプログラムをどんどん行うことで、プログラムも次第に洗練されてきます。
婦人相談所にDV 防止センターの機能をもたせるという案や、シェルターに対して財政的な援助を行うことで、外注システムを採用しようという案もあります。児童虐待に関しては児童相談所、DVに関しては婦人相談所が中心機関となって、振り分けを行って、具体的な対応には加害者の治療プログラムも含めて外注システムで行うという選択も可能だろうと思います。治療プログラムまでを視野にいれて、どういう法律があったらよいのかということを考えなければいけないと思っています。


6. なぜ新しい法律が必要か
● 啓発のための法律の必要性
新しい法律つくる場合、なぜ新しい法律が必要なのかを明確にする必要があります。これまでの法律で対応できれば、新しい法律は必要ないはずです。たとえば、ストーカー行為は、いままではストーカー行為が犯罪ではなかったので対応できないため、新たな法律ができました。しかし、法的に規定がないことだけが、立法の理由ではないはずです。
いままで犯罪として考えられてこなかったから、新たに犯罪として認知させるために法律が必要だという考え方も十分成り立ちます。「児童虐待防止法」には、親権における懲戒権を前提として、しつけの一部であると考えられがちな児童虐待を、いけないことである、犯罪であると認識させる効果をもっています。そのことを示しているのが、第3 条「何人も児童に対して虐待をしてはならない」という禁止規定です。これには、刑罰という制裁は科されていないけれども、やってはいけないことだと宣言することに意味があったのです。いままで法が介入することを予定していなかった領域に関しては、そういう宣言的な法律をつくることの意味もあるのです。
● 何を獲得目標とするのか
法律をつくることで、直面している問題のすべてが解決されればそれに越したことはないのですが、網羅的な法律をつくることには困難が伴います。立法は、政治的妥協の産物ですから、とりあえずの獲得目標を明確にする必要があります。そのために、皆さんがそれぞれの現場で、何がほしいのか、これがあれば自分のこういう行動がやりやすくなるとか、上司を説得しやすくなるのかを考えなければなりません。DV のどの場面について、どのような法律が必要なのか、危機介入の場面なのか、予防の場面なのか。具体的な場面を思い浮かべながら、あるべき立法を考えてほしいと思います。
ストーカー行為にしても児童虐待にしても、対象となっている行為が限定されています。したがって、DV 法をつくるにあたっても、どのような行為を対象とするのかということが問題となってきますし、ある目的達成のためにどのような手段を取るのかも重要です。ある行為を禁止する場合にも、先ほど「努力義務」ということばが出ましたが、努力義務にとどめる場合もあるし、禁止するけれども刑罰は科さない、刑罰を科してまでその行為をやめさせるといったいくつかの段階があります。そのどの段階を対応として予定するのかは法律の性格にも影響を与えます。
いろいろな対応方法があるわけですから、どのレベルでの対応を求めるのかを明確にする必要があります。そして、その対応を行う場合、従来の機関を補強することで足りるのか、新たな機関が必要なのかについても検討する必要があります。
● 女性と子どもはセットで考える
DV が親密な関係における暴力である以上は、子どものいる人がDV の被害者になる可能性を常に視座に入れる必要があります。男女共同参画社会基本法にしてもそうでしたが、通常、女性への対応は、子どもと別個に行われます。あるとき、男女共同参画室長と話していて、DV に関しては、子どもも視座に入れてほしいと言うと、子どもは厚生省がやるのだと言われました。役所の縄張りが重要で、その程度の認識しかないなのです。
