あなたは、夫の暴力・DVを容認していませんか? 暴力のある家庭環境で暮らす子どもの心を守ることを忘れていませんか?

[Ⅵ-A] 臨床現場からのレポート(1) DV・児童虐待。暴力と精神疾患

当事者に学ぶ -アディクション・アプローチ- 信田さよ子(原宿カウンセリングセンター所長・臨床心理士)

 
 「ドメスティック・バイオレンスと法」 後藤弘子(富士短期大学助教授)  「子どもの”問題行動”こそ暴力環境への”適応行動”」 関野真理子(ことぶき研究所所長・セラピスト)
(財)女性のためのアジア平和国民基金
援助者のためのワークショップ2000 ドメスティック・バイオレンス 家庭内における女性と子どもへの影響⑤


1.はじめに
私のルーツは技法的にはもともとサイコドラマなのですが、それをワークショップでどう使うか、皆さんのお話を聞ききながら考えていました。とは言っても、私は、何か問題が起きたとき、その問題を技法で解決していこうということにはあまり関心がありません。もっと大きな視点というのでしょうか、たとえば家族も社会も、それから歴史も、全部含んだ大きなうねりのなかで、その問題が出てきているのだというとらえ方が必要だと思っているからです。
ドメスティック・バイオレンス(以下、DV と略す)や子ども虐待の問題も現実のうねりのなかから発生している現象ではないかと考えています。そこでまず、DV や虐待の話に入る前に、日本の臨床心理士の世界がどのような状況にあるのか、その辺からお話したいと思います。


2.臨床心理士の立場
私がいまいちばん苦々しく思っているのは臨床心理士の世界なんです。だいたい数年前まで、臨床心理士の世界では、DV はほとんど注目されていませんでした。では何をやっていたかというと、ボーダーラインや、個人のいわゆるパーソナリティ構造あるいは精神内界を問題にしていたのです。そういう個人カウンセリング中心の精神療法というのでしょうか、それが日本では臨床心理士のここ20 年間のスタイルだったわけです。ですから、ここ20 年間当事者に学ぶということをやってきていないということです。そのために、多くの歪みが出てきている。
世の中のあらゆる矛盾点は、末端というか周辺部に出てくるわけです。つまり、いまの家族、いまの社会、そしていまの行政でおかしくなっている問題点というのが、周辺部、すなわち女と子どものいる領域から、DV だとか虐待というかたちで噴き出しているのだろうと私は考えています。
ですから、行政のなかでも、いちばんの周辺部、末端の現場で女性と子どもを扱う部門の人たちには、当事者に学ぶということをやっていってほしい。その視点がDV や虐待の援助に携わる人には欠かせないと思うからです。


3.アディクション・アプローチ
DV や虐待の問題にかかわっていくときにいちばん必要なことは、オーバーに言えば、私は哲学だと思うのです。
もちろん、目の前にある問題をとりあえずどうするかという現場の初期介入的なノウハウは重要ですよ。でも、その問題をどうとらえるのかという哲学がなければ、その場での介入とか運動というのは結局、消えていってしまうのではないかと思うのです。
私たちは専門家としてかかわっているつもりですが、実はクライアントから絶えず査定をされているわけですね、「この人物は松・竹・梅のどの専門家だろうか」とね。私は、できればクライアントの人たちから「松」と言われたい。では、そのとき何が「松」の保証をしてくれるかというと、どこまでこちらがクライアントの言うことを信じ、クライアントの立場になってみせるかということです。
たとえば、自己愛人格障害や境界性人格障害の患者さんなどにかかわろうというときに技法が何もないと不安だからといって、皆さんはいろいろと勉強するでしょう。でも、知識というのは皆さんの自信のなさを補っているだけであって、クライアントとかかわるときにはあまり意味がないのです。それを証明する最たるものは、自助グループの存在です。自助グループがなぜ有効かというと、そんなに知識がなくても、おたがいに同じだという認識があるので救われるからです。つまり、知識は必要ないと言っているのではなく、目の前にいる人の立場に立つということを決して邪魔しないような知識を身につけていただきたいということです。
なぜそのような考えかたをするようになったかというと、アルコール依存症の現場にいたときの体験から、本は全然役に立たないということがわかったからです。いまから考えれば、単に、日本に優れた本がなかっただけの話なんですが。そういうなかで、私は、現場で得た体験をどうやって自分なりに言語化するか、自分なりのパラダイムをつくるかということを自分の課題とするようになりました。
すると、アメリカにおいてなぜあの単純な方法論がつくられてきたのか、その根底にあるアメリカ的な土壌というものがだんだんと見えてくるようになりました。アメリカでは効果判定がないとお金がもらえない。つまり、成功率というか、回復率というか、治癒率がどれくらいかを数値であらわさなければ保険がきかないのです。だから、単純な方法論が生まれる。しかし、日本はそうではないと思います。
このどろどろとした家族の美風と言いますか、共依存的であなたも私もぐっちゃぐちゃという日本的土壌の中で起きているDV や虐待問題に対処するのに、アメリカ流のやり方をもってしては半分有効、半分無効の結果に終わるだろうと思います。では、いったい何が有効なのか。いま、アディクション、依存症への取り組みのなかで得てきた私の体験的なもの、そしてそれを言語化したものを、アディクション・アプローチというかたちで定式化していきたいと思っています。DV や虐待は、アディクション的なかかわりが非常に有効な分野ではないでしょうか。私がそう思う理由は、次にあげるような共通性が感じられるからです。
qその人(本人、当事者)の立場に立たなければ、どうしようもないこと。困っている人、その人が本人。これはアディクション・アプローチの第1 歩です。
wその人の精神内界をうんぬんする以前に、インターベンション的、現実的にどうするかという危機介入がまず必要であること。
e複数の専門家がネットワークを組まなければ、完全に現実に打ちのめされてしまうということ。
r そして、最後の最後に精神療法的なアプローチが有効であること。
私たちはある意味で決定的に無力である、つまり私たちは偉い専門家でも何でもなく、単なる末端で援助をする人であるという自覚をもたなければいけない。そして、そのネットワークのなかに本人同士の力をどうやって組み入れていくか。自助グループをどうやって組み入れていくか考えることが必要です。この先駆的な分野はやはりアルコール依存症の分野です。


