あなたは、夫の暴力・DVを容認していませんか? 暴力のある家庭環境で暮らす子どもの心を守ることを忘れていませんか?

[Ⅲ-5]Ⅱ.児童虐待と面前DVの影響。暴力のある家庭で暮らす、育つということ

(16) 「キレる17歳」、理由なき犯罪世代

 
 13.PTSDとC-PTSD、解離性障害 (12) 思春期・青年期の訪れとともに
* 現在、この「手引き」は、第3次改訂の編集をおこなっています。編集終了後、差し替えていきます。

Ⅱ.児童虐待と面前DVの影響。-暴力のある家庭環境で暮らす、育つということ-
-基礎編-
8.虐待の発見。DV家庭における子ども
(1) 子どもが最大の被害者
(2) 子どもは心を傷めている
  ・事例106
(3) 子どもの複雑の思いを理解する
(4) 子どもに表れる影響
 ・事例107-128
(5) 子どものSOS(発信するサイン)を見逃さない
・6つのこ食
 ・「食べてよい」、すなわち「おいしい」
  ・味は必要、危険のシグナル
  ・おいしさは食欲を刺激する
  ・おいしさは生命維持のために備わった快感
・砂糖の過剰摂取(ペットボトル症候群)と低血糖症
・心身の健康にはミネラルが欠かせない
  ・情緒不安や体調不良。見逃しがちな気象変化

9.脳と子どもの発達
(1) 脳の仕組み
(2) 脳の発達(乳児期:0-1歳)
(3) 脳の発達(幼児期早期:1-3歳)
(4) 脳の発達(幼児期後期:3-6歳)
(5) 脳の発達の臨界期(感受期)
(6) 学童期(6-12歳)
(7) 思春期(10-15歳)と青年期(15-22歳)
(8) 男性と女性の脳の違い

10.トラウマと脳
(1) トラウマ(心的外傷)になりうるできごとに直面すると
(2) 単回性トラウマの子どもに見られる行動
(3) 慢性反復的トラウマがひきおこす7つの問題

11.慢性反復的トラウマの種類(児童虐待分類)と発達の障害
(1) ネグレクト(育児放棄)
<ネグレクトによる発達の障害>
(2) 身体的虐待
<身体的虐待による発達の障害>
(3) 心理的(精神的・情緒的)虐待
<精神的虐待による発達の障害>
(4) 性的虐待
<児童期性的虐待の基準(ハーマン著「父-娘 近親姦」抜粋)>
<性的虐待による発達の障害>

-応用編-
12.暴力のある家庭で育った子ども。発達段階で見られる傾向
(1) 乳児期。既に、母親と父親との関係性を理解している
 ・乳児部屋のおばけ
  ・産後うつ
(2) 発達の遅れ
 ・睡眠不足症候群(ISS)
  ・小児慢性疲労症候群(OCFS)
(3) ツラさを体調不良で訴える
 ・子どもの心身症
  ・子どもの気分障害
(4) ファンタジー色の強い子どもの解離
(5) 子どもが“ズル”をする深層心理
(6) 学童期(小学校低学年)にみられる被虐待児童たちの行動特徴
(7) 暴力を受けて育った子どもの脳では、なにがおきているか
(8) 反応性愛着障害(RAD)
(9) 失感情言語症(アレキシサイミア)と高次神経系トラブル
(10) 危機とPTSD
(11) 自己正当化型ADHDとAC
(12) 思春期・青年期の訪れとともに
 ・がまんさせられること、抑圧されることはなにをもたらすか
  ・父母の不和と暴力は、子どもの心の土台になる安心感と愛着を揺さぶる
 ・家族間の信頼関係を損なった子どもたち
  ・親に配慮しなければならない状況は、子どもに緊張を強いている
  ・子どもにとっての緊張とは
・親にとって都合のいい従順な子は、ありのままの私を認めて欲しいと訴える
  ・周りが輝いて見えるとき、人とのかかわりを避ける
  ・子どものために、“しつけ”と銘うった暴力が、子どもを従順な子にさせる
 ・思春期、男の子は14歳が母子間におけるターニングポイントになる
  ・女の子は、自分の命が大切だからこそ、傷つける価値があると思う
(13) 問題行動としての“依存”
  ・事例129-130
(14) 子どもに手をあげる背景。幼児期に抑圧された怒り
  ・事例131-136
(15) 回避的な意味を持つ子どもの「非行」
 ・事例137(事件研究22:広島県16歳少女集団暴行死事件(平成25年6月))
  ・事例138(事件研究23:大阪2児餓死事件(平成20年7月))
(16) 「キレる17歳」、理由なき犯罪世代
 ・事例139(事件研究24:栃木女性教師刺殺事件(平成10年1月))
 ・事例140(事件研究25:豊川主婦刺殺事件(平成12年5月))
  ・事例141(事件研究26:西鉄バスジャック事件(平成12年5月))
 ・事例142(事件研究27:岡山県金属バット母親殺害事件(平成12年6月))
  ・事例143(事件研究28:会津若松母親殺害事件(平成19年5月))
 ・事例144(事件研究29:八戸母子殺害放火事件(平成20年1月))
(17) アタッチメントを損ない、抑圧がもたらした凄惨な殺害事件
  ・事例145(事件研究30:東大浪人生父親殺害事件(平成7年4月))
 ・事例146(事件研究31:光市母子殺害事件(平成11年4月))
  ・事例147(事件研究32:音羽幼女殺害事件(平成11年11月))
 ・事例148(事件研究33:佐世保小6女児同級生殺害事件(平成16年6月))
  ・事例149(事件研究34:宇治学習塾小6女児殺害事件(平成17年12月))
 ・事例150(事件研究35:奈良自宅放火母子3人殺害事件(平成18年6月))
  ・事例151(事件研究36:秋葉原無差別殺傷事件(平成20年6月8日))
 ・事例152(事件研究37:柏市連続通り魔殺傷事件(平成26年3月))
  ・事例153(事件研究38:北海道南幌町母祖母殺害事件(平成26年9月))

13.PTSDとC-PTSD、解離性障害
(1) PTSDになると、どうなるか?
(2) PTSDの主要症状
(3) C-PTSDの主要症状
(4) C-PTSDと不安障害、人格障害
(5) 性暴力被害と解離性障害
  ・事例154-182
 ・皮膚から心地よい安心感をとり組む女性が、性的虐待を受ける残酷さ
  ・「レイプ神話」という間違った考え
  ・セックスをどう捉えるかは、思春期までに受けた親の影響
 ・事例183(事件研究39)
(6) 摂食障害とクレプトマニア(窃盗癖)
 ・事例184-185
(7) 解離性障害とアルコールや薬物依存症
  ・事例186(分析研究15)
  ・アルコール依存とギャンブル依存の相関
 ・事例187-189

14.パラフィリア(性的倒錯・性嗜好障害)
(1) 精神疾患としてのパラフィリア(性嗜好障害)
(2) フェティシズム
  ・事例190(事件研究40:宝塚市窃盗・少女強姦事件(平成25年12月))
(3) 露出症・窃視症
(4) 性的マゾヒズムと性的サディズム
  ・窒息プレイ
 ・事例191(事件研究41:京都連続強盗・強姦事件(平成22年7月-10月))
(5) 性的サディズムを示す刻印という“儀式”
(6) 小児性愛(ペドファリア)
 ・日本のロリコン事情と児童ポルノ
  ・女の子は母親と父親に興味を示し、男女関係、夫婦関係を学ぶ
  ・事例192(事件研究42:奈良小1女児誘拐殺人遺棄事件(平成16年11月))
 ・事例193(事件研究43:倉敷市女児監禁事件(平成26年7月))
(7) パラフィリア(性的倒錯)の夫との性生活
  ・事例194-195
(8) 性的サディズム、露出性愛者の夫による性暴力
 ・事例196(分析研究16)
(9) 性的サディズムと人格障害などが結びついた誘拐監禁・殺傷事件
  ・事例197(事件研究44:新潟少女監禁事件(平成2年11月(発覚:平成12年1月)))
 ・事例198(事件研究45:北海道・東京連続少女監禁事件(平成13年-平成17年))
  ・事例199(事件研究46:東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(昭和63年8月-平成元年7月))
 ・事例200(事件研究47:大分県一家6人殺傷事件(平成12年8月))
  ・事例201(事件研究48:大阪姉妹殺害事件(平成17年11月))
 ・事例202(事件研究49:自殺サイト連続殺人事件(平成17月2月-))
  ・事例203(事件研究50:付属池田小児童殺傷事件(平成13年6月))
 ・事例204(事件研究51:神戸連続児童殺傷事件(平成9年2月))
  ・事例205(事件研究52:佐世保同級生殺害事件(平成26年7月))
 ・事例206(事件研究53:名古屋大生殺害事件(平成27年1月))
(10) 福祉と医療、教育。行為障害、反抗挑戦性障害者のサポート

15.ACという考え方と人格障害(パーソナリティ障害)
(1) ACという考え方
(2) どうして、ACになってしまうのか?
(3) 時に、ACは母親がつくる
 ・事例207
(4) ACと人格障害、そして、ACの破綻
(5) ACのカウンセリング、認知の修正
(6) ACに“共依存”の傾向がみられるとき
(7) 共依存からの回復
(8) 仮面うつ病(非定型うつ病・新型うつ病)
(9) 人格障害と呼ぶ前に..
(10) 人格障害(パーソナリティ障害)とは
(11) 人格障害の治療
(12) 児童虐待やDVといった暴力も依存症のひとつという考え方

第1部の結びとして


盗んだバイクで走りだしたり、夜の校舎の窓ガラスを壊してまわったりする10歳代、思春期後期から青年期の若者たち特有ともされる衝動的で感情的な言動やふるまいは、脳が未熟であることが原因です。
脳の活性的な領域は、小児期から青年期を通じて、後方から前方へとゆっくりと広がり、最後に前頭葉とつながります。前頭葉は、イライラしたりカッとしたりする感情、集中力、根気、対人力、ドラッグやアルコールなどの誘惑への抵抗力、危険行動の回避力を司っています。
重要なことは、10歳代での領域の広がりは全体の80%ほどで、衝動性や感情などを左右する前頭葉は、不活性な残りの20%に含まれるということです。
例えば、テレビ番組のニュースで、大学生がプールで溺死したと報じられる親子で見ているとき、親が、「こうならないように、よく考えて行動しなさい。」と促したり、「あなたは、こんなことは絶対しないわよね。」と釘を刺したりしたとしても、「10歳代の脳」にとって、こうしたことばがけはあまり意味を持たないのです。
10歳代の脳はこういうものと割り切り、子どもの心に響くように、事実と事実の結末を繰り返し語り聴かせるしかないのです。
人は、高カロリー食品は生存の可能性を高めることを脳が知っていて大量のドーパミンを放出させることからダイエットを難しくさせます。
同様に、ギャンブルやセックスについても、人が求めるのは甘味や金銭、オーガズムではなく、ドーパミンなのです。
前頭葉が発達した大人の脳は、ドーパミンという報酬とリスクを天秤にかけて考え、判断することができます。
しかし、前頭葉が不活性な10歳代の脳では事情が違ってくるのです。
重要なことは、ドーパミンへの渇望をどれだけ抑えられるか(なにかをしないという判断を下すまでの時間)は、思春期前の8歳の子どもより20歳の若者の方が、抑制性が低いということです。
なぜなら、脳には、「興奮性」のつながりと、興奮を抑える「抑制性」のつながりがありますが、10歳代では脳の成長のカギともなる「興奮性」のつながりが急速に増えていく一方で、「抑制性」のつながりは停滞するからです。
その結果、10歳代の若者は、8歳の子ども以上に抑制がききづらくなり、ドーパミンを求めてリスクを無視し、暴走してしまうことになるのです。
つまり、10歳代の脳は、感情を抑制する前頭葉という“ガード”が外れた暴走列車のようなもので、本人がいくら理性的に努めようとしても、衝動的・感情的な言動や行動をとってしまうことがあるのです。
こうした10歳代の脳を理解することで、子どもの不可解な言動やふるまいを「まったくの別人になってしまった」と捉えるのではなく、不活性な脳の構造上の問題と認識することで、嘆いたり、感情的になったりせずに、冷静に向き合う切り口とすることができると思います。
さて、平成10年におきた「栃木女性教師殺害事件」以降、「キレる」ということばが世間に定着することになり、「キレる17歳」とは、平成12年およびその前後に相次いで発生した凶行を起こした17歳前後(昭和56年-60年生まれ)の少年を指しています。
前年の平成9年におきた「神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)*-54」を受けて、“理由なき犯罪世代”と呼ばれることもあります。
*-54「神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)」については、「Ⅱ-14-(9)性的サディズムと人格障害などが結びついた殺害事件」の中で詳しく説明しています。