それではやはりいけないのです、いま、はっきり言って児童相談所は、「児童虐待防止法」で手いっぱいです。ということは、いま殴られている子どもしか対応できないということです。次に殴られるかもしれない、あるいはもっとひどい影響があるかもしれない子どもたちに対応することまでは、望めない。そのために、これからつくるDV 法は、女性と子どもをペアで考え、女性と子どもの安全が確保される法律になる必要があります。DVや虐待のある家庭で暴力にさらされて育った子どもたちは、暴力に対する親和性が高くなります。このことは、子どもが犯罪や、いじめというかたちで暴力を行う場合の規範的ハードルを下げることにもつながります。子どもの成長発達において、親の影響は大きいと言わざるをえません。
アメリカでもDV と子どもの影響について言われだしたのは、ここ10 年ぐらいです。それまでは、DV によって離婚しても、親権の問題になると、父親が親権者となることが多かった。父親が殴っていてそれが原因で別れたにもかかわらず、子どもが父親に引き取られてしまうのが一般的でした。
マサチューセッツでは1997 年に、裁判所が、離婚後の監護権を決定する場合に、DV の加害者かどうかということも考慮に入れなさいという判例を出しています。それ以降、監護権を考えるときには、かならずDV を考慮するということになってきています。でも、マサチューセッツでもやっと最近なのですね、そういう取り扱いが行われてきたのは。
日本の場合、幸か不幸か、DV の対策が遅れていますから、先進国アメリカの二の舞を踏まずにすむというか、同じ失敗をやらなくてすみます。アメリカが20 年かけて試行錯誤しながらやってきたことを「いいところどり」することもできるはずです。子どもと女性の安全は切り離さずに考えることがどうしても必要です。
● 犯罪被害者対策
犯罪被害者については、これまで無視されてきたぶん、法律の改正も含めて、できることは何でもやろうという社会状況になってきています。DVに対する対策も、犯罪被害者対策の一環として位置づけていく必要があると思うのです。DV が犯罪であれば、暴力をふるわれた人は犯罪被害者ですから、犯罪被害者としての枠組みのなかに組み入れる必要があります。さらに、公的領域ではないぶん、手厚い対応がDV 犯罪被害者には特に必要になります。
アメリカのシアトルの例ですが、日本の簡易裁判所にあたるようなところで、比較的軽微なDV 事件を扱っている主任検察官は、「私たちは、被害者が証言しなくても有罪にできるようなかたちの証拠収集を行っている」と言っていました。殺人事件では被害者は死亡しているために、証言ができません。彼女は殺人事件と同じレベルで、DV を考えることが必要だと言っているのです。
殺人事件の場合、警察は被害者の証言がなくても有罪にできるような証拠を数多く集めるわけです。殺人事件と同様な捜査や審理をしてもらうためには、DV の反社会性を正しく理解してもらう必要があります。殺人とDV を同じぐらいに扱うといったラディカルな発想の転換が必要で、被害者が証言しなくても有罪として認定できるようなシステムもつくっていかなければならないと思います。
アメリカの場合は、警察にしても検察にしてもDVの専門チームがあります。それに加えて、最近では裁判所もDV コートというのをつくって、DV だけを特別に取り扱うという動きが一般的になってきています。
日本でも司法だけではなく、福祉の現場でも、DV の専門家を配して、その専門家がネットワークをつくり、有効なDV 対策を行う必要があります。そのために、どのような法律が必要なのか。皆さんといっしょに考えてみたいと思っています。


7. 制度改革できるシステムの構築
DV の被害者は第一次的には自立して、自己決定ができる大人の女性であることから、子どもの場合のように、福祉的発想、保護的な発想に基づく統一的な制度がないという限界があります。現状では、1 つの機関に1 人の担当者しかおらず、全部自分で判断し行動しなければいけないという人もいるようです。動きやすい反面、すべての責任を取らなければならないという重圧もあるだろうと予想されます。また、その仕事が必要であるという法的制度的位置づけがないために、いくつもの仕事と兼務している人もいらっしゃいます。
外からわかるかたちで、制度化されていなければ、どこの誰とネットワークキングをとればよいのかすらわかりません。その意味で、現在の状況でネットワーキングするときの障害のハードルの高さを私も改めて感じています。