4.援助者にとっての障害
DV や虐待に取り組もうとする場合、援助者にとって障害となる点が3 つあります。
1 つは、「家族観」です。日本という国においては、いったいいつからなのでしょうか。「親子はいいもので、夫婦は仲のいいものだ、だから家族は子どもの居場所であって、親の愛は何よりも尊い」という家族観が支配的です。それを言い換えれば、「子どもは親を批判してはいけない、生んでいただき育てていただいた恩を忘れてはいけない」ということになる。これは明治以来の一種の宗教のようなものですね。これにずっと日本人は洗脳されつづけてきたわけです。
そこにさらに、戦後民法によって、夫婦は愛し合っているものという、ありもしない幻想がつけ加えられたわけです。これによって、子どもたちはお父さんとお母さんは愛し合っているはずだと思い、そして親からしかボクはわたしは愛情を受けられないのだと思い、そういうなかで戦後の子どもたちは育ってきたのです。私たちもそうでした。家族に介入しようというときに、この「家族観」が1 つの大きな障害になります。
●プライバシー
2 つ目は、「プライバシー」ということばです。皆さんはたぶん現場で臨床心理士と連携しようとしたことがあると思うのですが、そのときにプライバシーということばが出てきた経験はありませんか。皆さんもそうだと思うのですが、プライバシーを守らないと自分の専門家資格がなくなってしまうのではないかというような気がしてきて、プライバシーということばは怯えのことばになっていませんか。それはいったいどういうことなのか、あらためて問い直さなければいけないと思います。そういうことをやっている限り、ネットワークは組めないからです。
ネットワークとは何かと言いますと、事例の公開、事例の共有ではないですか。ネットワークを組もうというときに、ひとりの専門家が「プライバシーがあるから」といって事例を抱え込んでしまったら、もうそれでネットワークは切れてしまう。ですから、プライバシーということばも大きな障害になります。
●子ども虐待への対応
ちょっと話が横にそれますが、子ども虐待の場合も、プライバシーということばが障害になってくると思います。児童相談所とかさまざまな専門機関の人が、みんな手を結ぶのがすごく下手なんです。実際にある保健婦さんに聞いたことですが、事例の守秘義務があって連携が取れないと言うわけです。皆さんおかしいと思いませんか。プライバシーというのはその人を救うためにあるのに、殺すように作用しているというのはおかしいですよね。
ですから、ちょっと言い過ぎかもしれないけれど、人を殺すことになるようなプライバシーなんて考えることはないと思うんです。なんのかんのと他の人が言ったら、「そんなの子どもの命とプライバシーとどっちが大事ですか」と言えば、それで済むことですからね。
「告げ口をしてはいけない」「人を疑いの目で見てはいけない」「他人の家に土足で入ってはいけない」、こういった私たちの常識が足かせになっていたのですが、子どもを守るためには、あえてこれを全部やらなきゃいけないんです。だからみなさんも、告げ口をしましょう、積極的に。これは通報義務というものです。隣の家で子どもがなんか痩せてる、ときどきあざがあるというときに、「あっ、告げ口しちゃおう!」と言ってね、電話して告げ口するんです。
それから2 つ目は、「母親を見たら虐待母と思え」。そうでないと虐待は摘発できません。たとえば3 歳児検診、1 歳半検診のときに、保健婦さんがまず虐待がないかどうか見るという、これで見つかるのが実はいっぱいあるんですね。あと保母さんが子どもの遊びを見たときに、「何か性的な遊びをしていないか」「この子は性的虐待を受けているのじゃないか」と疑いの目で見る。これをしないと発見できないんですね。あと、そういう子どもを発見したときには、児童相談所の28 条のこの札をもって行って、「児童相談所です」とか言って、「お子さんを一時保護します」と告げて、他人の家に土足で入って行かなきゃいけないでしょう。この3 つを実践するということが子ども虐待の介入です。
●「医療モデル」から「介入モデル」へ
DV や虐待に取り組もうとする場合、援助者にとって障害となる点の3 つ目は、「医療」です。医療がなぜ障害になるかというと、医療モデルとか治療モデルというものが問題なんです。私たちは何か問題が起きるとすぐに原因は何かと考えますよね。そうすることが骨身に染みついてしまっているんです。原因は何かと考えたら、DV ・虐待は一歩も進めません。
実はこれ、アルコールも同じなのです。アルコール依存症の夫のことで相談にやって来た妻に、「原因はなんでしょうか」と質問したら、そこで止まってしまいますよね。その妻が困っている原因は夫が酒を飲むこと自体であって、その夫がなぜ酒を飲むのかなんて考えはじめたら、これは魑魅魍魎、幻、謎の世界ですよ。夫本人にだってわからないのですから。酔っぱらっている人に「なぜ酒を飲んでいるのか」と理由を質問したら、仕事が辛い、仕事で必要だ、お前の顔が悪い、人生失敗した、親が悪い……等々、10個以上の理由をたちどころにあげてくれますよ。つまり、アディクションというものは、あるところというかあるレベルまで行くと、原因・結果はなくなってしまっているのです。言い換えれば、いまを維持するために飲んでいるのです。それはDV ・虐待も同じです。
家族のなかで起こっている暴力は、一過性ではなく、必ず繰り返しのなかで起こっています。いわば習慣ですね。習慣というものは、何でやっているかなどわからなくなっているのです。そうなると原因と結果の関係なんてものは、そこからは吹き飛んでしまっています。
ところが、医療モデルの基本的な考え方は、それとはまったく正反対です。原因があるから結果がある、だから原因を探ってその原因をなくせば結果がなくなる、という考え方をします。ですから、皆さんがお腹の痛いときに、どんな病院へ行っても、まず検査でしょう。それは原因を探っているわけです。そして、甲状腺の機能亢進だとか、血糖値がどうのだとか言われ、薬をどっさり渡される。しかし、それは偽薬かもしれない、小麦粉かもしれない。でも飲んでいるうちに、なんか良くなってきた。それが果たして原因除去で良くなったのか、自然治癒で良くなったのか、本当はわかりませんよ。そういうことがありますから、医療モデルには限界があるということを知っておいてもらいたい。ですから、DV や虐待は、アディクションという視点でとらえていただきたいわけです。