-事例139(事件研究23:栃木女性教師刺殺事件(黒磯教師刺殺事件))-
「栃木女性教師刺殺事件(黒磯教師刺殺事件)」とは、平成10年1月28日に日本の栃木県黒磯市(現那須塩原市)で発生した、中学校内での生徒による教師刺殺事件です。
この事件を起こした13歳の少年は、補導歴や問題行為などのない、いわゆる「よい子」「おとなしい子」であったことが社会に衝撃を与えました。
少年は、26歳の女性教師に授業に遅刻したことを注意され、カッとなって刺したのでした。
平成10年1月28日午前、黒磯市北中学校に登校した少年は、朝からが気分が悪く、2時間目の国語の授業が終わると保健室に行きました。
少年はテニス部に所属していましたが、故障によって満足に続けられなくなり、以前より強いストレスを抱えていたといわれています。
養護教諭が、少年の体温を測定しましたが異常がなかったため、「教室に戻るように」と促しました。3時間目は、少年が科目も担当教諭も嫌いな英語の授業でした。
教室に戻る途中にトイレに寄り、友人と雑談していたため、10分ほど遅れて教室に入りました。
そして、女性教諭に「トイレにそんなに時間はかからないでしょ。」と注意を受けました。その後、ノートを開いたと思うと、芯をださないままシャーペンでなにか滅茶苦茶にノートに書き、ノートを破り捨てました。席が近い友人の生徒に漫画の話をしていましたが、教諭に再び注意を受けます。少年は教師を眼光鋭く睨みつけますが、無視されました。
プライドを傷つけられたと解釈した少年は、授業が終わる寸前に「ぶっ殺してやる!」と教諭を怒鳴りつけますが、友人に「やめろ、殺すな」と制止されました。
授業終了後、教諭は、授業中に会話を交わした少年と友人を廊下に呼びだし、注意を与えましたが、反抗的な態度は崩しませんでした。
教諭が、「先生、なにか悪いこといった?」となげかけると、少年は「いってねえよ!」と応じたので、教諭は「いってねえよといういい方はないでしょう!?」とたしなめると、少年は「うるせぇな!!」と声を荒げ、バタフライナイフを右ポケットからとりだし、教諭の左首筋にあてます。
教諭はひるむことなく「あなた、なにやってるのよ!」と口にすると、「ざけんじゃねえ!」とのことばを伴い、教諭の腹部にバタフライナイフを突き刺しました。そして、「ギャーッ」という断末魔の悲鳴が廊下に響きわたりました。
続けて、少年は胸、背中と少なくとも7ヶ所をナイフで貫き、さらに、倒れ込み動かなくなった教諭の身体を内臓が破裂するほど踏みつけました。
少年は、驚愕した友人の通報で隣の教室から飛びだしてきた男性教諭にとり押さえられ、通報で駆けつけた警察官に拘束されました。
のちに少年は、「最初に腹部を刺したところまでは覚えているが、あとは夢中で覚えていない。」と供述しています。
教諭は直ちに病院に搬送されましたが、既に心肺停止状態でした。そして、1時間後に出血多量による死亡が確認されました。ナイフが肺から心臓に達していたことが致命傷で、失血死でした。
凶器のバタフライナイフは、2-3週間前に黒磯市で買ったものでした。
黒磯署は男子生徒を補導し、県北児童相談所は男子生徒を宇都宮家裁に送致しました。少年法にもとづく処分が適用されました。
少年は、昭和60年、黒磯市の酪農農家の両親のもと第3子として生まれました。家族は、両親と祖父、曾祖母、それに兄弟3人(少年は第3子、末っ子)の7人家族でで、少年は、親に頻繁に殴られて育っています。
有無をいわせない厳しい躾(身体的な暴行)の家庭だったということです。
小学6年生のとき、少年の成績は男子の中で2番目でしたが、黒磯北中学に入ると、思うように伸びなくなります。特に、“英語”が苦手でした。
英語担当の腰塚佳代子教諭(26歳)は、たびたび少年を注意することがあり、少年は日頃から教諭に対し反感を抱いていました。
また、「本当は嫌いなんだ。」と、小学生のころレギュラーだったサッカーをやめ、テニス部に入りますが、入学してまもなく、テニス部の大会会場で、上級生に対して荒々しく食ってかかる少年の姿を同級生が目撃しています。
少年は、平成9年5月、膝の病気のために激しい運動を禁止され、部活を辞めます。以降、保健室の利用が多くなっていきます。
同年6月と7月、それぞれ4日連続で学校を休みます。このとき、少年は「テストが不安」と母親に漏らしています。
そして、担任が5度ほど自宅を訪問し、「がんばれ」と励ますことになります。
夏休みに入ると、少年は、別のクラスの親友と2人でよく、繁華街のゲームセンターに通うようになります。クラスメートとはほとんどゲームはしないものの、この親友とは、最低でも1時間はゲームに興じ、ボクシングのグローブを右手にはめ、力いっぱいバーをたたくゲームの「リアル・パンチャー」が好きでした。
3回パンチしてゲーム終了し、その威力を示す数字が表示されるたびに、少年は真顔で「けんかしてぇー!」と声をあげていたといいます。
少年には、感情を適切に制御できない傾向がみられたということです。一方で、少年は、事件の直前には、親友に「友だちがいなくて寂しい。」と打ち明けています。
2学期がはじまると、少年の保健室利用は増えていきます。英語の授業の前に、保健室に逃げ込んでいたようです。養護教諭には「精神的に不安定」と判断され、何度か担任が自宅を訪問しています。
3学期になると、学校でたびたび嘔吐するようになります。
夜は母親と寝ていたといい、専門家はこれを「一時的な退行・赤ちゃん返り」と指摘し、不安定な精神状態にあったと見ています。
また、黒磯北中では、平成9年5月ころ、マンガの影響を受け、カッターナイフなどで自分の腕に文字を刻む“生命(いのち)彫り”という遊びが流行り、学校は、生徒と父母に「刃物を持ってこないように」と文書で指導していました。
しかし、ナイフで相手を倒すテレビゲームに熱中していた少年は、平成10年1月(事件の2-3週間前)、市内で5,000円のバタフライナイフ(刃渡り10センチ)を購入し、以降、常に持ち歩くことになります。同年1月23日、少年は、2時限目に入る前の休み時間に教室の後ろの隅で4-5人に囲まれ、得意そうにナイフを回しています。級友に「お前じゃなくても、できるぞ。」といわれ、級友にナイフを手渡しますが、同じように回転させるクラスメートを残念そうに見つめていたということです。
少年の同級生は、「少年には、クラスに仲のよい友人が5人ほどいたが、中心的な存在ではなかった。」、「普段からむかつくと口にしていたが、殺すといったのは、事件の直前がはじめてだった。」と語っています。
山崎哲氏の「「少年」事件ブック-居場所のない子どもたち」では、少年の「ナイフをちらつかせても同教諭が動じなかったので刺した」という供述をとりあげ、「少年はつまり、このとき自分がふるまおうとまるで動じないものをそこに見たのだ。そしてそれは学校にいるとき、少年が普段から感じていた恐怖だった。だから彼は護身用にナイフを所持していたのである。」、「自分がぶ厚い壁にいとも簡単に弾き返されたような恐怖を味わった。そのため少年はとっさに、目の前の壁に穴を開けようと教師を刺したのだ。」、「殺さないと自分が崩壊する。そうした危機に直面したときだけ、人は他人を殺傷するのだ。」と考察しています。
一方、竹内常一氏の「教育を考える-暴力を越えて平和の地平へ」では、本事件が翌朝の朝日新聞で「「普通の子」キレて犯行」という見出しで報道されたことに対して、少年が「テストが不安」で6月から7月にかけて数日欠席しており、5回も家庭訪問した教師から「がんばれ」といわれたことや、3学期には、学校でたびたび「嘔吐」していたことを指摘し、「彼のからだは「キレる」という臨界点に達していたといってよい。もちろん教師を刺殺するとは誰も予測できなかったにしても、学校側は彼がトラブルを抱えていたことは知っていた。いやそれだけでなく、学校は彼を「普通の子」にしようとしていた。」、「この少年にとっては、「普通の子」に逆戻りさせられるということは、これまで以上の恐怖と不安の中に追い込まれることであったのではないか。」と考察しています。
横湯園子氏は「教育臨床心理学-愛・いやし・人権 そして恢復」において、この事件の経過を8つの過程に分解し、「危機はどこに潜んでいたのか、「危機をはずすとは」等の観点から分析し、「先生のことばが母親のそれに似ていることとか。」、「少年は、夜は母親と寝ていたというが、一時的、部分的に退行・赤ちゃん返りをしていた。」と指摘したうえで、「このような心理的状態にある子どもにとって、保健室から教室までの距離は大人や教師が推察する以上に「遠い」のである。しかも、彼はトイレで吐いてもいたという。」、「彼は2回注意され、公衆の面前で廊下に呼びだされる。学校における廊下は行動である。おさまりかけた「ぶっ殺してやる!」のことばは、一見、悪的なことばに聞こえるが、無意識的にせよそれを口にすることで、気持ちのコントロールや昇華に役立つこともあるのだということを知っておきたい。この辺をどのように感知するのか、専門性が問われるところである。」、「思春期の少年の羞恥心や未熟な自尊心への配慮があったならと残念である。彼の嘔吐が心因性のものであったなら、なおさらである。」と考察しています。
キレるとは、いうまでもなく感情を爆発させることをいいます。
自分の感情を押し殺している子どもは、親に抑圧され、親にとって都合のいい子という意味で普通のよい子に見えるかもしれませんが、感情が限界まで達したときに、大爆発を起こし、キレてしまう可能性があります。
人は、自分の感情をコントロールし、加減さ(頃合いを)を親とのかかわりを通じて学びます。
したがって、親は、子どもが喜怒哀楽といった感情(気持ち)を自由にことばにできる(適切な感情表現ができる)ように接してあげることが必要なのです。
 この事件では、被害女性の遺族が、平成11年年4月、1億3800万円の損害賠償を求めて少年の両親を提訴しています。
原告側は、「少年に責任能力はなく、賠償責任は両親が負うべき」と主張し、被告側は、「少年に不法行為の責任能力はなかったとはいえず、現場にいなかった両親に監督義務はない」として、請求棄却を求めましたが、平成16年年9月15日、宇都宮地方裁判所は少年の責任能力を認め、さらに、少年の両親にも共同不法行為責任があると認定し、8,200万円の賠償命令を下しています。


-事例140(事件研究24:豊川主婦刺殺事件)-
「豊川市主婦殺人事件」とは、平成12年5月1日、愛知県豊川市で発生した17歳の少年による殺人事件です。
豊川市の住宅で、妻(68歳)が血だらけで倒れているのを帰宅した夫の筒井弘(67歳。以下、夫)さんが発見し、警察に通報しました。妻は金槌で殴打されたうえ、包丁で首などを40ヶ所以上も刺され死亡していました。
このとき、夫は、家から飛びだしていった少年ともみ合いになっています。
少年は、「金ならやる。助けてくれ」と訴える夫の首などを切りつけました。幸い夫さんの傷は軽傷でした。
駆けつけた捜査員が、筒井さん宅で少年の鞄を発見し、近くの竹やぶから血のついた制服とカッターシャツを見つけました、少年は、事件直後から行方不明になっていることがわかり、逮捕状をとりました。
翌2日17時ころ、少年は、名古屋駅前の交番に1人で出頭しました。
出頭時の少年は、とても落ちついていたということです。
出頭した理由について、少年は「寒くなって疲れた。」と応えました。
事件後、少年は、やぶで着替えて自転車で駅に向かい、名古屋市や犬山市に電車で逃走していますが、少年が竹やぶで着替えているところは、何人もの人に目撃されています。夜は公衆トイレの中で過ごし、2日の昼間は岐阜と名古屋間を電車で行ったり来たりしていたということです。
逮捕後、少年は「その日たまたま家の前を通りかかり、玄関が少し空いていたのと表札から年寄りと思い、家の中に侵入した。事件を起こしたあと、最寄り駅まで逃走し、公衆トイレで一夜を過ごしたあと、寒くて疲れたため交番に自首した。」と供述していますが、襲撃の5時間前の午後1時ころ、近くの竹やぶの所有者が、シャツの入った紙袋や刃渡り20センチの草刈鎌があるのを見つけています。
少年は、事件当日、通常通り学校に登校し、あらかじめ返り血のついた服の着替えと凶器、25,000円の逃走資金を用意していました。そして、事件後、前もって竹藪に隠してあった服に着替えて逃走しています。一方で、竹藪に自分の鞄を置き忘れています。
少年は、殺害動機について、「人を殺す経験をしようと思った。殺人やそれをおこなう自分の心理がどういうものか経験して知ることが必要だと思い、計画した。定めた目標を達成することで成長できると考え、1度はためらったが、やり通した。」、「殺そうという気持ちを抑えきれませんでしたが、やるべきではありませんでした。人を殺して捕まればどうなるかは理解していて迷いましたが、結局“やらなくてはいけない”という気持ちが上回りました。」、「若い未来のある人は(殺しては)いけないと思ったので老女を狙った。」。「亡くなった方やケガをさせた方、自分の家族全員や学校の先生、友だちに非常に申し訳ないことをした。自分から直接謝りたい。」と供述しています。
少年は、事件現場近くの高校に通う高校3年生の17歳で、学校では、明るく活発、成績優秀と評判のいい生徒でした。
1歳半のときに両親が離婚し、以降、中学教師の父親と父方の祖父母(祖父も元教師)と4人で暮らすことになりました。以降、少年は祖母を「おかあさん」と呼んで育っています。
少年は、両親が離婚後、母親とは一度も会っていません。祖父が「母親に会いたいか?」となげかけると、「会いたくない。」と応じたといいます。しかし、少年が小学校に入学するとき、母親が少年にランドセルと百科事典を贈っていますが、父親と祖父は、ランドセルを他の子どもにあげてしまい、百科事典については、「母親が贈ってくれたもの」とはいわずにわたしています。
したがって、少年の「会いたくない」との発言は、こうした環境がいわせたものだと解釈できます。
そして、親や祖父母の少年に対するふるまいによって、少年にとって母親は、突然でていって、なんの連絡もよこさない人と映っていた可能性が髙いと考えられます。
その少年は、かねてから人の死に興味があり、不老不死の薬の開発も考えるようになります。
しかし、断念すると、代わりに殺人に興味を持っていくことになります。
少年は、成績に偏りがあり、第1志望の高校に入れず、強い挫折感と大学入試への不安を感じることになります。少年は、進学した高校では特進コースに在籍していましたが、高校2年になると、「社会勉強のためにアルバイトしたい。」と申し出ますが、祖父は「欲しい物があれば買ってやる。そんなひまがあるなら勉強しろ!」と認めませんでした。
また、事件数日前に、それまで打ち込んでいたソフトテニス部を退部しています。所属していたソフトテニス部では、後輩からの信頼も厚く、しかも極めて成績優秀であると見られていたため、その評判と犯罪行為との乖離が疑問とされました。
そのため精神鑑定がなされ、1回目の鑑定では「分裂病質人格障害か分裂気質者。」とされ、児童精神医学の専門医が鑑定団の一人として加わりおこなわれた2回目の鑑定では、「犯行時はアスペルガー症候群が原因の心神耗弱状態であった。」とされました。
名古屋家庭裁判所は2回目の鑑定を認定し、平成12年12月26日、少年を医療少年院送付の保護処分と決定しました。
玉井正明・玉井康之両氏は「少年の凶悪犯罪・問題行動はなぜおきるのか」において、「「成績のよい子」が必ずしも「いい子」とは限らないことを実証した事件である。」と書いています。
本事件の動機と背景について、「①殺人願望とこだわり傾向(少年はかねてから人の死に関心があり、「不老不死薬」の開発を考えていたが、成功の見込みがなく、殺人を選んだ)。②神戸連続児童殺傷事件との共通性、③自己実現を求めた動機なき殺人(祖父母の呪縛を解くための反抗が外部の老人に向けられた)、④少年の明るい性格は、敵意を抑圧して「いい子」と演じてきたことのあらわれ(反動形成)、⑤挫折感(学力の片寄りのために第1志望の高校に入れず大学入試も同じ轍を踏むことが予想されたことで、強い挫折感にさいなまれていた)、⑥事件の数日前に、高校のテニス部を退部し、心に空白が生じたこと(少年は部活に打ち込むことでパターン化した行動様式を持っていた)。」と考察しています。
また、町澤静夫は「佐賀バスジャック事件の警告-孤立する家族、壊れた17歳」で、少年の生い立ちを分析して、「復讐」という視点で事件をとらえ、「父親や祖父に対して、怒りが爆発したのです。では、なぜ殺人という暴力が何のゆかりもない他者に向かい、肝心の父や祖父に向かわなかったのでしょうか? 父や祖父を殺してしまえば、父や祖父は少年のことで恥や汚名を負うこともなく、苦労することもありません。死んでしまったら、それで「終わり」です。それでは、少年の心は満足できないのです。父や祖父は、少年が他者を殺すことで、「この家の子がこんな悪いことをした」という「最大の屈辱」を受けることになるのです。事件の背景には、少年の父と祖父への復讐の思いがありました。同様に、いかなる理由があれ自分を見捨ててしまった生母への「復讐」の思いもまた、少年の内部で渦巻いていたに違いありません。」等と考察しています。
小此木啓吾は「「ケータイ・ネット人間」の精神分析」で、少年が精神鑑定で「純粋殺人」と診断されたことについて、「つまりそれは、殺人をしたいから殺してみたかった。あるいは、人を刺すとどんなふうになるかを知りたかったための殺人だという意味である」と解説し、「人が肉体を持ち、刺せば血がでたり、痛みにもがみ、苦しんだりするというのはごく自然の現実なのだが、そうした現実をいまの日本社会の日常の暮らしの中で実際に体験することはむずかしい。実際には誰もが肉食しているにもかかわらず、にわとりや牛や豚と直接触れ合う暮らしは、なくなってしまった。」と、人工環境の中にひきこもって暮らすわれわれの日常生活を指摘し、「いま、自然を失った身体の直接の出会いを希求する気持ちがひそかに高まっている。その最も深刻な体験は、「手首切り症候群」だ。「私、手首を切って出血させて、傷の痛みをいつもいつもがまんしていると、自分が生きているという実感を持つことができるんです。どこの生活にもそういう実感を持てるような体験がなくて」という。彼女の左手首には、命の証のように、いつもしっかり純白の訪台が巻かれている」「現代社会の少年たちの心の中に突如あらわれる激しい攻撃性、人を殺してみたいといった衝動は、何やら、生き物の肉を食べないと元気を失ってしまう野生動物が、突然、拘禁動物化した人間の心の中にたちあらわれるかのようだ。いまのわれわれは、この動物園の拘禁動物と似たような暮らしをする身の上である。そして自然との闘いの中で得られる身体的な自然感覚があまりにも希薄になった。」と考察しています。