現場のケースワークの担当者は、どこでもそうだと思うのですが、それほど権限がないのです。上司がいて、多くの場合、その上司がよくないという問題もあります。上司がDV にどれだけ関心をもっているか、児童虐待の問題をどれだけシリアスに考えているかで、皆さんの活動は非常に限定されてくると思います。これは、アメリカでも同じで、たとえば、検察官や裁判官で力がある人がDV に関心をもったり、理解があると、DV の被害者にとって役に立つシステムとして、DV 専用法廷や、DV 担当検察官の制度ができたりします。
こういった制度をつくるためには法律が必要です。グラスルーツで意識改革をしていかなければいけない、制度改革をしなければいけないと下からの意識改革はよく言われますが、同時に上からの改革も当然必要で、特に日本の場合は、上が変われば下まで全部変わるというよさもありますから、そのよい伝統を使わない手はないと思います。そういう意味でも、皆さんが使いやすいような法律をつくりたいのです。上司も公務員であるならば、法律には従わなければいけませんから、このあといろいろなヒアリングをしていき、上司がどんなふうに変わってくれる法律がほしいのかをお聞きしたいのです。「こういう条文があります。お願いですから、私にこれをさせてください」というアプローチができるひとつの手段としての法律。「この上司ないしはこの所長、この市長を変えていくにはどういう法律があったらいいのか」という視点から法律を考えること、そういう法律のとらえ方がいま必要なのです。下からの意識・制度改革と上からの意識・制度改革。現場や被害者が望むだかたちでの制度改革を行うためには、この両方からのアプローチが不可欠です。


8. グループ発表・講評・質疑応答
いままでの話を聞いて、どういう法律があれば、上司を説得できるか、目の前にいる人を救えると思うか、自分たちがほしいDV 法とはどのようなものなのか、どういう法律があれば自分の活動はもっとやりやすくなるかについて、発表してもらいたいと思います。
また、具体的な場面での介入を前提としなくても、DV の予防に役立つであろうとか、もっと一般の人たちの認知が進むだろうかといったことについて、話し合っていただいても結構です。話し合いのあとで、グループごとに発表していただきたいと思います。
【発表者1】
qDVは犯罪であるという明記がほしい。
w一時保護の婦人相談所は受け入れ期間が2 週間なので、そのあと入所できる公的な女性と子どもの保護施設の増設・充実・拡大を求めたい。
e被害女性が法廷に立たなくてもいいように、証拠収集のために法廷に立つことがあったとしてもなるべく負担が減るように、警察に対する努力義務規定がほしい。
r女性が逃げたあと、加害者側が追ってくるケースが数多くみられるので、加害者側に対する制限がほしい。たとえば、現在は、住民票の開示を拒否するに警察署長の許可がないとできないため、加害者が勝手に住民票をとって被害者の居場所をつきとめたりするケースもあるので、加害者側に対する制限がほしい。
t加害者にカウンセリングを受けさせる義務を法律に盛り込んでほしい。
【発表者2】
q自分の住んでいる地域で相談することに抵抗を感じる人もあるし、同じ市内を逃げまわるのも限界があるので、保護地域の拡大の必要性があると思いますが、問題は財源だと思います。現在は、相談を受けた窓口のほうが、生活保護費や措置費をもつのか、施設のあるところがお金を払うのかという問題でかなりもめることがあると聞きます。また、この地域では生活保護が認められたのに、あの地域では難しいという保護の格差の問題が多く出てきています。この地域だったから幸運だった、あの地域だったから不幸だったということのないよう、国での財源の一本化ができたらいいなと思います。窓口になった部署が、市町村が県におうかがいをたてて、県が国におうかがいをたてて、というふうにならないように、事務的な手続きが煩雑にならないことも大事なことだと思います。
wシェルターの増設が必要です。自由人権協会の案に、シェルターに補助金を出すと書いてありましたが、補助金だけではやっていけません。シェルター職員に給料がでるのがあたりまえになっていかなければならないと思っています。