このように考えてくると、いまの医療モデル・治療モデルというのは、DV や虐待の問題には恐ろしくパワーがないということがわかってもらえると思います。たとえば、「虐待の原因は何か」といったとき、お母さんが原因だったとするじゃないですか。今度は、「お母さんが虐待する原因は何か」と追求していくと、そのお母さんも虐待を受けてきたという事実がわかる。「ああ、世代間連鎖の虐待だ」と、わかったような気になりますよね。だけど、そんなふうにわかったような気になったところで、「さて、それからどうするの?」ということです。
いま、臨床心理士の学校では、パーソナリティ構造、分析、転移、逆転移といった知識を徹底的に叩き込みます。そして専門家が育っていくのですが、果たしてその人たちが、いま、なまなましく家族のなかで起こっているDV や虐待の問題にどれだけかかわれるか、私は本当に疑問に思っています。皆さんは、原因はなにかを追求するのではなく、いまだれがいちばん困っているのか、そのいちばん困っている人をどうやって救うかを考えていかなければいけないわけです。これを「介入モデル」と私は呼びたい。私たち援助者は、「治療モデル」「医療モデル」から「介入モデル」への転換をはからなければいけない。病院ではそれができないのです。
●「中立性」という原則を取り払う
医療モデルにはもう1 つ、「中立性」という原則があります。
治療者は中立である。臨床心理士の基本的なポジションも中立です。つまり、相手の人が何か言ってきたときに巻き込まれてはいけない。中立の立場できちんと話を傾聴し、そしてそこにおける中立性を保持する。これが専門家の条件であるといわれてきました。
けれど、あえていうならば、DV や虐待に取り組むときには、私たちはその原則も取り払わなければいけないのです。どういうことかと言うと、目の前にいる人の立場に立つということです。たとえば、加害者が来たときにはどうか。そのときも私たちは加害者の立場に立たなければいけない。
「僕はAC なんです」というように自分のアイデンティティをもってカウンセリングに来ている人から、「先生、一度でいいから母に会ってください。母親にも来てもらいたいのです」と求められることがありますが、私は本人であるお子さんに会っている場合は絶対に母親とは会いません。代わりに別の担当者が会います。そして、母親に会った担当者は、必ず「とてもいいお母さんです」と感想を言います。これはもう100 %そう言います。
母親のほうは担当者に、「あの子は育てにくい子でした。夜泣きがひどくて、離乳もできなくて、私は徹夜でずっとあの子をみて、本当に睡眠不足の毎日でした。でもなんとか、ようやくここまで育ってくれたと思ったら、なんと私に向かってわけのわからないことを言うのですよ。先生、本当にあの子はかわいそうですね。でも先生のところにカウンセリングに来て、やっとまともになったみたいです」と言うのですね。話を聞いている担当者は、「そうですね。そうですね」と答えるわけです。
つまり、虐待やDV の加害者と被害者には、それぞれの真実があるということです。被害者の真実と加害者の真実は違う。被害者の事実と加害者の事実も違う。記憶も違う。複数あって何が悪いということですよ。要は、私たちはどちらの援助をするのかということです。そうなると、複数の専門家がかかわらなければDV の援助は成り立たないということになります。


5.援助者の立場に立つ
近代科学というか19 世紀以降の科学というものは、対象がいて私がいて、主観があって客観がある、私たちはある存在を客観的に分析し、調査し、とらえて、データをとって、そこから法則を導き出してきた、そしてその法則をほかの人も利用し、いろんな発明やら物ができて、こうして文明的に発展してきたわけです。しかし、そういう考え方のままでは、いきづまってしまう。真実はひとつであるという考えにこりかたまっていて、「親の言い分と子どもの言い分のどっちが本当だろう」などと思ったら、DV や虐待の問題にはもうかかわれなくなってしまうのです。「母は私をこうしたのです」と言ったときに、その人の言うとおりに信じてあげなくてはいけないわけです。そのときに、ちょっとオーバーかなあ、妄想かなあ、虚言かなあという疑念がピピッと入った途端に、目の前の人は私たちを信じてくれなくなります。
なぜかと言いますと、私たちはその面接に命を賭けてはいませんが、相談に来る人は命を賭けているからです。やっとの思いで来ているわけです。そして、全身を研ぎ澄ませて、「この専門家は私の言うことを信じてくれるかなあ」と査定しているのですね。そのときに私たちの中に一瞬でも「この人のレベルはなんだろう、人格障害かなあ」なんて、光がピッと入ったら、もう信じてもらえないような気がしますね。そう私は思っています。
そういうとき、私たちは精神療法をしていると思ってはいけない。ジュディス・ハーマンが『心的外傷と回復』のなかで「同盟者」という表現を使っていますが、私たちはその人たちの同盟者になるというように思わなければいけない。いままで何度も、「そういうあなたも問題でしょう」という言い方をされてきた人たちにとって、いささかの疑念ももたずに援助をされたとき、初めて、援助者に対する信頼感がもてるのではないかと思うからです。私はあえて、信じるという覚悟をします。これがとりあえず当事者にかかわるときの姿勢だと思っています。
そうなると、技法とかハウツーとかはあまり問題ではなくなりますよね。私はそういうものがあまり好きではないのです。なぜかと言いますと、ハウツーというものは共有しやすいのですよ。最近は虐待ばやりですから、本屋さんへ行くと虐待もののハウツー本が嫌になるくらいどっさりと並んでいるでしょう。だいたいネタもとは同じで、みんなアメリカです。虐待のケースにかかわったことがないような大学の教師が、アメリカのネタ本を見て、適当に書いているのです。「虐待を受けた人が来たときは、最初に『あなたが悪いのではないよ』と言ってあげなさい」と書かれているのを見るたびに、またか、とうんざりするのです。
そりゃ「あなたが悪い」というより「あなたは悪くない」というほうがいいに決まっているんですが、それを何かお経みたいに、虐待を受けた子どもが来たときに、「あなたは悪くないよ。あなたの責任ではないよ」というのは、ちょっと背筋が寒くなりませんか。ですから、私はそういうハウツーはあまり好きではありません。それよりも、皆さんが自分でかみ砕いたことばを使ったほうがいいと思います。そういう意味では、基本的なとらえ方さえ共有すれば、あとは皆さんがお好きにやればいいと思います。