-事例141(事件研究25:西鉄バスジャック事件(ネオむぎ茶事件))-
「西鉄バスジャック事件」とは、平成12年5月3日に発生したバス乗っ取り(バスジャック)事件です。
西鉄高速バス乗っ取り事件や佐賀バスジャック事件、さらにインターネット掲示板の2ちゃんねるに犯行予告の書き込みが残されており、その時のハンドルネームからネオむぎ茶事件(ネオ麦茶事件)とも呼ばれます。
平成12年年5月3日12時56分ころ、佐賀第二合同庁舎(佐賀県佐賀市)発西鉄天神バスセンター(福岡県福岡市中央区)行き(14時6分に到着予定)の西日本鉄道の高速バス「わかくさ号(西鉄バス佐賀営業所所属車両、車番8544)」は、定刻通りに佐賀第二合同庁舎を出発しました。博多どんたくの期間中で、多くの観光客もバスセンターや高速バスを利用していました。
13時35分ころ、九州自動車道太宰府インターチェンジ付近で、刃渡り約40センチの牛刀を持った17歳の少年が運転手に牛刀を突きつけ、乗客に対し「天神には行くな! このバスを乗っ取ります。」、「お前たちの行き先は天神じゃない。地獄だ。」といい放ち、バスを乗っとりました。
少年は、「西鉄天神バスセンターに行かずに九州自動車道をしばらく走行するように」と運転手に命じ、乗客に対し、「いうことをきかないと殺す」と脅し、乗客を後方に移動させます。しかし、眠っていて事態に気づくのが遅れた東京都の女性(34歳)に対し、少年は「ふてくされていますね」といいながら首や背中を刺して重傷を負わせます。
14時45分ころ、女性の乗客がトイレを理由にバスを脱出したことに激高し、探しの女性(50歳)の首や両手首を数回にわたって刺しました。
約50分後の15時35分ころ、中国自動車道小郡インターチェンジ(山口県)付近を走行中、女性の乗客が左側の窓から脱出すると、少年は開いた窓近くの座席にいた塚本達子さん(68歳)に近づき、「ここに誰かいただろう」と叫び、首などを刺しました。
中国自動車道下松サービスエリア(山口県)にさしかかった16時20分ころ、バスを追尾していた高速道路交通警察隊の警察車両に行く手を阻まれ減速したバスの左最後部の窓から男性客が飛び降りたため、少年が再び激高し、倒れていた塚本達子さんの首などを何度も刺して殺害しました。
あとの2人は、いずれも他の乗客が脱出したため「見せしめだ」「連帯責任だ」といい、切りつけられたものでした。
バスは広島県へ入り、広島市安佐南区の武田山トンネル付近で、男性客全員を解放したあと、東広島市の奥屋パーキングエリアに入り数時間停車します。ここで、少年は警察の説得に応じ、「差し入れを提供する」という条件で、負傷した人質3人を解放しました。しかし、解放された3人のうち1人塚本達子さんは、すでに出血多量で亡くなっていました(失血死)。
膠着状態が続いたのち、バスは再び動きだし、隣の小谷サービスエリアまで行き、長いこう着状態となりました。最後までバスに乗っていたのは、一人旅の女児(6歳)を含む女性9人と運転手でした。
広島県警は、食料や簡易トイレ、毛布などを乗客に差し入れました。少年を説得するために、少年の家族が現場に到着しましたが、少年は応じることを拒否しました。
事件発生から15時間半後の4日5時すぎ、小谷サービスエリアで停車し、警察官による説得をしているとき、“手袋を路面に落とす”という突入の合図を受けた15名の隊員が突入し、少年は逮捕されました。この突入により、機動隊員1名が少年に左足を切りつけられ負傷しています。
この事件は、少年が「ネオむぎ茶」の固定ハンドルネームを用い、犯行前にインターネット掲示板「2ちゃんねる」に書き込みを行っていたことや、SATが出動したことで話題となりました。
佐賀家庭裁判所は、少年を医療少年院への送致することを決めました。そして、平成18年2月1日、「成年になった元少年は、同年1月に仮退院していた」と報道されました。
少年は、中学校でいじめにあい、一方で、家庭内暴力で家族を悩ませていました。親が学校にいじめの相談をしましたが、学校や教育委員会はいじめの事実を認めませんでした。
高校受験が目前に迫った平成10年1月、少年は、同級生に校舎2階の非常階段から「飛び降りてみろ」と挑発を受けてためらっていると、とりあげられた筆箱を「返してほしかったら飛べ」と催促されて飛び降ります。少年は着地時に足を滑らせ、腰椎を損傷する重傷を負い、2週間ほど入院することになります。
そのため、少年は入院している病院の病室で佐賀県立致遠館高等学校を受験し合格します。
卒業式には出席できませんでした。
高校に入学後、少年は、校風が合わないという理由で9日だけ登校し、5月に中退します。
高校を中退した少年は、大検を目指すことになります。
高校を中退してから事件を起こすまでの約2年間は、自室にひきこもり、昼夜逆転の生活をしていました。親にパソコンをねだり、2ちゃんねるに寝食を忘れるほど熱中していきます。
そして、家庭内暴力が悪化していきました。
少年は、飼い犬を頻繁に叩くようになり、父親に名古屋・大阪などへの日帰りドライブを繰り返し強要するようになっていきました。周辺住民は、少年の妹の悲鳴も聞いています。
言動などから危険を感じるようになった親が、警察や精神科病院に相談しましたが、「事件を起こさない限り対処できない」と双方から断られてしまいます。
そこで、最後の頼みの綱として、精神科医の町澤静夫氏に連絡を取り、相談します。
相談された町澤は、平成12年3月5日、佐賀県警と国立肥前療養所に電話を入れます。肥前療養所は、直ぐに少年の医療保護入院を許可し、即日入院となりました。
国立肥前療養所への入院が決定したとき、少年は、親に対し「絶対許さない」と怒りをあらわにしていました。
しかし入院すると、医療スタッフや他の入院患者たちにも礼儀正しく、家庭内暴力で家族を悩ませていたとは思えないほどしっかりしていたといいます。
そして、少年と親と医者と話し合いのうえで、少年に外出許可をだしました。
外出許可を経て病院に帰った少年は、17歳の少年が老夫婦を殺傷する豊川市主婦殺人事件を知り、手記で、この少年犯を褒め称え、「自分も早く彼のようになりたい。」と書いています。
この手記の内容をまったく知らなかった医師は、少年の外泊許可をだします。
帰宅した少年は当初、自分がいじめを受けていた母校の中学校において無差別殺人をおこなう予定(各教室で生徒を刺して籠城し、注目を浴びたら飛び降りて死ぬつもりだった)でしたが、ゴールデンウィークで休校だったため、バスジャックへと目的を切り替え、実行したのでした。
少年は、事件当日の9時ころ、父親と入院中の病院をでて、9時50分ころ帰宅し、昼前に弁当を持って自転車で家をでました。バスの発車は12時56分、凶器の肉切り包丁は乗車前に購入しています。全長約40センチ、刃渡り30センチに及ぶ大型で、1万4千円と高価なものでした。
少年は、2ちゃんねるが創設されてから間もなくして、「キャットキラー」という固定ハンドルネーム(コテハン)を用いて2ちゃんねるに書き込みをおこなうようになります。しかし、当時発足間もない2ちゃんねるでは、コテハンの存在を嫌い、コテハンがしつこく居座るスレッドにはいわゆる荒らしとして無意味な書き込みやブラクラなどが貼りつけられ、コテハンの発言を意図的に遮っていました。
この行為を不愉快に感じた少年は、「キャットキラー」を名乗り、ギコ猫を貼りつける匿名ユーザーに対して、挑戦的な言動を仕掛けます。少年は、2ちゃんねるというコミュニティで煙たがられることに逆上し、わざと居座り、匿名ユーザーの感情を逆なでし、無意味な書き込みでスレッドが回転することを煽ったのです。
そして、少年は、「1000レス目をとった方が勝ち」という勝負を提案します。1000レス目に至るまで短い書き込みで自分の名前「キャットキラー」入りの投稿を繰り返しましたが、999レス目のあとで「1000, 1000, 1000, 1000, (中略)僕の勝ち!」という比較的長めの投稿を(おそらくあらかじめ用意せず、999レス目を書き込んでから手動で)書き込んでいるうちに、他人が1000レス目を書き込み、犯人の書き込みは1001レス目となってしまいました。
これに逆上した少年は、罵詈雑言を書き込み、「キャットキラーの名前を返上する」ことを宣言しましたが、名無しに戻ることを予想していた匿名コミュニティの意思に反し、「キャットキラーからネオむぎ茶に改名する」とコテハンを名乗り続けることを宣言し、さらに反感を買うことになりました。
にもかかわらず、少年は「ネオむぎ茶」というスレッドを立てて書き込みを募ります。
匿名ユーザーたちからの反応は、「氏ね、と言われたいんですか?」などとそっけないものでした。
このスレッドに対し、少年は友人からの書き込みとして「彼は精神病院に入院しました。」と書き込みました。
少年は、バスジャック犯行前に精神科病院に入院し、犯行時は仮退院中という扱いでした。
仮退院の翌日、少年は、近くのホームセンターで包丁を購入したあとで、再び「ネオむぎ茶」のハンドルネームを使い、2ちゃんねるにスレッドを立て、「ヒヒヒヒヒ」とだけ書き込みを残しています。
また、2ちゃんねる内で、少年に対し犯罪を煽るような書き込みを何度も繰り返していた東京都内の男性が、事件後、佐賀県警から事情聴取を受けることになりました。この男性は、平成12年、6回のチャレンジの末に司法試験に合格し、弁護士となっています。
玉井正明・玉井康之両氏は「少年の凶悪犯罪・問題行動はなぜおきるのか」で、事件の動機と背景について、「①心に深い傷を負った体験を無意識に繰り返そうとした「反復強迫」、②インターネットを通じて、反社会性の徴候を増幅させたこと(ネットの通信販売でナイフを購入、同世代の少年が起こした凶悪事件に強い関心をいだいた、他)、③豊川市主婦刺殺事件に触発された、④挫折感(志望校には入学できず中退して部屋にひきこもる)、⑤中学校で「いじめ」を受けたことが事件の動機の根底にある(当初は母校への籠城を想定しており、「校舎の1階から各教室で生徒を刺し3階の教室に立てこもって注目を浴びたら、飛び降りて死ぬつもりであった」と話している)、⑥存在感のアピール(「派手なことをして社会に自分をアピールしたかった」)、⑦不満のターゲットが学校から親に向けられた(両親によって入院させられた少年は、事件後に「親に裏切られた」と供述している)」と考察しています。
少年の親に相談を受けていた町澤静夫は、「佐賀バスジャック事件の警告-孤立する家族、壊れた17歳」で、「彼らはもはや自分のレゾン・デートル(存在価値)がまったくなくなったと感じた時ブラック・ヒーローへの道を踏み出します。どうせ、「表の世界」では輝かしい人生なんか得られない。ならば、犯罪的な世界、暗い闇の世界で皆があっと驚くような事件を起こし、日本中が注目するブラック・ヒーローになってやろうという傾向が若者たちにあり、実際それが事件として表面化しているのです。彼らが殺人を犯す理由の根っ子に、歪んだ自己愛と自尊心が横たわっていることを見過ごしにすることはできません。」、「彼ら孤立した犯罪予備軍の人たちは、人間を「モノ化」して見ます。それは動物虐待、動物殺しにつながっていきます。多くの少年犯罪の犯罪者たちは、人を殺す前に、先行してペットを殺しています。酒鬼薔薇聖斗、京都小学生殺害事件の「てるくはのる」の青年、大分の一家虐殺の少年も、ペット殺しが先行しています。」と考察し、「「ブラック・ヒーロー」が伝染していく根拠として、「No5.京都で大根が切られ、沼津で淫売女が切られそして!! 豊川で老いぼれ女郎が切られ殺されたとか。すばらしい!! しかも僕と同い歳の17歳とか…? よい風潮だ。40ヶ所も女郎を刺した時の快感どうだった!? 20,21ぐらいの女がいい、強姦した後、首絞めて殺す、理想だ!! 2つの快感を味わえる」等の同少年の日記や、「「キャットキラー」や「ネオむぎ茶」と名乗っての発信内容や、「福岡に「こどもの王国」を作り、自分はその王様になる」という妄言、等を分析しています。
月崎映央は「「少女監禁」と「バスジャック」-マスコミ報道と精神医療」で、両親の手記を分析し、「親が少年を心配し、先回りをし、なにかを決めてしまう様子が感じられる。」等と、親の過干渉を問題にしています。


-事例142(事件研究26:岡山金属バット母親殺害事件)-
「岡山金属バット母親殺害事件」とは、平成12年6月21日、高校3年17歳の少年が母親を金属バットで撲殺した事件です。
平成10年4月、少年は岡山県立邑久高校に入学しました。進学コースに在籍し、部活動は野球部に入部しました。学校では、おとなしく、まじめな子という印象でした。
そして、少年はまじめすぎたためか、後輩たちから日常的に柔道やプロレスの技をかけられたり、掛け声を真似されたり、練習中にボールをぶつけられたりするなど、からかわれていました。また、準レギュラー選手だった少年と後輩たちとの間には、正選手の座をめぐる確執があったとの情報もありました。
事件がおきる前日の平成12年6月20日、夏の甲子園の地方大会がはじまる前に、少年は、事件で重傷を負うことになる2年生の部員たちに、「3年生はみんな(頭髪を)丸刈りにするのに、先輩はしないのか!」と詰め寄られ、激しく反発したとされています。
少年の日記には、「丸刈りはいやだ」、「あす狩りを決行する」と犯行予告とも取れる文章を記しています。
事件当日の7月21日、野球部の練習開始は15時40分からで、雨天のため高校の具道場で部活動はおこなわれていました。少年は補修を受け、16時30分ころに遅れて参加しました。2年生の後輩が、1年生に対し「丸刈りにしろ!」と命じていたのを見て、少年は逆上し、2年生の後輩をうしろから金属バットで殴りかかったのでした。
柔道場で、2年生の後輩を殴った少年は、直ぐにでて行こうとしましたが、3人の後輩たちが制止しようとしたため、3人にも殴りかかりました。殴られた1-2年生の後輩たち4人のうち1人は頭部にケガをして重傷、残る3人も肩や腕などに軽傷を負わせました。
学校から逃走した少年は、自宅に戻ると、居間でテレビを見ていた母親(42歳)を金属バットで殴打し、殺害したのです。
17時40分ころ、学校から殴打事件の知らせを受けて帰宅した父(46歳)が、頭を殴られて倒れている母親を見つけました。近くに血のついた金属バットと、少年が着ていたユニホームが脱ぎ捨てられていました。
母親は病院に運ばれたが、既に死亡していました。ほぼ即死だったということです。
その後、少年は、携帯ゲーム機とゲームソフト・ゲームの攻略本、B5判の家計簿、カードゲーム、現金20万円を持ち、高校の修学旅行で行った北海道へ自転車で逃走しようと試みます。
事件から16日後の同年7月6日正午ころ、山形県内を走行していた同県酒田市内のトラック運転手(24歳)の携帯電話から酒田署に「山形県遊佐町の国道7号の秋田県境付近のバイパスで、黒の自転車に乗った中学生風の男を見つけた。いまは秋田方面に向かっている。」との通報が、少年の逮捕につながりました。トラック運転手は、「別の運転手が、5日に新潟で見かけたと話しており、運転手仲間で“あれは岡山の事件で手配されている少年ではないか”と噂になっている」、「自転車をこぐ姿が異常だった。脇目もふらずに、前だけを見てがむしゃらにこいでいた」と話しました。
酒田署は県境付近で少年を捜索しましたが見つからず、約30分後、再び運転手に連絡をとると「仲間の無線から、少年が県境を越えて秋田県象潟町にいるようだ」との情報があり、酒田署は、秋田県警に伝え、秋田県警の捜査員が、16時ころ、秋田県本荘市内で自転車の少年を発見し、本荘署に任意同行しました。少年は、名前を訊かれると、「はい」と応え、自分から住所を話したということです。
その後、指紋が一致したため、後輩たちの殴打に対する殺人未遂容疑などで逮捕されました。
母親の死は、「途中立ち寄った食堂で見たニュースで知った」と述べています。
逮捕後、少年は「殺すつもりでやった。」、「殺すつもりだったのは、野球部員の4人のうちの1人だった。残る3人については、逃げるのに邪魔になりバットを振りまわした。」、「(母を殺害したのは)母に殺人者の自分を見せて心配をかけたくなかったから」、「被害を受けた人たちに申し訳ないことをした」と供述しています。
また、逮捕後、少年の父親は、「(息子は)母親の期待をプレッシャーに感じていた。仲がよかったとはいえない。」と語っています。
少年は、数冊のノートに「うるさい」などと、母親を拒んでいるように受けとれることばを書いていました。少年は、母親が野球部のことなどに関心を寄せるのを嫌がっていたといいます。
それだけでなく、ノートに書いていた小説風の文章の主人公と同様に、少年が実際に昆虫やトカゲなどを引きちぎっていたことが判明しました。
押収されたノートには、母親の実名入りで「○○○を狩った。」と書かれていました。
事件の約1ヶ月前、少年は、架空の登場人物が後輩たちを「成敗」する内容の「闇(やみ)の狩人」と題する「小説」を記しています。
小説は、自宅から押収された大学ノート3枚に書かれており、昭和62年から月刊少年ジャンプに連載されていた漫画「闇狩人」の内容(一見おっとりとした漫画家志望の高校3年生が、実は「闇狩人」という裏の顔を持ち、依頼を受けて復しゅうを代行。定規と丸ペンを武器に次々と標的を殺していく)に酷似し、鉄の棒で、後輩の頭を殴り殺すものでした。
少年は、同年9月15日、特別少年院送致の保護処分が確定しました。
玉井正明・玉井康之両氏は「少年の凶悪犯罪・問題行動はなぜおきるのか」で、「少年は後輩から受けてきたとされる「からかい」について、「自分の存在を否定されるようなことをされてきた。」と供述しています。以前から後輩にボールの投げ方や走塁を茶化され、プロレスや柔道の技をかけられた。少年がランニング中に後輩部員が前に立ち塞がり、足を払い抑え込んだ。彼は文句一つ言わず、もがいて抜け出すだけであった。女子生徒らの前でズボンをずり降ろされたこともある」と分析しています。
しかし、一方で、犯行の1ヶ月前に少年が書いた短い小説「闇の狩人(主人公が、寝ている3人の少年に金属の棒を3回振り下ろし殺害するというストーリー)」や創作文(「僕は、今、もう一人の僕に犯されている。本当の僕を取り返さなければならない」と書き、狩る対象として、母親の名といじめていた2年生部員を挙げている)、そして、逃走中の日記(母親を呼び捨てにして「狩った」と記していること)を分析し、「母親は感情の起伏が激しく、子どもにうるさく言うタイプで、少年はそんな母親にまったく反抗しなかった。母親は「あの子も習っている」、「あなたも人より秀でるなにかを身につけなさい」といってソフトボールクラブに入れたり、詩吟やピアノまで習わせたといわれる」と述べ、母親への憎悪や葛藤が殺害の動機とする見方も提示しています。

平成12年以降も17-20歳の少年がおこした凄惨な殺害事件はおきていますので、以下、「会津若松母親殺害事件」、「八戸母子殺害放火事件」をあげておきたいと思います。