e支援者側の安全面も重要です。暴力団の妻を保護するときなど、支援者側の安全が脅かされる場合があるので、なんらかの対策を考える必要があります。
r担当するケースの数や大変さはそんなに変わらないにもかかわらず、兼務している業務があったり、非常勤であったりと複雑な勤務体系が存在しています。そのような体制を変えていく必要があるのではないかと思っています。母子相談員と女性相談員の分化など、制度的な手当ても必要ではないかと思います。
【発表者3】
q「DV 法」ができれば、DV 問題が顕在化すると思います。法律ができて、「DV が悪いことだ」と周知されれば、いままでDV を認識できなかった人たちも、警察や役所を訪ねることができるのではないかと思います。
w現在の婦人相談所が、自由人権協会の案にある保護施設のような役割をはたしていけるのか大いに疑問です。これまでとはまったく別の新しい機関、たとえば、複合的・総合的に女性の人生をみるような民間の施設をつくったほうが、効果があるのではないかと思うのです。でも、それを実現するために、公的機関から経済的に援助してもらえるしくみをつくる必要があると思います。
e被害者の安全確保と同時に、相談員の安全の確保もやっていかなければなりません。
r生活保護ではなく、被害を受けた人が自立するための資金を出せるような法律ができたらうれしいなと思います。
【発表者4】
qDV と虐待を総括してきちっと法的に定義をとってほしいし、それぞれが理解できるような認定の方法も含め、法的に盛り込んでほしい。
w支援センターをつくっていけたらいいと思います。法務省、厚生省、文部省が協力してやってほしいと思います。財政的にも三省が合同で行えば、必要な額のお金は出せるだろうと思います。国庫補助のほうが理想的ではないかと思います。
現状では、支援が必要な人がどこにアクセスしていいかわからないし、たらいまわしにされている事実があるので、支援センターのような大きなものが真ん中にあって、いまある婦人相談所や児童相談所を多角的に見られるようなかたちになればいいと思います。少し離れたところにシェルターなどの自立した施設も必要だと思います。
支援センターのなかには、予防的なシステムも必要です。加害者の生い立ちからのフォローアップも含めて支援することができれば、次世代の子どもたちにも同じ傷をつけないですむのではないでしょうか。
【講評】
● DV を一般論として話せない困難性
ありがとうございました。DV を犯罪として明記することで、問題として浮かび上がらせることができるというのは、セクシュアル・ハラスメントやストーカーと同じです。
セクシュアル・ハラスメントが「セクハラ」として一般的に誰でも知ることばになったのは、それが職場という公的な場所で行われていたことの影響が大きかったと思います。職場では、「する人」「される人」以外の「見ている人」が当然いるわけですから、それについて話をする機会も多く、ことばとしても一般化される可能性が高くなります。加害者になる可能性のある人も被害者になる可能性がある人も、一般論として話をしやすい状況にある。しかし、DV は職場で見聞きしないわけですから、それについて一般論として話をすることができない、という難しさがあります。
DV を犯罪と明記することは重要ですが、どのような犯罪としてとらえるのかについても考える必要があるでしょう。ストーカー行為もDV のひとつの態様として考えることもできますし、DV をアビューズとして捉えたり、バイオレンスとして把握することもできます。それぞれの捉え方には、メリットもありますが、DV をある面から切り取るのではなく、総合的にとらえることも必要です。
● だれが犯罪として認定するかが重要
DV で重要な視点は、誰がそれを犯罪として認定するかなのです。こういう問題は、被害者が「これはDV である」と言えば、それで認定できるようにしないといけない。それが基本的な発想としてあると思います。ただ、伝統的には、被害者がどう思ったかではなく、客観的にそれが犯罪として評価できるかが問題とされてきました。