受け取るほうは、「ああ、これは技法で言っているな」とか「これはこの人が自分のことばで言っているな」ということがけっこうわかるものらしいです。
●当事者に学ぶ
今後、DV や虐待の問題が広がってくると、自助グループがどんどんつくられていくようになると思います。いまでも、被害者の母の自助グループや虐待を受けた人の自助グループは、AC の自助グループとして東京周辺に広がっています。一時の、AC ブームのような広がりはないにしても、いくつかの自助グループがあって、毎日のようにミーティングをやっています。DV 関係でも、いまバタードウーマンのグループが少しあります。共依存の自助グループも少しあります。それから加害者の男性の自助グループもあるようですね。
そういう自助グループがたくさんできてくると、私たち専門家は何をやるべきかを問われてくるようになります。おそらく数年後にはそういう問題が出てくると思います。いまは皆さんのような人は少ないですから、言い方は悪いですが、力量があろうとなかろうとパイオニア的な価値があるのです。ところが、それがだんだん定着していくと、いわゆる自助グループのほうが先に進んでいるというような事態になるかもしれません。
私が言いたいのは、私たちが本当におそれ、学ぶべき相手は当事者、ご本人だということです。


6.援助の段階とエンパワーメント
では、段階的にとらえるということを少し考えていきます。段階的にとらえるということはあまり本には書いてないと思うのですが、まず第一に予防期。それから介入期、行動修正期、PTSD のケアをする時期、そしていろいろな関係を見つめる、関係洞察期、このように分けられると思います。この分け方も、実はアルコールと同じです。アルコールの場合の行動修正期とは何かと言いますと、酒をとりあえずやめるという時期のことです。
どんな理由であってもいいからとりあえず飲まないでいる。飲まないでいる日をずっと長くしていく。この時期に絶対に「自分はなぜ酒を飲んだのだろう」とか、自分の来し方、行く末を考えてはいけません。これを思うと飲みたくなります。飲まなければあなたは100 点、飲まなければ100 点と、断酒している時期を1 日1 日延ばしていくのです。
これはDV もまったく同じだと思うのです。とりあえずDV 加害者から被害者を引き離して安全な場所に移す。これが介入期です。その次に行動修正期がありますが、DV の行動修正期は夫と接触をしないこと。携帯電話も取り上げる。そして外出させない。とりあえず夫と離れている時間をできるだけ長くすることではないかと思うのです。これはまったく私の考えで、どこかの本に書いてあることではありません。そうしながら、たとえばPTSD のケアをしていく。DV の場合いちばん多いのはうつ病です。あのうつはなんだろうと思うくらいのうつです。うつから抜けて夜もよく眠れるようになって元気になったときが関係洞察期。ここで新たな生活、たとえばこのシェルターを出てどうするとか、病院を出てどうするかを考えなければいけないわけです。
こういう過程を段階的に踏んでいくには、援助者が必要です。私のことばでいうと、同盟者です。よくエンパワーメントと言いますよね。日本人はカタカナが好きで、どこへ行ってもエンパワー、エンパワーと言うのですが、すごくわかりにくいことばです。アメリカの本を読むと、「あなたはそんな殴られているような状況にいる女ではない」とか、「あなたには価値がある」などと、いろんなことを言うらしいのですが、私の考えるエンパワーメントは、先ほど言いました同盟者ということば、これに近いと思うのです。つまりあなたには私という同盟者が1 人つきますよということ。そういう人がついてあげることが必要だと思うのです。
●加害者とのパワーゲーム
なぜこのように考えるようになったか、ある失敗例をお話します。
それは、医者の妻なのですが、「私はもう離婚したいのでカウンセリングをお願いしたい」と言って私のところにやって来ました。その方はすでに弁護士のところにも相談済みで、マンションも借りていました。理由は20 年来にわたる夫のものすごい暴力です。子どもは2 人いて、娘は家を出てまったく父親とは連絡を取らず、息子は不登校。大学を中退し、別のアパートで一人暮らしをしています。とてもお金のあるお家ですからお金は出しているわけです。父親は、息子に自分の病院のあとを継がせようと思って徹底的に教育をしていた。
勉強しないといつも竹刀で背中をバシッバシッとやっていたので、息子の背中はあざだらけ。小学校2 年の身体検査のときに、そのことに気づいた保健の先生が、ビックリして両親を呼んで、「これは止めていただいたほうがいいです」と言ったのですが、夫は「わが家の教育方針に口を出すとは何事だ」と怒鳴ったという強者です。妻は、その病院で事務長をしていました。夫の彼女に対する暴力はすごいものがあって、とてもきれいな女性でしたが、鼻が少し曲がっていました。妻は、四年制の大学を出て心理学をやっていたので、これはもう逃げたほうがいいと考えて、何年もかけて計画を立て、何千万円ものお金を貯めて、そしてマンションを買って家を出、さあてというところで私のところにやって来たのです。
私は共依存の自助グループに出ていただくことにしました。とりあえずは「家を出て弁護士に相談したり、カウンセリングを受けるという判断をしたことは正しい」と彼女を承認し、「カウンセリングと自助グループを併用していきましょう」と話しました。
そして、一人暮らしが始まったのですが、少し落ち着いた頃、夜になると、「私にも原因があったのではないか」という考えが繰り返し出てくるようになり、眠れなくなってしまったのです。自責の念にかられると、果てしなく眠れなくなる。「これから先50 代の女が一人で、貯金はいっぱいあるけれども、どうやってこの世の中を生きていこうか」なんて、何か暗い海原を一艘のボートがこぎ出すみたいな感じになると不安で不安でたまらなくなってしまうのです。実はいちばんすごいのはこれですね。援助者は、これをひっくり返していかなければいけない。
こういうとき、私はちゃんと医療を利用します。医療は皆さんが主導権を握って利用すればいいのです。でも、こうやってクリニックを受診して抗不安剤だとか軽い睡眠導入剤をいっぱいもらって飲んでも全然効かない場合があります。