-事例143(事件研究27:会津若松母親殺害事件)-
「会津若松母親殺害事件」とは、平成19年5月15日に発生した福島県立葵高校3年17歳の少年による母親殺害事件のことです。
少年は、平成19月15日1時30分ころ、母親を包丁で刺し、のこぎりで首と右腕も肩付近からのこぎりで切断しました。
母親を殺害後、少年はインターネットカフェで、アメリカ人気アーティストビースティ・ボーイズのDVDを見て、夜を明かします。そして、同日6時20分ころ、携帯電話でタクシーを予約し、6時50分ころタクシーに乗り、合津若松署に乗りつけ、「母親を殺害しました」といい自首しました。
少年は、切断された女性の頭部を通学用の黒い布製ショルダーバッグに入れ持ってきていました。少年は、返り血と見られる血がついた服を着ていました。応対した女性警官は、生首と目が合い、卒倒し、医務室に運び込まれています。タクシーの後部座席には、バッグからもれたと思われる血が付着していました。
署員が少年の自宅アパートに駆けつけると、布団のうえで母親(47歳)が頭部を切断されて死んでおり、同署は少年を殺人容疑で緊急逮捕し、翌5月16日、少年を殺人と死体損壊の疑いで送検しました。遺体の首と頭には包丁で刺された傷が複数あり、手には抵抗したときにできたと思われる無数の傷がありました。そして、遺体の側には、血まみれの包丁とのこぎりが残されていました。
のこぎりについて、少年は「数日前に市内のホームセンターで買った。」と供述しています。
少年の母親は、保育士としての経験が長く、役場から請われ、平成18年から保育所で働いていました。そして、殺害された15日は、母親の47歳の誕生日でした。
少年の実家は、会津若松市から車で1時間余り、60km離れた山あいにある人口3000人の小さな町で、中心部を只見川が流れ、山あいに集落が点在しています。卒業した中学校は、1クラス20人足らずの小規模校でした。中学校時代の少年は、スキーや野球、駅伝といったスポーツに熱心にとり組み、学業成績も優秀だったといい、中学校の校長は、少年について、「文武両道。あらゆる分野で活躍していた。」と述べています。
この地域では、成績がよく、経済的余裕がある生徒は、都市部の高校に進学していますが、少年もそのひとりでした。
高校に進学した少年は、高校近くの親族の家に住んでいました。中学校時に優等生だった少年は、高校に入ると、長髪にし、爪も伸ばすようになり、周りにうまく溶け込めず、友人が少なく、ひとりでいることを好んでいたということです。翌年、少年が2年生に進級し、年子の弟が高校進学したあとは、アパートを借り、2人で住むことになります。近所の人は、母親から「弟の分の弁当もつくっている」と聞かされています。
少年は、高校2年になると理系クラスに入り、成績は中の上で、情報系の国公立大への進学を希望しています。教員にとって少年は、ごく普通の生徒で、少年の印象について「授業中は落ち着いていた。際だって特異な子とは感じなかった。」、「2年の1学期、アパートを訪れたとき、部屋がきれいに片づいていたことが印象に残っている。」、「当時、少年は欠席することもなく、母親との会話は、ごく一般的な話だったと記憶している。」と述べています。
ところが、2年の2学期に入ると、少年は少しずつ変化を見せはじめるようになります。
平成18年9月、少年らの学年は4泊5日の日程で関西方面への修学旅行を予定していました。出発当日、少年は「体調不良を理由に参加しない。」と連絡しました。その後、少年が欠席する日は、進路講演会、学年集会など、集団で参加する行事の日で、2年生の9月以降の欠席日数は20日に及び、3年に進級した4月以降、登校したのは始業日の9日から5日間で、4月16日以降は事件をおこした5月15日まで欠席が続いていました。
心配した担任は、少年の携帯電話にかけても応答がないことから、母親に連絡すると、母親は、はじめて少年が学校に行っていないことを知り、「すぐに様子を見に行く」と応え、「今月1日、少年は体調不良を訴え、会津若松市内の医療機関で診察を受けた。医師から「精神的に不安定なので、登校を強く促さないように」といわれた。」と話し、少年の心情について「気持ちがなえてしまって、一歩が踏みだせない」と述べています。
また、4月中旬に、少年は、少年とは別の学校の生徒で、平成18年の夏に知り合い遊ぶようになった友人(16歳)に「同級生から嫌がらせされていて、学校に行きたくない。」、「親には相談できない。」と心境を述べ、「4月上旬、少年は笑顔も見せていた。しかし、最後に会ったのが(事件2日前の)5月13日、アパートでテレビゲームをしたとき、以前は負けても落ち着いていた少年が、コントローラーを投げつけるなど、苛立っていた。」、「部屋には刃渡り20センチ近いナイフがあった。それでも、そんなことをするようにはみえなかった。」と話しています。
犯行から1時間、平成19年5月15日2時30分ころ、携帯電話向けSNSに、「最後の日記」というタイトルの日記が掲載されました。
書きだしで「ボクは犯してはならない罪を犯しました」と記したあとは、1問1答形式で書かれています。「動機は?」となげかけ、「理由ですか? ただ何となく」と記し、経緯については、「あえて挙げるなら自己実現」と説明し、「(後悔は)今はありません。ほっとしています。でも後々悔やむことになるでしょうけれど」と書き、「この後どうする?」とのなげかけには、「罪を与えてもらいに行きます」と自首を示唆する回答をしています。
少年は、動機について「ホラー映画を見ている内に人を殺してみたくなった。」、「誰でもいいから殺そうと考えていた。」、「戦争やテロがおきないかなと思っていた。」と供述しています。
少年が下宿していた同市内のアパートから「殺人」をテーマにした本、少年がインターネットカフェで視聴したとみられる音楽DVDのほか、ホラー映画のDVDを多数押収しています。少年は過激なロックスター「マリリン・マンソン」のDVDも見ていたということです。
同グループは、1990年結成され、1998年には「メカニカル・アニマルズ」が全米1位となり、人気バンドとしての地位を確立しました。しかし、歌詞で扱っているテーマが、麻薬礼賛、悪魔崇拝、同性愛、反キリスト教など過激なものも多いことから、保守的な団体からの抗議の声が絶えないグループです。
また、1999年、米国コロラド州のコロンバイン高校で生徒2人が銃を乱射し、生徒12人と教師1人を射殺した事件では、事件を起こした2人の少年が属したグループで、マリリン・マンソンの歌がよく歌われていたことから、グループに対して批判が殺到することになった。
また、同グループは奇抜な衣装で知られ、ボーカルのマリリン・マンソン(バンド名と同じ)の顔は“地肌が見えないぐらいに真っ白”あり、少年が、母親の右腕を切断し、スプレー缶で白い塗料を吹きつけていたことから、少年の行動に影響を与えたのではないかとみられています。
平成20年2月26日、福島家庭裁判所会津若松支部の増永健一郎裁判長は、殺人と死体損壊の非行事実で送致された少年に対して、少年の完全責任能力を認定したうえで「充分な治療と教育が必要」と判断し、成人と同じ公開の刑事裁判につながる検察官送致(逆送)ではなく、医療少年院送致という保護処分を決定しました。


-事例144(事件研究28:八戸母子殺害放火事件)-
「八戸母子殺害放火事件」とは、平成20年1月9日、青森県八戸市で18才の無職の少年(長男)が、母親(43歳)、二男(市立中学3年15歳)、長女(同1年13歳)の3人をサバイバルナイフで殺害し、アパート(アパート2階の1室)に放火した事件です。
ほぼ全焼した焼け跡から、母子3人の遺体が見つかり、いずれも刃物で切られたとみられる傷があり、県警八戸署は殺人事件と断定し、捜査本部を設置しました。
同月10日6時5分ころ、行方がわからなくなっていた長男をJR八戸駅で発見すると、「近づくな」と叫び、サバイバルナイフ(刃渡り25センチ、全長48.5センチ)をふり回して逃げたため、署員数人で取り押さえました。少年の上着の内側には、刃渡り8-13センチのナイフを6本隠し入れていました。
遺体は、居間の布団1枚の上に川の字に並べられ、火災による損傷はほとんどなく、3人とも普段着姿で、母の首と腹、子ども2人の首に切り傷や刺し傷があり、母の腕には争って切られたとみられる傷がありました。少年は、「殺害した3人を居間の布団の上に「川の字」に並べてから、母親の腹部を「心を探すため」に十文字に切り裂き、その跡にオルゴールつきの人形を詰めた。その後、風呂場の浴槽に小説や雑誌、自らノートに書いていたという小説などを入れ、灯油をかけて火をつけた。」と供述しています。
母親の腹部を裂いて遺物(人形)を入れた少年の行動は、「母親のお腹の中にいた胎児に戻りたい」といった“胎内回帰願望”と考えられます。
少年は母親のお腹の中にいたときにしか安全と安心を感じられたときがなかったということです。
一方で、この行為は少年の“再生(胎内から生き直したい)の儀式化”であり、思考の空想化の中での具現化が、この事件をひきおこしたと考えられます。また、人形が女性であったことから、女性性への思慕が伺えます。
つまり、女の子として生まれてきたかったということです。その思いは、殺害した妹(長女)の首を切断するつもりで深く切っていることに表れています。
元露天商の父親は、恐喝未遂事件などで幾度も逮捕されており、少年が小学生低学年のとき、両親は離婚しています。以降、少年を含め母子4人は、市内などを転々とすることになります。
スナックで働いていた母親は、深酒をするようになり、子どもの面倒をみることができなくなっていきます。そのため、3人の子どもは一時期、福祉施設に預けられることになりました。
平成19年春、母親は生活保護を受けながら、ときどき朝市で総菜を売る手伝いをしていたということです。
少年は、小学5年生のとき、転居をきっかけに不登校になります。このときは、民生委員の働きかけにより、少年は再び学校に通うことができるようになりますが、中学2年生のとき、犯行現場となったアパートに引っ越して以降、少年は、再び不登校になります。
ひきこもるようになった少年は、家庭内暴力が目立つようになっていきます。
そして、平成16年、「火をつけてやる! 死んでやる!」と叫び、室内に灯油をまき、立てこもり騒ぎを起こしたことから、少年は半年間、精神科に入院させられています。
以降、少年は精神科に通院を繰り返すことになります。
少年は、退院後、内で別居中の父親と一緒に暮らしはじめ、精神的に落ちついたということですが、しばらくしてアパートに戻ると、再びひきこもるようになったといいます。
少年は、サバイバルナイフやエアガンを集めたり、猟奇的な殺人を扱った漫画本や漫画雑誌を集めたりしていました。
少年は、テレビゲームをしている次男の背中に突然エアガンを撃ちつけたり、朝、次男が目を覚ますとナイフを首もとに突きつけながら「おはよう」といったりするなど、異常な行動が目立っていたということです。
一家がよく訪れていた近くの喫茶店では、女性経営者(54歳)に、「小説を書いている。一回読んでね。」、「小説を書いているので、パソコンかワープロが欲しい」と話すなど、打ち解けている姿を見せています。一方で、次男と長女は兄を怒らせないように気を遣っていたといいます。
また、少年は、平成19年10月、自身の体調について、「いま、精神科に通院して薬もらってる。だから、いまは落ち着いている。たまに耳がキーンとなったり頭痛が続いてたりしてたんだ。」と明かしています。
この事件では、「少年には精神障害があり、責任能力がなかった」とする弁護側と、「人格障害がみられるが、刑事責任能力はある」とする検察側との間で争われましたが、「責任能力はある」として、少年に無期懲役の判決が下りました。
判決文で、「複雑で、悲惨な家庭環境が歪んだ性格を形成し、長年にわたり家族への愛憎や疎外感などを募らせたが、適切に表にだすことができず、明確には意識されない攻撃性、衝動性として内面に蓄積され、殺人衝動として自覚されるようになった。自作の小説で無差別殺人や家族殺害の場面をつづり、空想上で殺人や死体損壊の疑似体験を繰り返し、なんらかの契機で殺人衝動が家族に向けられ、空想で思い描いた行為を実現させた。」と結論づけています。
この「八戸母子殺害放火事件」は、少年が精神科に通院(もしくは、入院)していたという意味で、平成19年5月15日、高校3年17歳の少年が母親を殺害した「会津若松母親殺害事件」と共通し、バージニア工科大学でおきた射殺事件の犯人が新型抗うつ薬(覚醒剤類似物質)をとっていたことから、一部、「精神治療薬の影響が猟奇的な事件の背景にある」と指摘されることになりましたが、審理では検討されることはありませんでした。
事件の背景に精神治療薬の影響があるという根拠は、精神治療薬が前頭葉を萎縮させ、脳細胞ネットワークを破壊するために、一般記憶、知識にはまったく問題を生じることなく、「感情」だけを半永久的に幼児化させてしまうということでした。
脳が萎縮される影響で、感情を抑制(コントロール)することができず、暴力的なふるまいに至るという意味では、胎児期を踏まえた33ヶ月、そして、生後2年10ヶ月までの脳の形成に対し、暴力のある家庭環境で育つことで、脳の特定箇所が萎縮することがわかっていることから、暴力で傷ついた脳は、精神治療薬を服用することで、自殺リスクを高めたり、より攻撃的になったり、強い反応を示す可能性があることを認識しておくことは重要だと思います。


(17) アタッチメントを損ない、抑圧がもたらした凄惨な殺害事件
-事例145(事件研究29:東大浪人生父親殺害事件)-
「東大浪人生殺害事件」とは、平成7年4月20日、東京近郊のある市で、長男(浪人生、24歳)が母親を六万ボルトのスタンガンで制圧して手錠足錠をかけて自宅に監禁し、自宅2階の書斎にいた父親(58歳)に手錠をかけ、ボクシンググローブをはめた手で首や顎など数十回殴ったうえで、胸のうえに両膝乗りになり数十回飛びはね、前頸部圧迫により窒息死させた事件です。
父親は中学校教諭で、中学生になった長男に対し、テレビ・ラジオの視聴を許したのはNHK教育ラジオの「基礎英語」、「続・基礎英語」、「男はつらいよ」、「暴れん坊将軍」、「水戸黄門」、「大岡越前」だけであり、原則として20時からの1時間だけ視聴を許すなど、厳しく制限しています。
これは、父親の好みだけを押しつけ、父親自身が視聴するのに従わせているのがわかります。
書籍については、地元公立中学の名作50選のリストを持ってきて、長男に薦めました。書店で、長男がリストには載っていない本を見つけると、父親に「この本はだめだろうか?」と訊いていたといいます。長男が、水上勉の「飢餓海峡」を示したときには、父親は「まだ早い、くだらない。」と批判し、購読を許しませんでした。自由に購入できたのは、学習参考書くらいだったといいます。
長男が高校1年生の夏休み、父母は2人で1週間の旅行をすることになりました。父親は、留守中の長男の暮らしについて、細かく指示しています。外食するときには、父親が指定した店で、「レシートをしっかりもらってくるように」と命じていました。父親は旅行から帰ると、領収書を1枚1枚チェックし、金額が合わないと1-2時間追求したといいます。
中学3年時、東大を目標としていた長男が開成高校や学芸大付属高校を志望すると、父親は、時刻表を持ってきて「通学に時間がかかりすぎる」といい、反対し、地元の公立高校を選択させました。
事件後、母親は「夫が、息子の趣味や嗜好に制限するのは、大学受験のためではなく、自分の理想とする人間像に息子をピタリとはめるためであった。」と述べています。
母親は、リューマチを患っており、一家の食事は病気の治療に効果があるとされる玄米や肉類を限定したものでした。
また、母親は、長男が進学した高校のクラス写真と名簿を持ちだし、「若いうちから女性とつき合うと身を崩す」との考えから、女子生徒を一人ひとりチェックし、少年にうるさく詮索しています。
母親の詮索や干渉によって、長男は「女性との交際は許可されないだろうと思った。」と述べています。
父親が指定した地元の公立高校に進学した長男は、当時流行していたウォークマンがどうしても欲しくなり、父親に相談しました。長男は、入学祝いとして8万円をもらっていたので、父親にお金をだしてもらう必要はありませんでした。父親に「耳に悪いから、ヘッドホンでしか聴けない物は店に返品するんだぞ」と応じたものの、許可を得ることができたと思った長男は、父親とともに近所のダイエーにでかけていきます。父親は、店員が「ヘッドホンでしか聴けない」と応じていたことも知りながら、ウォークマンを購入して帰ります。
そして、家に帰り、長男が「これはヘッドホンでしか聴けないから」と口にした瞬間、父親は「返してこい!」と命じたのです。しかも、返品しに行く少年に父親はつき添い、ウォークマンの返金代金に5000円を足し、自分のワープロのためのフロッピードライブを購入したのです。
つまり、父親は、長男の入学祝いの金を竦めとり、自身のフロッピードライブ購入費に充てたのです。
 長男は、学校の勉強よりも、大学受験のための自己流の勉強で東大を目指そうとしました。受験勉強のために早退してきた長男に対し、大学受験のための勉強より、あくまで高校の生活中心に勉強することを最善としていた父親は、怒鳴りつけ、殴り、長時間説教をしました。
父親に長時間説教をされた長男が、2階の自室に戻り、「くそおやじ!」とうなり声をあげました。
このうなり声は、真下の和室で寝ていた父親に聞こえ、父親は長男の部屋にかけあがり、長男をボコボコに殴りつけました。
以降、長男は勉強意欲がなくなり、勉強をしているふりをして推理小説などを読みふけるようになっていきます。
両親がまだ帰ってきていないと思っていた長男が、夜食としてこっそりゆで卵を食べていると、いつものようにノックをすることなく部屋に入ってきた父親に見つかりました。
父親は「卵はコレステロールがたまるから、体に悪い」と説教し、「没収する」と長男が食べていたゆで卵もとりあげました。
長男は学習参考書を買うときは、母親にお金をもらうことになっていました。
あるとき、母親に「金食い虫」といわれたことにショックを受け、長男は、自分の預金通帳から金を引きだし、参考書や問題集を購入するようになっていきます。しかし、長男の預金通帳をチェックする父親は、長男が「参考書を買った」ということばを信用することはなく、説教しました。
また、父親は、長男がいないとき、長男の部屋に入り物色し、長男の隠し持っていたものをことごとく発見し処分しました。
斎藤由貴のCDカセットを持ちだしてきて、「こんなものを盗み聴きしているのを俺は知っていたんだぞ」とせせら笑い、長男に「そのCDをへし折り、焼却炉で燃やせ」と命じました。
また、長男と2人で外出した父親は、「いま、どういうものに興味を持ってるんだ?」と笑顔を浮かべて訊き、少年が「大藪春彦の小説、サバイバルナイフ、警棒…」と話し続けるのと表情を変えず聞いていました。「父にも心の広いところがあるのかな」と感じた長男は、得意になって好きなモデルガンの話を続けました。
数日後、父親は、長男が興味の持っている大藪の小説やモデルガンをこき下ろし、あざ笑ったのです。
こらえきれなくなった長男は、「じゃあそんなものは差しだせばいいんだろ?!」と涙声でいい、全部部屋から持ちだしてきて、父親の「封印しろ!」との指示に従い、ダンボール箱の中にしまいガムテープで止めました。
父親にボコボコに殴られて以降、さらに詮索干渉、束縛、支配が強まる中で、かつて学校でトップクラスだった長男の成績はみるみる下降し、高校2年の2学期はクラスで最下位になっていました。
しかし、高校3年生になった長男は、なくしかけていた学習意欲をとり戻し、2学期にはクラス40人中7-8番にまで成績を回復させますが、東大受験には失敗しました。24歳で父親を殺害し逮捕されるまでの6年間、浪人生として過ごすことになります。
そして、浪人中、家庭内暴力が激しくなり、耐えかねた両親は一時、知人の家に避難することになりなど、家庭内での力関係は逆転していくことになります。
そして、長男は、事件をおこす2年前の平成5年ごろから両親を拉致・監禁し、財産を自分の支配化に置くことを計画し、手錠やスタンガン、催涙ガスを用意することになります。
平成7年4月20日16時、母親を六万ボルトのスタンガンで制圧して手錠足錠をかけて自宅に監禁したあと、自宅2階の書斎で、長男は父親に催涙スプレーを吹きかけました。すると、父親に「人殺し!」と叫ばれ、押し倒し、馬乗りになり、手錠をかけようとしましたが、抵抗されてもみ合います。
しかたなくの足錠を手にかけました。
父親は164.5センチ52.8kg、少年は168センチ58kg、それほどの体格差はない中、長男は、父親の激しい抵抗に合いながらもなんとか押さえ込みます。
長男が自室にリュックサックをとりにいこうとしたとき、スキを見た父親が逃げだそうとしました。
長男は、階段の手前で父親を押し戻すと、再度もみ合いになり、両手拳、手刀で何回も殴打しました。
父親は気絶したふりをして、再度、逃げだそうとしたことから、長男は「また騙された」と父親に対する憎しみ、恨み、怒りが蘇り、殺意を覚えました。
長男は父親を洋服ダンスの取っ手に手錠をかけ、逃げられない状態とし、ボクシンググローブをはめた手で首や顎など数十回殴りました。父がうめくのを聞き、さらに、膝で両腕を抑えるように馬乗りになり、床に後頭部を何回も叩きつけ、胸部の上で跳びあがって圧迫しました。
口にはガムテープを貼り、声をださせなくしました。
父親の死因は、頸部圧迫による窒息死でした。
長男は、自宅の台所のテーブルに「父を殺した。自分も死ぬ」との遺書を残し、手首を切ったり、富士山麓の樹海に入ったりしましたが、死にきれず、約1ヶ月の逃走の果て、都内で逮捕されました。
平成9年2月12日、懲役10年の判決を受けました。