たとえば、デート・レイプは、強かん罪と評価されてこなかった。相手の女性がいやだと言えばそれが強かんになるのではなく、抵抗の度合いで意思を測ってきました。被害者の意思に反していれば、それが客観的レベルまで証明されなくても、強かん罪を成立させるというのが、フェミニズムの異議申し立てによって獲得されてきた成果です。
これを、もう少し説得的なものにしていくことも必要となります。しかし、いじめでも何でもそうですが、いじめている人はいじめているつもりはない、DV も殴っている人は悪いことをしていると思っていない。
しかし、殴られているほうにとってはもうとてもしんどいことだから、しんどい思いをしている人の訴えだけでなんらかのアクションを起こせるような制度が必要だと思います。被害者が「いやだ」と言ったときに、つまり被害者が「それは私の権利を侵害している」と言っただけで社会的に問題視でき、犯罪と認定されるような手続にのせられるシステムが、いちばん必要なのだと思うのです。証拠収集の義務化の主張も、捜査をきちんと開始してほしいということを示しています。親告罪にするのではなく、殴ったらそれは立派な犯罪だから必ず捜査しなければいけないというように捜査を義務づけるということが必要です。
指摘されたように、被害者関連の情報が加害者に開示されていくといろいろな問題が出てきます。ただ、それを誰が止めるのかが問題です。警察署長の権限で情報の公開をとめることができる制度をつくったとしても、「署長、やってください」と言う人はだれなのか。総合的なセンターがあればそこの人がルーティンで、相談者が来たらとにかくサッと警察に電話をかけて、1 時間以内には情報が全部漏れないようにできるといったシステムが必要なのだと思います。
● 次の加害を避けるための方策が必要
カウンセリングにしてもインターベンションにしても、次世代や次の加害を避けるための方策が必要でしょう。刑罰がいいのか、インターベンションのプログラムがいいのかについても議論の分かれるところです。私も日本人のバタラーに話を聞いたことがあります。そのときに、暴力を防止するために何がいちばん有効ですかと訊ねました。
そしたら、やっぱり離婚がきついと言うのです。離婚される、つまり自分の支配下から出ていくということが暴力の抑止に大変有効だと言われました。バタラーは、DV を犯罪だと思っていないだけではなく、こんなことで離婚なんかされるとは夢にも思っていない。自分がいなければ妻は生きていけないと思っていますから、自分がいなくてもいいんだと思い知らせるには、離婚は実に有効な手段です。
ただし、離婚を言い出したときがいちばん危険ですから、妻や子どもの安全が確保される必要があります。このことは、私的なものを公的な場面にシフトさせると戦略がかなり有効だということを示しています。ですから、DV を私的領域にとどめるのではなく、たとえば、公的機関に支援をもとめるなど、第三者が関わってより公的な領域の問題にしていくことが必要だと思います。
また安全に関しては、被害者の安全もそうですが、援助者の安全も大切ですね。被害者を保護するだけではなく、加害者が被害者に接触できないような、物理的な強制力が必要です。そのために、保護命令としての接近禁止命令や退去命令が必要となります。また本人だけではなくて援助者に対しても危険がおよばないようにする必要があります。たとえば、支援者危険罪というものをつくる必要もあるかもしれません。
つきまとうことはストーキングであり、援助者に対して怒鳴り声でも出したらそれも犯罪だというような、そういうところまで犯罪として明記する必要があるかもしれないと思っています。警察官だったらピストルを出してもいいでしょうが、多くの援助者の場合、自分を守ってくれる人をすぐに調達できません。それほどに危険をともなう第一線であるという認識をもって、もう少し犯罪の明記のときに援助者の安全面を強調する必要があると思います。
● シアトルでは検察官は2 年で異動