このとき私は、この女性にお金がなくて、シェルターとか一時保護につながっていたら、どんなに良かっただろうかと思いました。この人は、なまじお金があったから一人でマンションを買ってしまった。これが少しまずかったですね。一人でいることに耐えられなくなってしまったのです。
私は強引にある病院を紹介して、「このままだとあなたは、どんどんどんどんつらくなるのでぜひ入院してください」と言ったのです。そしたら彼女は頑強に抵抗しました。これは私の想像なのですが、彼女が入院するということは、自分が負けになることを意味したのだと思います。DV の被害を受けた人をみていてすごく感じることですが、たぶん、彼女たちの多くは夫とのパワーゲームをやっているのです。逃げたあとで夫がどのくらい困っているかしらと想像して、それで自分を保つのだと思います。
皆さんもありませんでしたか。男性とつきあっていて、本当は会いたいのに我慢して、2 週間くらいじっと電話も取らないことって。相手がどんなに苦しむかというのを想像して、ざまあみろなんてことが。それと同じような気持ちがDV から避難してきた人のなかに起こっているのではないか、ということなのですね。子どもの虐待の場合はそういうことはないですよ。虐待された子どもはそれほどパワーはないのですが、DV の場合はパワーゲームが起こりますね。
そうなると病院に入院することを勧めても、そこに行くことは彼女にとって負けになるのです。だから彼女はどんなことがあってもそのマンションに居つづけなければならなかった。そこを私は突き崩せなかったのです。そうこうしているうちに彼女は夫のことが気になって気になって、こっそり見に行ったのです。そうしたら夫が別の女性と暮らしていることがわかった。彼女はもうなんの支えもなくなって、結果的には自分の家に戻りました。でもあのあと、夫と彼女が仲良くやっているという情景は、なかなか想像しにくいです。だいたいDVの介入ってうまくいかないのですよ。
●強制力の発動
でも、こういう経験から何を学ぶかということが大事です。1 つには、強制力の発動というものがいるのではないかと思います。これは理想論です。あくまでも、可能かどうかは別にして、たとえば携帯電話を強制的に取り上げるとか、自助グループのミーティング以外の外出は禁じるとか。
薬物依存の人たちが、あんなに覚醒剤をやっていたのに、どうして薬をやめていられるかというと最初はやはりこれです。強制力の発動があったからです。皆さんも私も、「絶対だめ」ということばは、なかなか抵抗があって言えないですよね。
こわくなってしまうからです。そんなこと言って責任もてるかしら、一公務員の私が、「絶対」など言ってしまったら絶対だめなのではないかなどと。そうすると、発言することばがニュートラルになる。でも、この「絶対だめ」という強制力が、あるところでは必要だと思います。
でも、いまの法律では難しい。携帯電話を取り上げたら基本的人権の侵害と言われてしまいますからね。それをどうやってやるかということにかかってくるのではないかと思います。それからスリーミーティングのようなプログラムをきちんと組んで、午前中1 回、午後1 回、夜も1 回、どこかのDV 被害者の自助グループでもなんでもいいから出て行って、家へ帰ったらくったくたで寝てしまう。そういう日々をとりあえず過ごしていく、そういった時間稼ぎが必要だと思います。これは、薬物やアルコール依存症とまったく同じです。
でも、私はそれを彼女にさせることができなかった。マンションに一人暮らしさせたのが良くなかったなと思います。薬物やアルコール依存の人がやめはじめのときに一人暮らしをすると、必ず飲んでしまいます。DV の場合も同じです。嫌だと思って夫のもとを逃げ出してくる。一晩は枕を高くして眠れるのですよ。でも、翌日からいてもたってもいられなくなる。必ず考えは過去にもう一度引きつけられていき、さまざまな可能性を考える。「私が逃げたのは、唯一無二の選択だったのだろうか」「いまあの夫は何をやっているのだろうか」「あのとき私がああ言ったから夫は殴ったのではないか。きっとそうに違いない。ああ、私はやはり帰ったほうがいい」となる。さらに子どもですね。「ああ、子どもはどうしているだろう」と考えたときに必ず家に戻りますね。するとまたDV の繰り返しということになります。


7.アディクション・アプローチから学ぶ
●アルコールの問題
DV や虐待の相談を受けているとき、アルコールの有無、これを必ずスクリーニングしていただきたい。たとえば虐待者がお母さんだとして、夫がお酒を飲んでいるかどうか、もしくは虐待している側のお母さんの薬物やアルコール問題のありやなしや。あとDV の場合、飲んでいるときにやっているのか、しらふのときにやっているのかとか、こういうことを必ずチェックしなきゃいけないと思います。というのは、アルコール問題があるかないかで、介入のしかたが少し変わってくるからです。アルコールの問題があるとすれば、DV はある意味でアルコール問題に包摂されていくということがあります。
夫がアルコール依存症で暴力をふるっている場合、妻に対して、「あなたの夫はアルコール依存症ですね」とはっきり言ってあげる。夫のアルコール問題の一環として、暴力もしくは暴言、器物破損が起きているのだから、「あなたは、夫のアルコール問題にあとしばらくかかわっていく気がありますか?」と聞きます。それはどういうことかというと、夫がもし治療をしてお酒をやめたら暴力がなくなるかもしれないので、妻にそこまで付き合う気があるかどうか確認するわけです。それで、「もうとても嫌です」と言ったときには、どうするか方法を考えるわけです。
●「アイ・メッセージ」の伝え方
「離婚をしようと思うのだけれど踏ん切りがつかなくて」という人の場合、いちばん必要としているのは、たぶん、「揺れ動いている気持ちを受けとめてほしい」ということだろうと思います。でも、緊急性のある場合、暴力による傷痕があって、夜も寝てなくて、子どもと夫の心配で引き裂かれそうな人が目の前にいたら、気持ちを受けとめてあげるということより、自分の意見をはっきり言うことのほうが大切だと思います。
「私はあなたが離婚したほうがいいと思います」とか、「私はとりあえずお待ちになったほうがいいと思います」とか、非常に明快に、ちょっと強引なくらい説得することもときには必要なのです。それで踏ん切りがつくということがあるんです。それは、「別れなさい」とか、「こうしなさい」という指示ではなくて、「私はこう思います」というアイ・メッセージです。DV や虐待の問題は、相談を受けた側が自分の意見をはっきり言うことがとても大事なことではないかと思います。