-事例146(事件研究30:光市母子殺害事件)-
「光市母子殺害事件」とは、平成11年4月14日、山口県光市で18歳1ヶ月の少年(大月(旧制福田)孝行)が、本村弥生(23歳)さんを殺害後屍姦し、その娘の夕夏(生後11ヶ月)ちゃんも殺害した事件です。
強姦致死罪、殺人罪、窃盗罪で起訴された少年の裁判は、その残虐な事件内容と、「元少年を死刑にすべきでない。」と主張する弁護団の突飛ともいえる弁護内容がマスコミで大きくとりあげられることになりました。
さらに、被害者の夫が「犯罪被害者の権利確立」を訴え、その後の少年法の改正のきっかけとなりました。
平成11年4月14日14時30分ころ、18歳1ヶ月の少年が、山口県光市の社宅アパートに、排水検査を装って居間に侵入した少年は、女性を引き倒し馬乗りになり強姦しようとしましたが、女性の激しい抵抗を受けました。
そこで、女性を殺害したうえで強姦の目的を遂げようと決意し、頸部を圧迫して窒息死させました。少年は女性を屍姦し、泣きやまない生後11ヶ月の娘を床に叩きつけるなどしたうえ、首に紐を巻きつけて窒息死させました。女性の遺体を押入れに、娘の遺体を天袋にそれぞれ放置し、居間にあった財布を盗んで逃走しました。事件後、少年は盗んだ金品を使ってゲームセンターで遊んだり、友だちの家に立ち寄ったりするなどしていましたが、事件から4日後の同年4月18日に逮捕されました。
福田は、「粘着テープとカッター持って、水道屋の作業服のコスプレの格好で設備点検を装いつつピンポンダッシュして遊んでたところ、前から目をつけていた奥さんの家にたまたま入り込んで、死んだ母ちゃんに似ている感じがしたから母親の体内に回帰したいという、赤子のような心情が高まって何やっても受け入れてくれるよねー、と思って押し倒して抱きしめたら、なぜか激しく抵抗するものだから首を強く抱きしめたところ動かなくなって、じゃあ胸はだけたら恥ずかしがっておきるかなと思ってブラはずして、それでもおきないからいつ読んだかも買ったかも覚えていない小説に、精子を注入すれば生き返ると書いてあったからマムコにチンコ突っ込んだんだけど、途中赤ん坊が泣いて俺を嘲っているような感じだったので、あやそうと抱き上げたら2回ほど床に落っことして、それでも泣き止まないから首にちょうちょ結びしたら泣き止んで、それから精子注入の生き返りの儀式をして一発抜いたらすっきりして生き返ったかどうか興味なくして、部屋の中を見渡すと赤ん坊が死んでいたので、押入れに入れればドラえもんが何とかしてくれるだろうと押入れに押し込んで、ようやくパニックになったから粘着テープと彼女の財布を間違えて持って帰ってしまって財布に入ってた地域振興券で遊んでいただけ。あと僕をなめないでいただきたい。」と述べています。
福田が知人宛に送った手紙には、「誰が許し、誰が私を裁くのか…。そんな人物はこの世にはいないのだ。神に成り代わりし、法廷の守護者達…裁判官、サツ、弁護士、検事達…。私を裁ける物は、この世にはおらず…。二人は帰ってこないのだから…。法廷に出てきてほしいものだ…何が神だろう…サタン!ミカエル!ベリアル!ガブリエル!ただの馬鹿の集まりよ!」とドストエフスキー「罪と罰」を引用し、「選ばれし人間は人類のため社会道徳を踏み外し、悪さをする権利がある」と書いています。
さらに、死刑判決を免れ無期懲役判決が下ったとき、知人宛に送った手紙には、「勝ったというべきか負けたというべきか? なにか心に残るこのモヤつき…。イヤね、つい相手のことを考えてしまってね…昔から傷をつけては逃げ勝っている…。まあ兎に角だ。二週間後に検事のほうが控訴しなければ終わるよ。長かったな…友と別れ、また出会い、またわかれ…(中略)心はブルー、外見はハッピー、しかも今はロン毛もハゲチャビン!マジよ!」と述べ、被害者の夫(本村氏)に対して、「ま、しゃーないですね今更。被害者さんのことですやろ? 知ってます。ありゃー調子づいてると僕もね、思うとりました。…でも記事にして、ちーとでも、気分が晴れてくれるんなら好きにしてやりたいし。紳*もカンシャク起こさず見守ってほしい。すまん思うてる。心遣いは今のボクにはかえってつらいやんか。(*「紳」とは、少年が手紙を送った知人のことです)」と述べ、「知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」、「オイラは、一人の弁ちゃんで、最後まで罪が重くて「死」が近くても「信じる」心をもって、行く。そして、勝って修行、出て頭を下げる。そして晴れて「人間」さ。オレの野望は小説家。へへ」、「犬がある日かわいい犬と出合った。…そのまま「やっちゃった」、…これは罪でしょうか」、「五年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。キタナイ外へ出る時は、完全究極体で出たい。じゃないと二度目のぎせい者が出るかも。」などと書いています。
福田は、父親と再婚相手の女性、2人の弟と祖母の6人暮らしでしたが、事件後、孫による犯行だと知った祖母は急死し、高校生だった2つ年下の弟は家を飛びだし、連絡がつかない状態となりました。
福田の父親は、殺害された女性の夫、本村さんと同じ会社に勤めていたことから退職し、その後、2度職場を代わっています。
福田の父親と母親は、見合いで知り合っていますが、結婚前、母親は夫になる男から性的暴行(強姦)を受け、産婦人科病院に入院しています。
結婚後、母親は夫(父親)によるDV被害をなんども実家で訴えることになります。
福田の父親は、給料をギャンブルに使い、妻(母親)の実家から借金し、日常的に母親と福田に暴力をふるっていました。
福田が小学校に入学する当日、父親は母親に暴力を加え、福田が母親の前に立ちはだかると、父親は福田に暴力をふるい失神させています。
母親は、やがて精神疾患から自殺未遂を繰り返すようになり、福田が中学1年生12歳のとき、ガレージで首吊り自殺しています。
このとき、父親は、福田に「母親を降ろすように」と命じ、母親を地面に抱き降ろさせると、失禁していた母親の体を拭かせるなど非情なことを強いています。
母親の自殺後の福田について、元同級生は、「さほど落ち込んだ様子はなく、普通にすごしていた。」、「学校では、いつでも明るくひょうきんにふるまっていた。」と話しています。
父親は妻の自殺後、フィリピン人女性と再婚し、女性は男児を出産しました。
福田は、父親からの暴力(虐待)を避けて家出を繰り返すようになり、高校卒業と同時に、水道配管設備会社に就職します。
事件は、福田が就職して10日目に起こしました。
福田の父親は、7年間一度も福田に面会に行っていませんでした。判決後の報道陣の取材で、職場を2回替わったことに対し「事件を起こさなければこんなことにはならない。最終的にはそこにいくんですよね。だから会いに行くことも足も遠のいていましたし。」、「息子がしたことだから、息子が責任とるのがあたり前。親は責任とってやりようがない。僕はそういう主義ですから。」と応えました。
報道陣に「責任の放棄では?」となげかけられると、「僕にどうせいちゅうんですか。できることは頭を下げることしかない。下げるチャンスがなかったです。謝罪する機会はつくればあったと思いますけど。しなかったというより僕が避けとったといった方が正しいかも。悪いなという気持ちがありますから、心を逆撫でするといったらおかしいんですが、あまり刺激を与えるような行動っていうのはできなかったですね、自分からは。」と、DV加害者の典型的な考え方として、自己に都合のいい解釈で、自己のふるまいを正当化する持論を述べています。
平成11年6月、山口家庭裁判所は、福田を山口地方検察庁の検察官に送致することを決定し、同年6月11日、山口地方検察庁は福田を山口地方裁判所に起訴し、同年12月22日、検察側は福田に死刑を求刑しました。平成12年3月22日、山口地方裁判所は、無期懲役の判決を下しました。同年3月14日、広島高等裁判所は、検察の控訴を棄却しました。
山口地方裁判所および広島高等裁判所の判決は、いずれも、福田が犯行時18歳1ヶ月で発育途上にあったことや、殺害については計画性がないこと、不十分ながらも反省の情が芽生えていることなどに着目して判決を下しています。ただし、広島高等裁判所は、福田の更生の可能性について、「更生の可能性がないわけではない。」と曖昧な判断をしています。平成17年12月6日、最高裁判所第三小法廷は、上告審弁論の期日を平成18年3月14日に指定しました。平成18年6月20日、最高裁判所は、「一審及び二審において酌量すべき事情として述べられた、殺害についての計画性のなさや被告人の反省の情などにつき、消極的な判断をしている。」として、広島高等裁判所の判決を破棄し、審理を広島高等裁判所に差し戻しました。
平成19年5月24日、差し戻し審の第1回公判が広島高等裁判所で開かれ、検察側は「高等裁判所の無期懲役判決における「殺害の計画性が認め難い」という点は著しく不当」としたうえで、「事件の悪質性などから死刑適用」を主張し、一方の弁護側は、「母恋しさ、寂しさからくる抱きつき行為が発展した傷害致死事件。凶悪性は強くない」、「殺意はなく傷害致死にとどまるべき」として死刑回避を主張しました。
第2回-第4回公判は、同年6月26日-28日の3日間でおこなわれ、1審の山口地方裁判所以来5年8ヶ月ぶりにおこなわれた被告人質問において、福田は殺意、乱暴目的を否定しました。
福田は、「強姦目的ではなく、優しくしてもらいたいという甘えの気持ちで抱きついた。」、「(乳児を殺そうとしたのではなく)泣き止ますために首に蝶々結びしただけ。」、「弥生さんを死亡させたあと、混乱状態となり、ズボンのポケットに両手を入れたところ、中にひもがあることがわかった。」、「乳児を押し入れに入れたのは(漫画の登場人物である)ドラえもんに助けてもらおうと思ったから。僕の考えではドラえもんの存在を信じていて、ドラえもんになんとかしてほしいと思いました。」と応え、死後に姦淫(遺体を乱暴した)をしたことについては、「小説「魔界転生」に復活の儀式と書いてあったから。」と述べました。
福田は、第1審ではこのような主張はしておらず、主張が変わった理由を「生き返らせようとしたと話せば、馬鹿にされると思ったから。」、「ドラえもんの話は捜査段階でもしたのだが、馬鹿にされた。だから、(第一審の)裁判官の前では話をしかねた。」と説明しました。
一方の検察側は、1審で無期懲役判決がでたあとに知人宛送った手紙を、被告人に反省がみられない証拠として提出しました。
第5回-第7回公判は、同年7月24日-26日の3日間でおこなわれ、弁護側が申請した精神鑑定をおこなった大学教授は、被告人との面談において、「僕は死刑になって、弥生さんと夕夏ちゃんと来世で会う。再会したときに弥生さんの夫となる可能性がある。そうなると洋さんに大変申し訳ない。」、「弥生さんは、洋さんが怒っているのを喜んでいないと思う。」と語ったことを証言しました。
第8回-第10回公判は、同年9月18日-20日の3日間でおこなわれ、福田は1審2審から一転して殺意を否定したことについて、「(捜査段階から)認めていたわけではなく、主張が受け入れてもらえなかっただけ」と述べました。
20日の公判では遺族の意見陳述がおこなわれ、改めて極刑を求めました。
同年10月18日、検察側の最終弁論で「改めて死刑」を求刑し、同年12月4日の弁護側の最終弁論では、「幼いころから不条理な暴力にさらされてきた。その中で彼はつまるところ成長は止まってしまった。」、「この悪魔は父親の虐待行為や母親の自殺により、精神的な発達が遅れ、現実を認識する能力がなかった。」と主張し、「殺意や乱暴目的はなかったとして傷害致死罪の適用」を求め、この日の公判で結審しました。
平成20年4月22日、判決公判がおこなわれ、広島高等裁判所は、弁護側主張を全面的に退け、「死刑回避理由にはあたらない」として死刑判決を下しました。主任弁護人となった安田好弘は、接見内容をもとに「被告人に母子を殺害する故意がなかった」ことを主張していましたが、最高裁判所は、「被告人は罪の深刻さと向き合って内省を深めていると認めるのは困難」として採用しませんでした。弁護側は判決を不服として即日上告しました。
平成24年1月23日、最高裁判所第一小法廷での上告審弁論が開廷し、検察側は死刑適用、弁護側は死刑回避をそれぞれ求めて結審し、同年2月20日、最高裁判所第一小法廷で判決公判がおこなわれ、差し戻し二審判決を支持し、被告人の上告を棄却しました。
同年3月1日、弁護側は判決訂正の申し立てを行っていましたが、同年3月14日付けで申し立てを棄却し、死刑が確定しました。
最高裁第一小法廷の金築誠志裁判長は、「何ら落ち度のない被害者の命を奪った残虐で非人間的な犯行で、犯行当時、少年であっても刑事責任はあまりにも重大で死刑を是認せざるをえない。」とし、「被告は犯行当時少年で、更生の可能性もないとはいえないことなど酌むべき事情を十分考慮しても刑事責任はあまりにも重大」と述べ、被告の犯行を「冷酷、残虐で非人間的」と批判し、「遺族の処罰感情は峻烈を極めている」と述べました。また、宮川光治裁判官は、「年齢に比べ精神的成熟度が低く幼い状態だったとうかがわれ、死刑回避の事情に該当し得る」と反対意見を述べています。