シアトルで聞いた話ですが、DV や子ども虐待担当の検察官は、2 年ごとに異動させているそうです。責任者の女性検察官の話では、2 年以上はさせられないということです。そこはDV だけではなくて、老人のアビューズやチャイルド・アビューズも全部やっているので、あまりにもつらくてやめたいと言う検察官も多いそうです。ですから、2 年が限度というわけです。もう1 つは「慣れ」もこわいこのような問題には常にセンシティブにならなければいけないのに、慣れてしまうと被害者の立場に立ちづらくなるというのです。この2 つの理由から、2 年たったら異動してもらい、新しい人を呼んでくるということです。
この話からは、少なくとも問題にセンシティヴィティである、つらいという気持ちや相手に対する共感の気持ちが薄れないようにすることが、援助者の素質として必要なのだいうことがわかります。
そもそも援助者は大変ですから、多くの役割を担っているとそのつらさは倍増しますし、場合によってはアンヴィヴァレントな葛藤が起きてきます。いまの人的状況だとそれも難しいかもしれませんが、いくつかの組織が全部合体して、縦割りではなくて総合的な新しい組織が、女性のライフスタイルやライフサイクルを全部サポートできるようにしていくことができれば、援助者一人ひとりの負担を軽減することができるようになると思います。
こういう話をすると、男性だってつらいのだという話になってくる。当然この社会における男性役割を見直そうということになってきます。そうすると、男性もきちんと相談できるシステム、男性センターみたいなものも必要になってきます。男女共同参画社会を前提とすると、女性だけというのは、かえって難しくなるのかもしれませんね。
● お金がない制度は長つづきしない
皆さんに共通しているのは、「お金がほしいぞ」ということでした。だんだんと公的なお金は出にくくなってきています。そうすると、総合的なサポートをするだけのお金が果たしてでるか疑問になってきますが、スタッフの給料を出せないような施設は続きません。
先ほどの、アメリカのバタラー・プログラムをやっている人たちもお金をきちんともらっていました。このようなプログラムはお金がかかるものなのだということを、アピールしていかなければならないのです。お金をくれないと働けない、生活していけないと言わなければいけません。ボランティアということばの響きはいいのですが、ボランティアに頼ることは、制度を変えないで、つまりお金をどこからも動かさないで、何かいいことだけをやろうという虫のよさを感じます。
ですから、「お金がないとやっていけないのだから、給料を払えないようなものはつくらないでほしい」と言えるぐらいの動きをしていかないといけないと思っているのです。あるべき制度とは何かと考えたときに、お金がない制度は絶対続かないのですから、お金をきちんと付ける制度をつくることをめざすべきです。
本当に、コアになるきちんとした施設がほしいですね。福祉事務所でもいいのです。福祉事務所DV 係みたいに、とりあえずそういう場所を作っていく。もちろん、1 人でやるのは大変です。けれども、ちょっとがんばっていただいて、「私はDV 係です」と言ってタイトルをもらってみてください。それだけでも「ここにDV 係の人がいる」ということで、そこに電話できるようなしくみができます。あまりに属人的になると、次のだれかに代われなくなってしまう可能性も出てきます。ですから、制度化するという意味で、役職名が重要になってくるのです。だれにでも代わり得る制度をつくる必要があります。個人が責任を背負わなくてすむためには、個人を保護する制度が必要です。
きょうは長時間にわたって、いろいろな話をしてきました。なんらかの発想の転換ないしは情報の提供ができたのならうれしいと思います。ただし、これで終わりではありません。それぞれがそれぞれの職場にいる限り、常に考えなければいけないことでしょうし、個人的にも社会の一員として考えつづけていかなければならない問題です。
DV が社会的問題だという認識は、すべての人にトゲのように引っかかっていなければなりませんし、皆さん専門家は、より多くの人にそのトゲをさしていく役割も負っているのではないかと思います。



もくじ   3kaku_s_L.png   [Ⅵ-D] 司法判断。DV・虐待を起因とする離婚事件、どういう立ち位置か
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