●緊急度を判断する
DV の被害者は「私はDV の被害者だ」と言って登場しないんです。たぶん7 割がたは子どもの問題で来ると思います。実は、DV は、子どもへの虐待ということのなれの果てですよ。DV をずっと子どもに見せつけて逃げもせず来たお母さんは、子どもが思春期になって、摂食障害だとか引きこもりだとか、さまざまな症状を出して初めて動くんです。そのときに私たちは、DV と引きこもりの関連性を説明し、「やっぱりきちんと自分自身の問題に向き合わなければいけないでしょう」ということを、はっきりと伝えてあげなければいけないわけです。
いまここに、ある女性が、「娘の引きこもりのことで困っている」と相談にみえました。お嬢さんは自分がAC だと言っているそうです。それから、夫にどうもアルコール問題があるらしい。それからもう1 つDVという問題がある。そのときに私たちは何をしなければいけないのか考えてみましょう。まず最初に考えることは、緊急度の問題ですね。何が緊急なのか、私たちは考えなければいけません。目の前にいる女性は「娘の引きこもり」が緊急だと言っているわけですが、私たちは「緊急度の順番が違っているんじゃないか」というふうに考えることも必要です。
引きこもりは3 年続いている。そのあいだも夫はずっと酒を飲み、昼間は非常に優秀なサラリーマンとして働き、家では奥さんを殴り続けているという状況である。そういうときに私はこの女性に、「ご自分の問題を第一に解決するべきだ」と伝えると思います。特にアルコール、DV、虐待、こういうアディクションのかかわったケースというのは状況が刻々と変わっていく。きょうは相談に来たけれど来週来る可能性があるとはいえない場合、必ず一回性ということを考えますね。ですから、初回に、「あなたは、引きこもりの母というよりもアルコール依存症者の妻であり、DVの被害者です」ということを告知することが必要なんです。伝えても、本人はその気にならないんですよ。必ず「いや、私は娘のために来てます。どうやったら娘が家を出るでしょう?」と問題を娘にすり替えてきます。これは現場でいちばん苦労する問題なのです。でも、私は、相談者と最初にお会いしたときに一応の見通しと、どういう方針でやりますということは伝えていきます。
●「イネイブリング」
この場合、お嬢さんの引きこもりをどうにかすることにずっとかかわっていくと、お嬢さんはもっともっと引きこもりが長期化するでしょうね。母親が娘をイネイブリングしてしまうことになるからです。アディクションをやっている人はだいたいイネイブリングということばを知っているのですが、ぜひこれはDV や虐待にかかわる方にもわかっていただきたいと思います。
アルコール依存症の夫のアルコール相談にやって来るのはたいてい妻です。そこで、「夫のアルコール依存症をどうするか」ということに私たちが乗ってしまうと、つまり目の前にいる妻といっしょに、家で飲んでるアル中さんのお酒をどうやってやめさせるかということに協力してしまうと、それはアルコール問題の解決どころか、どんどんどんどん解決から遠ざかって行ってしまうことになるのです。これがアルコールの問題で身につけた私たちの常識です。それをイネイブリングと言います。
相談の場にいなくて家で「おれはアル中じゃないぞ、おれの酒はいい酒なんだ」と言っている人に対して、「あんた、お酒飲まないでよ」と妻が言う。相談を受けた人も、「どうやったらお酒をやめさせられるだろうか」と妻といっしょになって考える。すると、援助者と妻と二人そろって夫の飲酒をもっともっと支えることになってしまう。これがイネイブリングということです。とにかく相手のアルコールをやめさせようと思ってする行動のほとんどが、アルコール依存をさらに激化させていく結果になる、こういうことなんですね。
不登校の場合も子どもを学校に行かせよう行かせようとすると行けなくなりますよね。これと同じで、「この引きこもりをどうしたらいいか、どうしたらいいか」と考えると、お嬢さんはずっとこのまま動けなくなる可能性があります。ですから、お嬢さんをどう動かそうかということよりも、あなたがどうするべきかということに問題をシフトしていく。さらには、あなたたち夫婦の問題をどうするべきかということにシフトしていく。これをしていかなきゃいけないんですね。


8.「当事者性」を構築する
●パワーを刺激する
では、どうやって当事者に仕立てていくか。これが本当に難しい。いちばん効果があると思うのは、その人のパワーを刺激することじゃないかと思います。つまり、「あなたこそが、この家族のなかの問題を解決する力をもっているのですよ」「お嬢さんがこれからどうなっていくのか、あなたが鍵を握るんですよ」と言う。「あなたがこういう路線で動くと、ひょっとしてお嬢さんは動くかもしれません」という言い方をするんです。そのときに「動きます」と言ったら、これは「麻原」になっちゃうので、動くかもしれませんというある種の不確定要素を残して言うんです。そうやって、彼女のパワーを刺激したらある程度効果があると思います。
そして子どもが小さい場合は、「子どものために逃げてあげてください」という。「暴力を子どもに見せることは虐待の一つなんですよ。お父さんがお母さんを殴る光景を2 回以上見せてはいけない。だから、もしまだ暴力が出るようだったら、子どものためにもあなたは逃げてあげてください」と言うのです。
つまり、その人のパワーを刺激するということと、「子どものために」という手段を使って、当事者性を仕立て上げていくということが必要になる。そうやって、援助者がはたらきかけて、ある種の当事者性を構築していかなければならないのです。
●「子ども虐待」というキーワード
子どもの問題、これは大変微妙です。家に戻るほうにも、家から出て行くほうにもどっちにも転びうる要因となります。DV を受けている人は自分がDV の被害者だと思っていない。問題はここですね。「私はDV の被害者です」と言って電話をかけてくる人は、氷山のいちばん上の人たちです。下にいる五分の四の人たちは、殴られていながら自分がDV の被害者だと認識できていないのです。ですから、援助者が最初にやらなければならないのは、「実はあなたはDV 被害者なのだ」とノミネーションする、命名することです。命名しても彼女たちは「エー?」と言うでしょう。そういう人に対して、「私は被害者なのだ」と認識させ、どうやって逃がすか、それが援助者の課題になってくるわけです。