-事例147(事件研究31:音羽幼女殺害事件)-
「音羽幼女殺害事件」は、平成11年11月22日、東京都文京区音羽幼稚園の園庭で若山春奈ちゃん(2歳)が行方不明となり、3日後、春奈ちゃんの母親と親しい山田みつ子(35歳)が逮捕された事件です。
逮捕された山田は、マフラーで春奈ちゃんの首を絞め、遺体を静岡の実家の庭に埋めていました。
昭和39年、山田は静岡県大井川町で生まれました。家は土建業に就きながら、先祖代々の田畑を守り、祖父と後妻の祖母、叔父夫婦、両親と山田と妹の8人が暮らしていました。
祖母が実権を持つ家の中で、山田は、祖父の前妻の子どもである父親、姑の間で苦労する母親の姿を見て育ちました。また、異母弟の叔父との間で、家を継ぐ相続問題もあったということです。
山田は、祖母が近所の人に父母の悪口をいっているのを聞くと、それをメモし、あとで両親に教えたことがありました。
山田は、農作業を手伝う一方で、そういった家庭状況や狭い人間関係が嫌で仕方なかったといいます。
中学生のときに盲腸で入院した山田は、医者の誤診もあり2ヶ月近く入院することになりますが、そこで親切に世話してくれた看護師に憧れ、自身も看護の道を志すようになります。
退院後、学校では病欠を考慮されることなく、1学期の成績はオール1となりました。ショックを受けた山田は、夏休みに猛勉強しました。2学期は無遅刻無欠席で、成績があがったことを、教師に「よく頑張った。」といわれています。
また、山田は学級委員を務めていて、授業中に騒ぐ生徒がいると「静かにしてください」と注意していました。
担任教師との交換日記に、山田が「先生が教室にくると静かになるが、先生がいないときは騒がしい。」と書き、それを教師が公表し、騒いでいたとされる男子生徒が注意を受けたことから、山田は、男子生徒に「告げ口した」と批判されています。
中学3年のとき、親子4人で実家を離れ、近所に買った土地に家を建てて住むことが決まりました。
しかし、父親は親戚から「農業を続けて欲しい。」と説得され、結局そのまま生家に残ることになり、山田はひどくがっかりしたということです。
山田は、県立掛川東高校の看護学科に進学し、合唱部に入ります。電車通学をしていましたが、途中から男子校の生徒が乗り込んでくると、不安や緊張でドキドキ動悸がするなど、赤面恐怖症に悩むようになります。
高校時代の同級生の証言では、ある日、同級生が昼休みにカップラーメンをつくろうとすると、山田ははじめてカップラーメンを見たようで、「できたら、見せて。」といい、不思議そうに見ていたということです。
山田は、高校卒業後、当時浦和にあった埼玉県立衛生短期大学の看護学科に進学します。県外の短期大学に進学したのは、「実家を離れたい」思いがあったからでした。
しかし、2年生に進級した5月、摂食障害(拒食症)を発症し、8月までの3ヶ月で体重が10kg落ち、30kg台にまで痩せました。
山田は、授業で習っていたこともあり、自身で拒食症であることをわかっていたということです。夏休みになり実家に戻ると、それまでの反動から過食に転じ、体重は増え続けることになります。
そして、一時は短大を辞めようかと考えるほど、精神的に不安定になり、やる気が失せていきました。
短大卒業をした山田は、郷里に戻り、浜松医科大学の付属病院に就職しました。山田はたまたまでたナースコールで、患者の病名もわからないまま排泄の手伝いをすることになりました。そのとき、患者の容体が急変して亡くなったことにショックを受け、わずか1ヶ月ほどで病院を退職しました。
実家に戻った山田は、以降1年8ヶ月にわたり、ひきこもるようになります。
食べては寝て、という生活を繰り返します。
山田はそうした生活に絶望し、風邪薬を大量に飲んで、自殺未遂をおこします。
自殺未遂を機に、山田は早朝からジョギングで汗を流し、本と読みダイエットをはじめ、63kgにまで増えていた体重が、55kgまで落としました。
昭和61年1月、山田は静岡市内にある日本赤十字病院に再就職しました。
それを機に再び実家を離れ、病院の寮で暮らしはじめます。
食事制限をしていた山田は、1年ほどすると過食がはじまりました。
このとき、同僚の看護婦に教えられ、食べては吐きだすようになり、山田は急激に痩せていきます。
その間、三交代の勤務をこなし、休みの日にはボランティアの手伝いにもでかけていました。
そして、山田はテレビで聞いた「南無の会*-55」の松原泰道老師の法話に感動し、夏には長野市の寺院で開催された南無行(夏季研修会)に母親と一緒に参加するようになります。
仕事は順調にこなすことはできていましたが、摂食障害による食欲をコントロールできず、食べては吐くなど苦しみから、心の拠り所を同会に求めたのでした。
また、22歳の山田は、この夏の研修会で未来の夫となる男性と出会っています。それは、ボランティアで受付をしていた若い僧侶でした。山田とその若い僧侶は、研修会や講演会で挨拶したり、便りを交わしたりする仲になっていきました。
*-55「南無の会」とは、各宗派の枠を越えて、もっと広く仏教を学ぼうとする団体で、宗教団体ではありません。寺で人を待ち説法するのではなく、“辻”へでかけて、人々に広く教えを広めるため、街中にスペースを借り説法をしています。
身も心もぼろぼろになった山田は病院を辞め、また実家に戻ることになります。
実家でも食べては吐きを繰り返し、睡眠薬のハルシオンを何十錠も飲み、自殺未遂を起こしています。
唯一、看護師の仕事に希望を見だした山田は、静岡に戻り、浜松医科大学の付属病院に就職します。
このとき、山田は、配属先に精神科を希望しました。
平成4年秋、再び過度な摂食障害に苦しみ、病院の寮を離れ、実家に戻ります。
山田は、自己啓発セミナーに参加するようになり、同級生や友人などに対して、セミナーの勧誘の電話をしています。
このとき山田は、東京の若い僧侶にはじめて電話をかけます。山田がセミナーのことを話すと、僧侶は直ぐに誘いを断り、逆に「代表者がわからないような会はやめた方がいい。」と忠告します。山田は、僧侶の忠告に従い、自己啓発セミナーに参加するのをやめました。
南無の会で出あって6年、2人の仲は急速に深まり、平成5年4月、2人は結婚しました。山田が29歳のときのことです。山田の夫が副住職をしていた臨済宗桂林寺の近く、文京区音羽の築20年の8階建て、2LDKマンションに新居をかまえ、2人の生活がはじまりました。
山田は、郷里を離れてからも、田植えや稲刈りの時期には、実家を訪れ、農作業を手伝い、1人暮らしの母親を案じ、よく電話をかけていました。
山田は毎日、子どもを連れて寺に通い仕事を手伝っていました。夫は、お寺の養子に入った身であることから、かなり気を使っていたということです。檀家の話では、「(山田は)礼儀作法もしっかりできていたが、こちらからなにかいわないと、黙って頭を下げているだけの控えめな女性だった。」、「檀家が法事のときなどに食事に誘うと、「副住職も連れていっていいかね」と住職がいい、たがいに気を使っていたようだ。」ということです。
しかし、住職は「跡を継がせるのは身内にしたい」と考えるようになり、夫の後継ぎも定かではなくなっていきました。
逮捕時、山田は専業主婦と報じられていましたが、寺の仕事で月々6万円の報酬ももらっていました。
5時30分に起床し、6時には2人で寺に読経にでかけました。一旦、家に帰って朝食をつくり、10時ころ再び寺に行きます。トイレや書院の掃除をし、昼前には自宅に戻り、昼食の準備をし、午後にも手伝いのため寺に行っています。土日の週末は、寺で座禅会や法事があることから接待をしていました。
しかし山田は、この仕事を苦にすることはなかったといいます。
一方、福田は、家庭のことで苦労していました。
戒律の厳しい禅宗で修業をしてきた夫が、家庭の中では、独特な合理主義を貫いています。
新婚当初から、部屋にカーテンもつけず、「ゴミになるから」と新聞はとりませんでした。
そして、夫は山田に対し、ゴミの処理の仕方から布巾の干し方まで、細かく指示するなど、なにかにつけて詮索干渉しました。
平成6年1月、山田は長男を出産しました。
自宅に戻ると、体調の戻らぬうちから、毎日のように訪ねてくる夫の客にお茶や食事の接待をさせられました。無理がたたり、山田は体調を崩し、入院することになります。
同年3月ころ、夫は、食事のことで山田を批判します。山田の日記には「別居したい」「離婚したい」と書かれています。山田の心身は疲弊し、やがて鬱状態になっていきました。
そして、山田は、若山さんと出会います。
同年5月18日、長男を自宅近くの公園で日光浴させ帰りかけたとき、同じ年頃の男の赤ちゃんをベビーカーで連れた一人の母親が、山田の目に止まりました。どちらともなく声をかけると、ともに4ヶ月を迎えるころで、誕生日が2日違いであることがわかります。その場で電話番号を教え合うと、2人の家が近いことを知りました。若山さんは、山田宅と音羽通りをはさんで200m離れたところにある瀟洒な分譲マンションに住んでいました。
この日の山田は日記には、「仲良くなれそう」と書いています。
これが静岡の農家で育ち、埼玉の短大を卒業後、看護師として働き、僧侶と結婚した山田と、都会で育ち、4年制大学からOL生活を経て資産家の御曹司と結婚した若山さんの出会いでした。
若山さんは、山田の3歳下でした。そして、電話のやり取りがはじまり、一緒にデパートに買い物に行ったり、自宅に招いたりするなど、親しいつき合いをするようになっていきました。
ところが、山田は「長男が1歳半になったころ、若山さんとのつき合いに疲れを感じるようになりました。「長男の入園を考えるころ、私が「音羽幼稚園は自由保育でいいみたいよ」というと、若山さんはイライラした様子で、「そんな野放しのどこがいいの」といわれたので嫌な感じがしました。」と公判で述べています。
これは若山さんに悪意があったのではなく、ただ単に自分の子どもの教育に対する考え方が違っていただけの山田の一方的な“違和感”にすぎないものでした。
また、若山さんが、新しく知り合った他の父兄山田さんと急速に仲よくなったことから、山田は、疎外感を感じるようになります。
山田が「若山さんは山田さんにはていねいに接しても、自分と長男には粗雑に接する。」と述べているように、山田には、それが差別的な態度に見えたのでした。
山田の長男と若山さんの長男は揃って、音羽幼稚園に入園しました。
幼稚園のお迎えのとき、母親たちは連れ立って公園などに帰り道集まっていましたが、山田は昼食をとりに帰ってくる夫の食事の仕度で家に帰らなければならず、山田は疎外感を深めていきます。
長男が年少組の3学期、山田は、夫に「幼稚園を変えたい」と相談していますが、長男は転園を嫌がり、夫も反対したため諦めています。
そして、長男が年中組にあがってからは、山田は、送り迎えのときもなるべく若山さんと顔を合わせないように務めるようになっていきます。
若山さんのマンションの前を通るときには、自転車があるかないか確認し、あれば「家にいるのだ」と安心し、なければ「不安になった」といいます。
そして、若山さんと行動をともにするときには、若山さんの嫌なところばかり目につくようになり、彼女のことを考えるだけでもパニック状態になっていきました。
しかし、皆からは仲がよいと思われていると思うと、陰険な態度はとれなかったといいます。
事件9ヶ月前の平成11年3月、長男が年中組の3学期、園長を囲んでの懇談会が開かれました。父兄は10人ほどしか集まりませんでしたが、山田は長女を抱いて参加していました。
父兄が育児の悩みについて話していたとき、山田が急に泣きだしたことから、園長が話を聞くと、「子どもが今日は○○ちゃんと遊びたいと思っても、お相手の人は他の子を誘ってうちの子は誘ってくれなかったり、自分も用があって子どもを遊ばせられなかったりすることがある。」と応えたとのことです。
そして、山田の若山さんへの“嫌悪”の感情は、“憎しみ”に変わっていくことになります。
山田は「ベルトで若山さんの首を絞めるシーンをたびたび思い浮かべた。」と供述しています。
「若山さんがいなくなってしまえばいい」と思いはじめるようになった山田は、それまで長男がいたずらしても、手をあげず、口でいってきかせていましたが、たまに頭を叩くようになります。
そして、若山さんのいる前で、長男がいい子にしていなかったときは、厳しくあたるようになり、時には、長男を蹴飛ばして床に転がしたりしています。また、止めに入った夫に、山田がつかみかかったりしましたが、夫は、山田のそうした行為に及ぶ理由について訊くことはありませんでした。
長男が年長にあがると、若山さんが親しくしていた山田さん家族が海外へ転居することになったことから、前ほど疎外感は感じなくなります。
山田は、2歳になった長女を連れて児童館の遊びの会に参加するようになり、再び、若山さんと顔をあわせるようになります。
若山さんの方から声をかけてくることも多くなり、幼稚園の遠足に一緒に行ったり、電話もかかってきたりするようになりました。
それでも、山田の若山さんに対する憎しみの感情は消えることはありませんでした。
そして、山田は再び若山さんを避けるようになります。
しかし一方で、若山さんのマンションに自転車が置いてないと、自転車に乗せた長男に変に思われながらも1時間近く探し回るなど、近くの公園を必死に探し回っています。
事件直前の平成11年11月初め、子どもが寝静まったあと、山田は夫に話しかけています。
山田が「ねえ、私がもし、犯罪者になったら、どうする?」となげかけると、夫は「犯罪ってなに?」と訊き直します。「いろいろ…」と口を濁している山田に、夫は「若山さんのことか?」と訊きます。山田が「若山さんのことじゃない。私が犯罪者になったら、お寺の住職や奥さんにいろいろいわれるのよね」と応じると、夫は「そうさ、いろいろいわれるよ」と応えました。しばらくやりとりしたあと、夫は「そんなことしたら一家離散になる。」と口にしますが、それに山田は返答することはありませんでした。
11月は受験の時期で、幼稚園ではピリピリした雰囲気が漂い、受験についてあちこちで話されるようになっていきます。そして、山田は、若山さんと顔を合わせる機会が多くなっていきます。
山田は、子どもの受験には熱心ではありませんでした。お茶の水付属と学芸大付属の制服の区別がつかず、周囲からバカにされたこともありました。
それでも山田は、徒歩で通えるということで、長男には国立の付属を受けてみることに決めます。
夫とは、子どもの受験のことでも意見は合いませんでした。山田が「長男を塾の短期集中講座に行かせたい」というと、夫は「行かせても受かるわけがない」と応じ、口論になったりしました。
また、長女の幼稚園についても考えが合いませんでした。
山田は眠れない日が続き、家事も疎かになっていくようになります。
精神的に不安定になっていった山田は、夫に離婚を切りだすこともありました。
同年11月11日、山田の長女がお茶の水女子大の付属幼稚園の1次試験を受けましたが、抽選で外れます。一方、若山さんのところの長女春奈ちゃんは抽選にあたります。
ここで、2人の子どもは明暗をわけることになりました。
5日後の同年11月16日、筑波大学付属小学校の抽選に、山田の長男はあたり、一方、若山さんの長男が外れました。
このとき、長男の必要なくなった問題集を若山さんからさしだされましたが、山田は、素直に受けとれず、気まずくなっています。
平成11年11月19日(金)、お茶ノ水女子大付属の幼稚園の合否が発表され、山田の長女は落ちましたが、若山さんの長女春奈ちゃんは合格していました。
同年11月21日(日)、山田が七五三の準備のために美容院にでかけると、姓名判断の本があり、読んでみると自分の長女より、春奈ちゃんの方の画数がよかったのです。
山田は、帰宅後もこのことにこだわります。
このとき、夫は「気にするな」と声をかけています。
同年11月22日(月)、園のお迎えで集まっていた主婦たちが、若山さんに「おめでとう」といい騒いでいました。
その輪の中に山田はいました。
「山田は苦虫をかみつぶしたような顔で帰っていった。」というのが、犯行3分前の山田の姿でした。
同年11月11日の正午前、園庭で若山さんが他の父兄と話している一瞬のすきに、初奈ちゃんの姿が見えなくなりました。
春奈ちゃんを抱いてさらっていた山田は、公衆便所に連れこみ、春奈ちゃんに身につけていたマフラーで絞殺しました。
絞殺後、山田はバッグに遺体を詰め、静岡の実家の裏庭に埋めたのです。
同年11月24日の朝、山田は実家の母親に2度電話を入れています。山田の母親は、とても小さい声であったが、「春奈ちゃんを殺したのは自分なのだ。」、「遺体は家の庭に埋めた。」と聞かされました。
山田の母親は、東京の寺に電話をし、山田の夫にそのことを伝えました。
春奈ちゃんが行方不明となって3日後の11月25日、山田は夫につき添われて自首しました。
山田は、「若山さんの方が裕福でうらやましかった。最近、自分の娘が不憫で、春奈ちゃんを見ているのが辛くなった。」、「あるとき、若山さんに「あなた、少し身なりに気をつけたほうがいいわよ」といわれた。」、「長男同士が帰りに手をつないで、一緒に帰ろうとしていたら、春奈ちゃんを抱いた若山さんが 今日は用があるからといって、2人を引き離した。私の子どもは一緒に帰る約束をしていたのにといった。そのとき、若山さんは私と目をあわせもしなかった。」、「公園で私の子どもとあるお母さんの子ども、そして若山さんの子どもが滑り台で遊んでいたとき、あるお母さんが帰ろうとすると、若山さんが、一緒に帰るから降りなさいと子どもを降ろし、そのお母さんと2人で帰った。私と私の子どもにも声をかけてくれればいいのになと思った。」、「長女の抽選漏れがわかった時点で、若山さんに「幼児教育が足りなかったんじゃないの」といわれた。」と供述しています。
山田は、若山さんに親近感を持ちました。
東京に転居して以来、親しい友人が独りもいなかった山田にとって、若山さんは「自分の親友になってくれるかもしれない」と期待するとともに願望することになります。
一方の若山さんは、山田のことを「自分と同年齢の長男を持つ近所の友人」と認識していましたが、山田ほどの深い感情は持っていませんでした。
山田は内向的な性格で、他者とのコミュニケーションや人間関係の形成が苦手で、長男が幼稚園に入園後も、山田以外の園児の母たちとは親しくなれずにいます。
一方の若山さんは、開放的・社交的な性格で、友人関係の形成が得意でした。そして、音羽幼稚園に子どもを通園させている母たちとの友人関係が広がっていきました。
山田と若山さんは、もともと相手に対する感情移入の質量が異なっていたところに、若山さんは幼稚園の母親友だちとの交友関係が増加し、相対的に若山さんと山田との関係は希薄化していくことになりました。
山田の若山さんに対する親友になって欲しいという過剰に期待された感情移入に対し、若山さんが応えなかったのではなく、若山さんの友人関係の広がりが、山田が若山さんに対する親近感が嫌悪感に転化させ、増大させていくことになったのです。
そして、山田は、若山さんの自分や自分の子どもに対する言動のすべてを悪意的な先入観で解釈し、若山さんの言動の一つひとつに耐えがたいほどの嫌悪を感じるようになっていきました。
しかし、山田は幼稚園仲間である若山さんや他の母たちに対しても、円満な関係を形成し維持しなければならないという強迫的観念に囚われ、また、他者からよい評価を得るために、若山さんや他の母たちとも良好な関係を持っているかのように表面的に偽装しなければならないことから、内面に強い葛藤を抱えることになりました。
いい人と思われなければならない強い葛藤と、期待を裏切られた失望と嫌悪感は、山田にとっては耐え難い苦痛でした。
山田は感受性が著しく敏感で、感情の起伏が激しいため、自分と長男・長女に対する若山さんの言動に日常的に嫌悪感を持っていましたが、感情を表現・発散できずに内面に蓄積していきました。
その感情の自己管理が困難で、精神的に耐えられなくなっていったのです。
そうした中で山田は、夫に若山さんに対する嫌悪感を打ち明け、若山さんと顔を合わすことは精神的に耐えられず、長男の幼稚園を変更したいと夫と長男に相談しました。
しかし、長男は「現在通っている幼稚園を続けたい」と主張し、夫も「長男が現在通っている幼稚園に馴染んでいるので変える必要はない」と反対し、「若山さんに対して嫌悪感を持つなら、できるだけ若山さんとかかわらないようにすればいい」と応じられました。
山田は、精神的に耐えきれなくなり、追い詰められたときは「勤務先の病院を退職し、実家に帰る」という“回避(苦しいことから逃げる)”する路を閉ざされることになりました。
その結果、山田は、若山さんに対する耐えがたい嫌悪感と、表面的に円満な関係を偽装する責任感と、今後も長男と長女の通学・通園のために若山さんと顔を合わせ、ことばを交わさなければならない関係が続くという絶望感に苛まれることになります。
一方で、山田には「私の気持ちわかってよ。」といった自己憐憫*-56でしか、蓄積された憤りや怒り、哀しみを表現できない様子も表れています。
そして、これまでの成功体験の回避(苦しいことから逃げる)手段を奪われた山田は、この状況から脱却するために若山さんを殺害したい(消し去りたい)と考えることしかできなくなっていきました。
*-56「自己憐憫」については、「Ⅰ-5-(6)被害者に見られる傾向」の「事例68(分析研究6)」で説明しています。
裁判で、山田は、若山さんではなく春奈ちゃんを殺害した理由について尋問されたときに、「この状況から脱却したかった。春奈ちゃんが若山さんと同一の存在に思えた。」と供述しています。
検察官が、山田に「若山さんを殺すのではなく、若山さんにとってかケガえのない大事な存在である春奈ちゃんを殺害することで、若山さんに対して生きながら耐えがたい苦痛・悲嘆・絶望を与えようという、悪魔的な動機により春奈ちゃんを殺害したのではないか」と尋問すると、山田は「そのような動機は考えたことはない」と否定し、裁判所もその点を否定しています。
平成13年12月5日、東京地方裁判所の大谷直人裁判長は、起訴事実と犯行の動機のいずれも検察官の主張を全面的に認定しました。「犯行の原因・責任はすべて山田個人の特異性にある」と認定し、検察官の懲役18年の求刑に対して、被告人山田に懲役14年の判決を下しました。検察官は「量刑が不当に軽い」という理由で控訴しました。
平成14年11月26日、東京高等裁判所は、起訴事実と犯行の動機のいずれも検察官の主張を全面的に認定し、検察官の控訴を認め、地方裁判所判決を破棄して被告人山田に懲役15年の判決を下しました。被告人と弁護人、検察官も上告せず、判決が確定しました。
同年12月4日、東京地方裁判所は、春奈ちゃんの両親が春奈ちゃんを殺害した山田に対して約1億3700万円の損害賠償を求めた民事裁判で、山田に約6100万円の損害賠償の支払いを命じる判決をし、そのうち約1970万円は、両親の請求どおり毎月22日の月命日に約8万円ずつ分割で20年かけて支払うよう命じました。