そのときに「あなたがこのまま殴られていると、子どもにもいろいろな影響がでてくるのですよ」とか、「いいですか、あなたが子どもにやっていることは虐待なんですよ、虐待を受けた子がどうなるか知ってますか?」とか。ちょっとこれは、危険な言い方なんですが、子どもを引き合いに出して、「だから、あなたは子どものために逃げなきゃいけない」という論法でいくのが、被害を受けた女性を逃がす非常にうまい使い方でしょう。
ところが、子どもを引き合いにだしたために、逃げた人が戻ってしまうということもあります。この両面性を「子ども虐待」というキーワードはもっています。どっちにもころび得る。だからこそ、どうやって口実を使って逃がし、逃げ帰らないようにさせるかということが、私たちの腕にかかってくるわけです。
このへんになると大変難しい。DV の介入を考えると、子ども虐待への介入のほうが簡単なような気もするのです。子ども虐待のほうは、世の中の人のだれに聞いても、「子どもを虐待するなんてひどい」と言うでしょう。なぜひどいと言うか、理由はいろいろありますよ。「私もそうだったからひどい」と言う人もいれば、「うちは平和で関係ないけれど、そんな親に育てられている子どもは本当にかわいそうだわ」と言う単なるお情けヒューマニズムの批判もあります。それもひっくるめて、虐待というのはいま大変な大きなムーブメントになってますから、介入もしやすいのです。
●家族の問題は単一ではない
最初から「私、DV の被害者です」と言って来る人は、本当に自覚のある人です。多くの女性は、殴られて、肋骨を折られたり耳が聞こえなくなったりしながらも、「私一人が耐えればいい」と耐えている。でも、そういう人も子どもになにか問題が起きたときには動きだします。
多くのDV の被害者は摂食障害の母だったり、引きこもりの母だったり、アルコール依存症者の妻だったり、もしくは家庭内暴力の息子の母親だったりするので、子どもの問題を当事者にシフトさせるということがうまくいくと、もっと多くのDV被害者があがってくると思います。つまり家族の問題というのは単一ということはまずあり得ないからです。よく見れば、複数のところで問題が起きていることに気づくはずです。ですから摂食障害のお嬢さんのことで相談に来ているお母さんの夫婦関係を聞くと、めちゃくちゃだったり、アルコールがあったり暴力があったりするわけです。家族の全員に問題があった場合、全員の問題を解決するということは、はっきりいって無理です。
だから、たった一人でもこの家族の問題から脱け出せる人がいたら、よしとしなければいけません。娘だけでも、親の支配を断ち切って、親に愛想をつかして家を出て行くことができれば御の字です。アルコールで言えば、飲んでいるお父さんがいちばんの原因ですよね。でも、このお父さんはもういいんです、飲んでいて。どこかの駅で転落して死んでいただくこともできるわけです。それより、妻と娘を救うということのほうが先決だと私は思います。だから、何が原因かと考えるんじゃなくて、困っている人を救うことを考えてください。


9.なぜ加害者から離れられないのか
●ある事例から
また、被害者が、救済者になる。当の自分を傷つけた夫の救済者になっていくという例が非常に多い。たとえば、こんなケースがありました。私が講演会に行ってアダルトチルドレンについて講演したときに、最前列で感心するほど熱心に聞き入っている女性がいました。ある日その人がカウンセリングにやってきたんです。とても目立った人ですから、私は覚えていました。その人がいきなり「先生、夫がAC なんです」と言うのです。詳しく聞いてみると、すごい話で、ある日彼女が自分の住民票を取りに行ったら、自分が戸籍から抜かれていたのだそうです。要するに、本人の知らぬ間に離婚させられていたわけですよ。
彼女はいろんな病気をして子どもが産めないのですが、夫には愛人がいてそちらとのあいだに子どももいた。その夫という人物は、土、日曜日は必ず家にいるが、月曜日から金曜日までのあいだは大変忙しかったり、出張でいなかったりという生活をずっと送っていたのだそうですが、本当は月~金は別宅にいて、土~日だけこちらにいるという二重生活を送っていたというわけです。それが分かって彼女はすごいショックを受けるわけです。
それで彼女は1 回入院するんですね。入院すると、夫がかいがいしく看病にやって来るんです。「大丈夫かい、早く元気になってね」と、毎日病院においしいものを持ってきてくれたりするのだそうです。でも、向こうの女性と別れたわけではない。そういうわけで、彼女は退院してから、これは別れなくてはいけないのかどうか、いろいろ考えて、それから何を始めたかと言いますと、なぜ彼はそのようなことをしたのかと考えはじめたのです。これと似たようなことはDV にもあって、特にシェルターなどに入ると、「なぜ、夫は私にあんな暴力をふるったのか」とずっと考える人がいるのです。自分がどんな被害を受けたかということではなく、夫はなぜああいうことをしたんだろうか、とね。まるで夫に成り代わったように考えるんですねえ。それからがすごいのですよ、彼の生家へ行って、彼の小学校のときの作文を読んだり、まるでカウンセラーのように彼の生育歴をたどり、そして確信をもった。「彼はAC だ」とね。彼は親から虐待を受けていた。彼のお父さんは、いつも酒を飲んではお母さんを殴り、子どもである彼を殴っていた。「そういう生育歴なんです、彼は」と、そう言ってその妻が泣きながら、「ねえ、先生、どうやったら彼を救えるんでしょうか」と聞くのです。
●被害者が救済者になる
皆さんはおそらく、なんてばかばかしい、一方的被害者である彼女が加害者である男をなぜ救わなきゃいけないんだと感じるでしょう。でも、加害者への愛、加害者への執着ということが起こる。これは虐待された子どもが激しくその親を求めることと同じです。
なぜ彼はそのようなことをしたのか―子どもの虐待の場合は、「どうしてあのお父さんは僕を殴るんだろう」という疑問に対して、そんなに選択肢はありませんから、その答は明確で「それは僕が悪いからだ」と整理をしながら、親の虐待を自分で位置づけていく、物語をちゃんとつくるわけです。ところが彼女の場合は、なぜ夫がそのようなことをしたのかというときに、たとえば自分に魅力がないからとか、自分がこうだったからとは思わないで、彼の生育歴に問題があるのではないかと原因をさぐるわけです。そのさい便利だったのがAC ということばだったんですね。
そして、彼を救うために、みずからお金を支払ってカウンセリングにやってくるわけです。これはどういうことか。私は、加害者、被害者、救済者という3 つのことばが密接にからまりあっているのではないかと思います。虐待母やDV のバタラーである男性が幼少時に性暴力の被害や虐待を受けているとすると、その人は被害者であると同時に加害者であるということになる。つまり、この2 つは、容易に転換が可能だということです。
また、被害者が救済者になることもある。そうすると被害者は加害者から離れない。DV被害者は、なぜ夫から離れないかと言うと、殴られた妻が「殴っているあなたはかわいそうよね」という目で夫を見るようになるからです。すると夫の側はもっといらいらする。家族療法でよく言われることばで、「ワンアップ・ワンダウン」というのがあるでしょう。ご存じありませんか。どういうことかと言いますと、「アルコール依存症夫婦」が最たるものでして、彼らには絶対に対等な関係というものがない。上に行くか下に行くか。これを絶えず繰り返しているんです。だから、別名「シーソーゲーム」とも言います。
加害者が暴力をふるう。すると、殴られた人、もしくはさっきの突然籍を抜かれて離婚させられた女性は、どうして彼はそのようなことをしたのかと考え原因をつきとめることで、ある位置に登れるんですね。ある位置というのは、相手に対して、治療者と同じ目を持つ位置です。そう私は思っています。
これは、ちょっとわかりにくい話なんですが、実際にそういう人に会うととてもよくわかる。特に女性、それもずっと耐え忍んできて添いとげるというような妻に多いのです。殴られても逃げずに、「だって私がいなかったらお父さん生きていけないじゃないの」とか、いろんな本を読みあさってボーダーラインということばなどを見つけて「夫はね、ボーダーラインなのよ」と言って納得している人がいます。
被害者を被害者に仕立てていくというのは、実に難しいことです。被害者だと認めることは、だれにとっても、あまりにもみじめだからです。多くの女性にとって一大事業が結婚だとすれば、DVで別れるのは結婚に失敗するということでしょう。これは男がリストラされるのと同じですよ。からだも痛めつけられ、妻の座も手放し、まして子どもも虐待されているという事態になったときに、これからどうやって生きていくのかと考えるよりも、本を読みあさって「ああ、夫はね、AC なのよ」と言うほうが楽なわけです。こうやって、人は治療者の高みに登って救済者になるというしくみがあるわけです。ですから援助者は、こういうからくりが、しばしばDV の関係のなかで起こり得るということを知っていないといけませんね。
●「当事者性」を構築することの難しさ
突然籍を抜かれて離婚させられた女性がどうなったか。私はなんとかその人が自分の被害者性を自分で認められるようにならないか、つまり当事者にならないかと思って、あるグループへ連れて行きました。
彼女は「AC の夫をどうやったら救えるか」というような内容の話をその場で一生懸命に話しました。すると、みんながフーンというような顔をしてそれを聞くわけですよ。そして、私がときどき意地悪に「でも、ひどい夫よね」なんて話をすると、さらに「ウーン」といって聞いている。そうすると、彼女はすごいパワーレスな弱々しい感じになって、「本当にひどい」と言いながらハラハラと泣くんです。私に言わせれば、とてもいい感じになるわけです。
ところが、泣き終わった後、『泣いたカラスがもう笑う』ということばがあるでしょう。突然パッと「でもね、先生。あの男は、AC なんです」と言うと、異様なパワーをメラメラとみなぎらせたのです。いわゆる共依存パワーというやつでしょうか、「あのかわいそうな夫を救わなくっちゃっ」というときの転換を、同じ人が目の前でやって見せてくれたわけですから、私は本当にすごいもんだと感心しました。
けれど、そのとき私は急ぎ過ぎたんですね。あまりにも腹が立って、つい「あなた、おかしいじゃないの。なんで怒らないわけ」と言ってしまったんです。「そんな虐待も同然の人権無視のことをやられて、そんな男をなぜ救うのよ」みたいなことを、ちょっとね。
そうしたら、その次から来なくなっちゃった。これは私の勇み足の、失敗例ですね。私はやはり、自助グループがとても必要だと思います。そういうもので支えられたときにはじめて、自分が傷つけられたことを自覚でき、それに対して怒ることもできるようになれるのではないかと思ったりしています。
●「援助者の支配性」
戦後、カール・ロジャースが流行はやらせた「フンフン、ハンハン」と話を聞いて、相手が何か言ったらオウム返しにするというやり方がいまだにはびこっていて、カウンセリングというとそういうものだと思われている方も多いようですね。きょう、私が意見をはっきり言ったほうがいいとか、説得することの重要性について指摘しましたが、そのことについて、驚きを覚えられた方もいらっしゃると思います。それはたぶん、どういう立場のカウンセリングかということが関係しているのではないかと思います。しかし、どのような方法であったとしても、私たち援助者が最低限自覚しておかなくてはならないのが、『援助者の支配性』です。これには、説得や介入なども含まれます。
どうしてもコントロールしていかなくてはいけない場面もあります。そういうときには、必要悪としての支配やコントロールを自覚して行使する。でも、それ以外の支配は極力しないようにする。これがキーワードのひとつです。そうしないと、こういう仕事は果てしなく支配的になっていく危険性があります。DV や虐待の被害者はずっと支配を受けてきた人ですから、私たちの支配をとても上手に受け入れてくれるのです。その怖さをやはり皆さんに覚えていただきたい。そして、支配を行使することが許されるのは、「その人の身体的安全性と生命を守るときだけだ」ということをわかっていただきたいと思います。
ですから、ある意味では、意見をはっきり言ってやるよりも、皆さんがこれまで勉強されてきたように「そうなんですか、なぜでしょう」と言っているほうが害は少ないかもしれませんね。でも、そこからあえて一歩踏み出していただいて、なおかつ自分が支配的になってないかどうをいつも振り返りつつ、仕事をしていただきたいと思います。



もくじ   3kaku_s_L.png   [Ⅵ-A] 臨床現場からのレポート(1) DV・児童虐待。暴力と精神疾患
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