-事例148(事件研究32:佐世保小6女児同級生殺害事件)-
「佐世保小6女児同級生殺害事件」とは、平成16年6月1日12時30分過ぎ、長崎県佐世保市の市立小学校で、6年生の女子児童(11歳)が同級生の御手洗怜美さん(12歳)をカッターナイフで切りつけ、死亡させた事件です。
教師が異変に気づいたのは昼のことでした。平成16年6月1日12時30分過ぎ、長崎県佐世保市立大久保小学校では、給食を食べる時間でしたが、6年生の女子児童2人が姿を消していました。
12時40分ころ、いなくなっていた少女が1人帰ってきました。少女の服には血がついていました。「私の血じゃない!」と、少女はそう叫びました。担任が、少女に「怜美ちゃんはどこにいるの?!」と訊くと、少女は50mほど離れた同じフロアの「学習ルーム」の方を指差しました。
担任が学習ルームに行ってみると、入り口付近でクラスの被害女児(12歳)が首からおびただしい量の血をだして横たわっていました。
救急隊が到着したときには、すでに心配停止状態だったといいます。
服に血のついていた少女に事情を訊いたところ、カッターナイフで切りつけたことを認めました。
少女は、両親と祖母、高校生の姉の5人暮らしで、家は市の中心部からはずれた山間部、近所は同じ名字の多い、血のつながりが濃い集落でした。
両親は東京で恋愛し、父親が婿入りするという形で佐世保市に住んでいました。
少女が2歳のとき、生命保険会社に勤めていた父が脳梗塞で倒れ、寝たきりになりました。
父親はリハビリの成果もあって回復しましたが、父親は累積したストレスを発散するため、少女に虐待を加えていました。父親は、少女に過剰に干渉するだけでなく、少女の友だちを激しく叱責することもあったといいます。
少女は、親戚や同級生に対して「父親が嫌いである」と口にしていました。
一方で、母親はパートにでるようになり、祖母も農作業にでていたこともあって、少女はひとりで遊ぶことが多かったといいます。
少女は、両親との関係、コミュニケーションが淡白でした。
少女が入院し、家族が面会にきたとき、「情緒的な交流が一切なく、世間話をしているだけだった。」と関係者が話しています。
少女が3-4年生になると、ホラー小説の「ボイス」、「バトル・ロワイヤル」を好んでよむようになります。バトル・ロワイヤルは、小さな島に中学生が閉じ込められ、最後の1人になるまで殺し合うという内容のもので、小学生が見るには刺激が強すぎるとされていました。11歳の少女は、この作品にすっかりのめり込み、R15指定となっている「バトル・ロワイヤルⅡ」のDVDを姉の会員カードを使ってレンタルショップで借り、何度も観ていました。
また、少女のホームページ(平成16年2月開設)、事件後にランドセルの中から見つかったノートには、「バトル・ロワイヤル」そっくりの自作の小説が書かれていました。
この自作小説は、6年生のクラスと同じ人数の38人が殺し合いをするストーリーで、被害女児と同姓の登場人物も描かれており、物語の中で殺されるシーンが書かれていました。
平成15年、少女が4年生のとき、被害女児が大久保小学校に転校してきました。同小学校は1学年1クラスであることから同じクラスになり、2人は自然と仲がよくなっていきました。
平成16年2月、5年生の少女は、ホームページを立ちあげています。少女は、普段からグル~ミ~という血まみれのクマのキャラクターが描かれたTシャツを着用しており、そのキャラクターの画像をネットに投稿していました。少女は、被害女児ら友人にもつくり方を教え、楽しんでいました。また、「バトル・ロワイヤル」の小説を同級生に貸しだし、また、大石圭の「呪怨」にも興味を示し、父親に「買ってほしい」とお願いしていました。
そして、平成16年4月、他の友人を含む3人で掲示板を使っていました。
一方で、少女は5年時からミニバスケットボールをはじめていましたが、成績が下がりはじめたことから、両親に辞めるように命じられます。少女は泣きながら、監督に退部を申し入れています。直後のホームページに、少女は「私には親なんてもういない。」と書いています。
同年2月、ミニバスケットボールのメンバーが不足していたことから、「試合にでて欲しい」と要請があり、少女は2日間の大会に参加し、優勝することができました。TV局のインタビューも受け、少女にとって誇らしいできごとでしたが、両親の考えは変わらず、クラブの活動はこれが最後となりました。
そして、大人しかった少女は、精神的に不安定になっていくことになります。
少女は、人と話すときに人の目を見なくなり、目を泳がせて落ち着かない素振りを見せることがしばしばあり、また些細なことで逆上し、罵詈雑言を吐いたり、机などを蹴り飛ばしたり、男子生徒を叩いたり、蹴ったりするようになります。
事件の1週間前(同年5月)には、男児にカッターナイフをふりあげています。
また、同級生に対して、他の児童とともに集団いじめをおこなったりしたこともあったということです。
少女のホームページの日記には、「うぜークラス 下品な愚民や 高慢でジコマンなデブスや カマトト女しったか男 寝言いってんのか?って感じ。顔洗えよ」と、クラスメートに対する日々のうっぷんが吐きだされています。
そして、6年生に進級した少女は、暴力的な言行が増えていくことになりますが、担当教師は「遅刻も少なく、授業中も率先して手をあげて質問する積極的な生徒」と認識していました。
同年5月27日、学校で、「おんぶごっこ」をしていたときに、被害女児から「重い」といわれ、少女は腹を立て「失礼しちゃうわ」と応じます。
少女は、ミニバスケットを辞めたあと、太ったことを気にしていので、被害女児に謝罪を求めましたが、事件4日前同年5月28日、被害女児は自身のホームページに「言い方がぶりっ子だ」と書き込みをしたのです。
以降、2人の仲は険悪になりました。
これ以前にも掲示板の書きこみや交換日記で、被害女児に気に障ることを書かれたりしていたことから、仲直りには至りませんでした。
そして、書込みを見た少女は、被害女児のパスワードを使ってその書込みを削除しましたが、再び、被害女児は同様の書込みをしました。
さらに、被害女児は自分の掲示板が不正に書き換えられたことについて、「荒らしにアッタンダ。マァ大体ダレがやってるかワかるケド」と書き込みをしました。少女は再び被害女児のパスワードを使って被害女児のホームページに侵入し、アバター(着せ替え)人形を抹消しました。
また、少女は、被害女児を含めた同級生達と手書きの合作ノートをつくっていましたが、ここでも同時期に他の子とトラブルがあり、事件のわずか前に被害女児を通じて「退会を求められていた」といいます。
事件2日前の同年5月30日、少女の殺意は固まりました。絞殺、アイスピックで刺す、カッターナイフで切るという3つの殺害方法から、カッターナイフを選んでいます。
少女は「首を絞めたり、アイスピックで刺すのでは被害女児が死なないのではないかと思い、消去法で選んだものだった。」と供述しています。
少女は、事件直前の授業で「お前を殺しても殺したりない」と作文に書いています。また、少女はハングル文字の入ったイラストを描いていました。
同年6月1日、少女は、被害女児を教室と同じフロアにある「学習ルーム」に連れだしました。カーテンを閉め、被害女児を椅子に座らせると、タオルで目隠ししようとしましたが、嫌がられたため、後ろから手で目隠しするようにして背後から首と左手を切りつけました。
被害児童の首の傷は深さ約10センチ(普通の大人の首の太さは直径で13-15センチぐらい)、長さ約10センチ、左手の甲には、骨が見えるほど深い傷になっていました。
切りつけたあと、少女は約15分間、現場にとどまり、被害女児を蹴り飛ばしたり、踏みつけたりして、生死を確認していました。
このとき、少女はパニック状態にあったと考えられています。
この殺害方法は、少女が繰り返し観ていた「バトル・ロワイヤル」に似た場面があり、少女が「前夜に見たテレビドラマ「ホステス探偵危機一髪6」にカッターナイフで人を殺害する場面があり、これを参考に殺人を計画した。」と供述しています。
事件から2日後の同年6月3日、少女は、弁護士に対して「よく考えて行動すればこんなことにはならなかった。」、「被害児童が生き返ってきたら、謝りたい。」と話しています。
同年7月9日、佐世保市は同小学校の児童174人を対象に、PTSDの診断基準にもとづくアンケートを実施するとともに、精神科医や臨床心理士、保健師による面談調査をおこなっています。
67人の児童になんらかの心の障害が残っており、うち7人の障害がより重いことがわかりました。
7人の中には「ふいに事件を思いだす」などフラッシュバックと呼ばれるPTSD特有の症状を訴えた児童もおり、一部は専門医による診療を受けることになりました。
教室が「学習ルーム」に近いところにある3-6年生は、殺害直後の状況を目撃していたことから、同小学校では、事件を思いださせないようにと学習ルームの撤去工事をおこなっています。
また、児童のほか、被害者家族、学校関係者にもPTSDの症状、救急隊員に惨事ストレスやサバイバーズ・ギルト*-57の兆候が見られる状態になっています。
*-57「サバイバーズ・ギルト(Survivor's guilt)」は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)によるホロコーストを生き延びた人々などに見られたケースとして知られ、戦争や災害、事故、事件、虐待などにあいながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のことです。
サバイバー(survivor)は「生き残り・生存者・遺族」を、ギルト(guilt)は「罪悪感」を意味します。
日本では、平成13年6月8日に発生した附属池田小児童殺傷事件、平成17年4月25日に発生したJR福知山線脱線事故において、生存者の間にこの種の感情が見られると報道されたで、認知度が高まりました。
太平洋戦争中におこなわれた本土空襲、沖縄戦、広島市への原子爆弾投下、および長崎市への原子爆弾投下で生き残った方々が、当時を回想するとき、「あの状況で見殺しにするしかなかった。」、「助けられた命を見捨てた。」と思いを吐露するとき、サバイバーズ・ギルトの状況にあることになります。
見逃されてしまいがちですが、本来、この状況にあるとき、PTSDを発症している可能性が高く、心理的な援助を必要とすると考える必要があります。

長崎家庭裁判所佐世保支部では、同年6月15日から84日間かけて少女の精神鑑定が実施され、同年9月15日、「最長で2年間までの行動の自由を制限する措置を認めた」うええ、国立の児童自立支援施設である国立きぬ川学院(栃木県)への送致を決定しました。
精神鑑定では、「少女は情緒面で同世代に比べて著しい遅れがあるが、障害とみなすべきものではなかった。」とされています。
少女は、特別室に収容され、対人関係の築き方や感情のコントロールなどを体得するプログラムを受けることになりました。ここでは医師から「アスペルガー症候群」と診断されています。
平成18年9月7日、長崎家裁佐世保支部は少年審判を開き、少女の強制措置(施設内での行動の自由を制限できるもの)を、「今後2年間で通算50日を限度に許可する」との決定を下しました。


-事例149(事件研究33:宇治学習塾小6女児殺害事件)-
「宇治学習塾小6女児殺害事件」は、平成17年12月10日、京都府宇治市の学習塾「京進」宇治神明校で、市立神明小学校6年生の堀本紗也乃(12歳)ちゃんが、塾講師の萩野裕(23歳)に刺殺された事件です。
被害女児の母親が、学習塾に対し「塾講師の荻野との関係がうまくいっていない」と繰り返し相談した結果、荻野が担当する国語の授業を受講させないことになったことから、荻野は、女児に対し、逆恨みの感情を抱くようになりました。
事件後、殺害動機について、荻野は「受け入れてもらえず自信がなくなった。」、「殺さないと精神的に立ち直れないと思った。」、「(紗也乃さんが)いなくなれば楽になると思った。」と供述しています。
事件当日の平成17年12月10日9時ころ、荻野は模擬試験の監督を外されていましたが、包丁とハンマーを用意したうえで出勤しました。
教室内の映像を映す事務室のモニターの電源コードのプラグを抜き、行内アナウンスで「別室で国語のアンケートをとります」と伝え、模擬試験を受けにきた12人の児童を犯行現場となった教室から別の教室へ移動させ、国語を選択していない被害女児と2人になりました。荻野は、出入り口を施錠し、椅子に座った被害女児に背後から近づき、出刃包丁(刃渡り17センチ)で被害女児の首、頭、顔などを十数回にわたり切りつけました。被害女児は教室の奥に逃げましたが、萩野は被害女児を突き飛ばして首を突き刺しました。
被害女児は、失血死でした。
萩野はその直後に自ら110番し、駆けつけた宇治警察署の警察官に現行犯逮捕されまたが、遺体の周りは血の海で、あまりの凄惨な殺人現場に、ベテランの捜査官も直視に耐えなかったといいます。
平成2年、萩野は両親と3人で、宇治市寺山台の新興住宅街の新築2階建てに引っ越してきました。
荻野の母親は「30歳を過ぎてできた1人息子」と話していたといいますが、荻野は、小学時代から自宅で奇声をあげて騒いだりしていたようです。
事件後の精神鑑定で、精神科医が「被告はアスペルガー症候群であった」と述べているように、荻野はコミュニケーション能力に乏しい傾向があったとみられています。
荻野は、幼少期に厳格な環境で育ち、菓子やテレビゲームを与えられず、男女交際を禁止されていました。
学業こそ優秀でしたが、思春期に入ると、親に詮索干渉され、抑圧されてきた反動として、親に対して暴力をふるうなど横暴な性格を見せるようになります。
「登校前に母親を罵るようなことばを浴びせていた」、「皿が割れる音が聞こえた」、「父母のもうやめてと叫ぶ声がした」という声が近所で聞かれています。
近所の男性は、「(家庭内暴力もあったようで)家庭では王様のようにふるまっていたようだ」と述べています。さらに、「母親が救急車で運ばれた」と証言もありました。
また、この一家と親しくつき合う人は少なかったといいます。
中学時代、成績は学年トップクラスだった荻野とはテニス部の1年後輩の男性(22歳)は、「小学校時代に荻野とケンカしたとき、荻野の母親に「うちの子は悪くない」といわれ、謝罪させられたことがあった。」と述べていますが、ここにも母親の過干渉が伺えます。
同志社香里高へ進学した荻野は、全国の過疎の村を巡り調査し研究結果を報告書としてまとめる「地歴部」に3年間所属していました。平成13年4月、同志社香里高から学内推薦により同志社大学法学部に入学し、2年生のときゼミでは学部内で屈指の人気の「犯罪と刑罰」を専攻し、また、「子供と遊ぶサークル」に所属していました。
平成15年6月、荻野は、学内の図書館で女子学生の財布を盗み、駆けつけた警備員を殴り、ケガを負わせたとして京都府警に現行犯逮捕されました。
そして、同年6月までに、荻野は、大学構内で、机などに置かれていた学生のカバンや財布などを盗むなど20数件の盗みを繰り返し、被害総額数十万円に上っていました。
同年9月、荻野は「大学に迷惑をかけた」として、母親を通じて「休学願い」を提出しましたが、大学は受理せず、同年10月、教授会で1年6ヶ月の停学処分を決定しました。
平成16年3月、荻野は窃盗と傷害の罪で懲役2年6月、執行猶予3年の有罪判決を受け、刑が確定しました。
大学1年生の時からアルバイトをしていた学習塾は解雇されましたが、逮捕から5ヶ月、停学処分の翌月の平成15年11月、京都府内の学習塾「京進」に採用され、京進宇治神明校でアルバイトをはじめています。
「京進宇治神明校」の荻野の紹介文には、「人生は一回ポッキリ!」とのコメントともに笑顔でピースサインをしている写真が載っています。荻野は小学生に国語、中学生に英語を教えていました。
荻野の同僚によると、荻野は「まじめで融通が効かず、杓子定規に授業を進めたがった。」といい、また、「授業中に特定の生徒を見つめることもあった。」、「教え子の女子生徒にストーカー行為を繰り返し、女子生徒が学習塾を辞めたこともあった。」と証言しています。
事件後、「平成16年には、女子生徒に体罰をして、女子生徒は退塾していた。」ことが明らかになりましたが、このトラブルは学習塾に報告されていませんでした。
また、同志社大学に復学後、荻野は教職課程科目の単位も取得しています。
約1000人いる同大法学部の中では、上位1-2割に入る成績で、卒業まで残り8単位となっていました。
平成18年2月20日、京都地方裁判所(氷室眞裁判長)で初公判が開かれ、荻野は罪状認否で「すべて間違いありません。」と起訴事実を認め、謝罪しました。検察側は冒頭陳述で、学習塾での指導をめぐり2人の関係が事件前年の平成16年夏ころから悪化していたことをあげ、「紗也乃さんの言動などから一方的に不信感と憎しみを募らせた。」と動機を指摘し、凶器の包丁を購入した平成17年12月2日(事件8日前)の直前に明確な殺意が芽生えたとし、「紗也乃さんの「キモイ」ということばが頭から離れず、裏切られ、恩をあだで返されたと思いこんだ。」などと事件当時の精神状態を明らかにしました。そのうえで、計画的な犯行と具体的な供述内容などから、萩野に完全責任能力があったと主張しました。これに対して弁護側も冒頭陳述し、「萩野被告は前年11月下旬から「(紗也乃さんが)両手で剣を持って突き上げてくる」という妄想に支配されており、犯行はこれに突き動かされた結果」と反論し、「萩野が事件当時、心神喪失か心神耗弱状態だった」と指摘し、無罪または減刑を求めました。
公判中の荻野は突然、大声で「僕を殺してくれ! 助けてくれ!」とわめきだすなど、奇妙な言動が目立っていました。
平成19年3月6日、京都地方裁判所で判決公判が開かれ、氷室真裁判長は、萩野の完全な責任能力を認めたうえで「本来生徒を守るべき講師が教え子を殺害した特異な事件で、社会的影響の大きさは看過できないが、犯行直後に自ら110番し、自首が成立する」と述べ、懲役18年(求刑・無期懲役)の判決を下しました。
裁判長は、弁護側の求めで地方裁判所が実施した精神鑑定にもとづき、「アスペルガー症候群でストレスに弱い被告が、精神病様状態にあった局面はあった」と認定するとともに、一時的な精神状態の悪化により、事件の8日前に自宅で被害者の像が見えたことから、像を消すために犯行を思いついた。」としました。
一方で、萩野が犯行直前まで大学の授業を受け、塾での仕事も支障なくこなしていた。凶器を用意し、監視カメラのコンセントを抜くなど周到な準備をしていたことなどを挙げ、「非常に計画性の高い犯行」と指摘し、「精神病様状態」は恒常的なものではないとし、「犯行当時、心神耗弱だった」とする弁護側の主張は退けました。そのうえで犯行について、「余りに残忍で執拗。凄惨さは筆舌に尽くしがたく、極めて悪質」と述べました。同年3月19日、京都地方検察庁は、懲役18年をいい渡した京都地方裁判所判決を不服として控訴しました。翌同月20日、弁護側も京都地方裁判所判決を不服として控訴しました。
平成21年3月24日、大阪高等裁判所は、萩野裕に対し、懲役18年とした1審京都地方裁判所判決を破棄し、懲役15年との判決を下しました。的場純男裁判長は「犯行当時、被告は心神耗弱の状態だったとみるのが相当で、完全責任能力を認定した1審判決は是認できない。」と述べました。
控訴審では「犯行時、幻覚妄想状態に陥っていた。」とする再鑑定を踏まえ、「アスペルガー症候群と著しい幻覚妄想の影響により、善悪を判断して行動を制御する能力が著しく減退した心神耗弱の状態だった。」と認定し、量刑理由で「塾講師として塾生を保護すべき立場にあった被告が殺人者にひょう変した凶悪犯罪。」と指弾する一方で、「反省も深めている」と述べました。同年4月7日、上告期限となるこの日までに検察側、被告側ともに上告しなかったため、大阪高裁での懲役15年が確定しました。
この事件で殺害された女児の両親が、犯人の講師が勤務していた学習塾京進に対し、事件を未然に防止しようとしなかった責任は大きい」として、京都地方裁判所に慰謝料1億3000万円などを求める訴訟を提起しました。平成22年3月31日、京都地方裁判所は、この訴えに対し。使用者責任を認め、京進に9900万円の支払いを命じる判決を下しました。


-事例150(事件研究34:奈良自宅放火母子3人殺人事件)-
「奈良自宅放火母子3人殺人事件」とは、平成18年6月20日の朝の5時ころ、奈良県田原本町で、長男の少年(16歳)が自宅に放火して自宅を全焼させ、継母と異母弟妹を焼死させた事件です。
少年は、父の吉川元祥(医師、47歳)と、父の再婚相手である少年にとっての継母(高齢者保健施設施設長の医師、38歳)、父親と継母との間に生まれた異母弟(7歳)、妹(5歳)の一家5人で生活していた自宅に放火し、継母と異母弟妹が焼死しました。
父親は三重県伊賀市の病院に当直勤務中で、自宅に不在でした。遺体が発見されたあと、この家の長男の少年の姿が見えなくなっていることが判明しました。電話連絡も通じず、行方がわからなくなっていました。火災の報道を見て、少年友人が携帯電話に「大丈夫?」とメールをしていますが返信はなかったといいます。少年は、事件前日の同年6月19日、剣道の部活動後、近鉄高の原駅で友人と別れ、21時前まで大和郡山市内の英会話教室で学んでいました。火災現場となった自宅に、少年が通学に使う自転車が置かれていたことなどから、少年は、帰宅したものとみられました。また玄関は鍵がかかっており、勝手口も施錠されていました。
同年6月22日8時過ぎ、京都市左京区の路上で、自転車に乗っていた少年が、京都府警下鴨署員に職務質問され、放火を認めたので逮捕されました。
放火して3人を殺害していることを重視した検察官は、本件は家庭裁判所から検察庁への逆送致による刑事処分相当との見解を示し、少年と捜査資料を家庭裁判所に送致しました。
平成元年、泌尿器科の病院勤務医の父親と、大阪の開業医の娘だった母親がお見合い結婚しました。平成2年に少年が誕生し、平成5年、少年が3歳のとき妹が生まれています。
一家4人は奈良市内のマンションで暮らしていましたが、少年の父親は、日常的に、妻(少年の実母)に対して身体的暴力、精神的な暴力(DV)、少年に対して身体的虐待、精神的な虐待をおこなっていました。
少年の実母は、夫(少年の父)からの暴力に心身ともに耐えられなくなり、少年の実妹(3歳)を連れて別居し、平成9年、少年が小学校1年のとき、離婚調停において、離婚が成立しました。少年の親権と養育権は父、少年の実妹の親権と養育権は少年の実母がえました。
実父母の離婚後は、実父の考えにより、少年は実母と実妹とは交流も連絡も遮断され、一度も会うことを許されていませんでした。
父親は、少年の実母と離婚後、同じ職場で働いていた医師と再婚しました。
離婚前の不倫の末の結婚といわれています。
家族で旅行や遊びにでかけるとき、父親は、長男を祖父母宅に預け、後妻と異母兄弟2人ででかけていました。
父親は、父のように医師になることが唯一絶対の正しい価値や生き方であるという考えにもとづき、少年が幼児期のころから医師になることを強要しました。
一方で、父親は私立の医科大卒であり、そのことにコンプレックスを持っていました。
1歳の少年に幼児教室に通わせ、少年が幼稚園に入ると、学習塾、スイミング、サッカーなどの教室に通わせ、夜は、父親が足し算や引き算、ひらがななどを教えていました。
父親は勉強部屋を「ICU(集中治療室)」と呼んでいた書斎で、小学校のときから夜遅くまでつきっきりで勉強を教え、週1-2回の頻度で、少年に暴力を働いていました。
少年が使っていたテレビゲーム機をとりあげ、破壊したこともありました。友人らの家に遊びにきているときにさえ、少年に命じて勉強をさせたりすることすることもあったといいます。
少年の学校の試験の成績が、父親の要求値より低いときには、いつも以上に激しい暴力により虐待されていました。
少年は、「自宅には自分の居場所はなく、息抜きの場所が学校であった。」、「少年が持っていたマンガ本は、友人にあげていた。」と供述しています。
そうした思いをしていても、少年は小学校の卒業文集の中で、「お父さんはなにも言わないけれど、」と前置きしたうえで、「父親の手術中の写真にあこがれて医者になりたいと思っている。」と書き、必死に父親の期待に応えようとしています。
明るく活発だった少年は、中学、高校に進むにつれておとなしくなっていきます。少年はサッカーが好きで、中学校ではサッカー部に入りましたが、父親は辞めさせ、自分が学生時代にやっていた剣道部に入部させました。庭で、父親が腕組みをしている横で、少年が「面!」「胴!」の声とともに竹刀をふっているのを、近所の人が目撃しています。
少年は、進学した高校でも剣道部に所属し、2段を取得しています。
中学のとき、少年は「成績が下がると父親はすぐ殴ってくる。」と友人に洩らしています。
中学1年の3学期の期末テストで、少年は、すべての科目で平均点を下回りました。医学部に進学させることを決めていた父親は、理系に進むための理科・数学・英語を重視していたことから、少年は成績表のその3教科の点数をコピー機で改ざんしました。
この改ざんは、担任教師から自宅に電話が入り発覚することになりました。
その夜、父親は「なんでこんなに成績が悪いんや!」と怒り狂い、少年をめちゃくちゃに殴りました。
中学2年の3学期には、理科のテストで「公式が思いだせないから」とカンニングをし、すぐに教員にバレることになります。その日の夕方、父親は勤務先からテストの結果を聞くために、自宅に電話をかけてきました。少年は、正直に話し謝りましたが、夜に少年は書斎に呼ばれ、父親に顔や頭を殴られました。
少年は、関西でも有数の進学校で、県内の私立東大寺学園に進学します。
仏教系の高校で、毎年、東大や京大合格者を多数輩出しています。その東大寺学園での“半ば”という少年の成績であれば、どこの大学でも狙える位置にありました。
しかし、父親は成績が伸びないこと苛立ち、さらに、厳しく勉強を強いるようになります。
少年自身も「このままでは父の希望にかなう志望校には入れないと感じるようになった。」と供述しています。
塾や英会話学校がない日、少年は19時半から24時ころまで、自室ではなく、父親の書斎(ICU)で勉強をさせられました。
目の前には父親が黙って座っていて、問題を解くのが遅かったり、間違えたりすると、父親はこぶしで殴ったり、髪の毛を引っ張ったり、殴り倒してから足蹴りしたりするといった暴行を加えました。シャープペンシルを頭に突き刺したこともありました。
少年の前歯2本は差し歯で、父親に殴られて折れたものでした。
それだけでなく、テレビゲームをしていたことを見つかって以降、少年は2階の自室ではなく、1階にある父の隣屋で寝るように命じられ、ひとときも自由の時間を許されなくなっていきました。
父親は多忙であり、常に少年につくことはできないことから、継母に学校の成績などを報告させていました。
継母は、知人や近所の人に「長男が最近テレビゲームばかりして、勉強しないので困っている。」、「憧れの進学校に行けたのに、なかなかうえにいけない。」と洩らしていたということです。
平成18年6月5日、5月におこなわれた2年進級後最初の中間テストの英語の答案が返ってきました。少年は、平均点より20点も下回っていたことにショックを受けます。テストの点数を正直に話したら父親に殴られるし、父親には「今度嘘をついたら殺すぞ」ともいわれていました。
そして少年は、父親を殺害して家をでようと考えました。
少年は「ゼロからやり直したかった。」と供述しています。
少年は、高校進学の前後には、父親に対する殺意を芽生えさせていましたが、具体的に考えたのはこのときがはじめてでした。
同月7日、少年は英語のテストについて、父親に「平均点より7点とかった」と嘘をつきました。しかし、同月20日には保護者会が予定されていたことから、そのときには嘘はバレることになります。
追い詰められた少年は、もう父親を殺す以外にないと考えるようになります。
最初、少年は包丁で殺害することを考えましたが、武道の実力者でもある父親をこれだけで殺害できるとは思えず、逆にとり押さえられる怖れがありました。そして、バットやゴルフクラブで殺すという考えに変わりましたが、その案も同じ可能性が考えられ、しかも、新たに買うにしても高価でした。
結局、少年が凶器に選んだのは、素振り用で錘入りの竹刀でした。
同年6月9日夜、少年は錘入りの竹刀を1階の自分の部屋に持ち込み、父親の寝こみを襲うため、携帯電話のアラームをセットしておいきました。3時過ぎに目覚めた少年は、隣室の父親の様子を窺うと、父親はいびきをかいて寝ていましたが、殺すことが怖くなりました。それでも少年が父親の部屋に入ろうとすると、父親は目を覚まし、「なにしてんねや」と訊いてきました。少年は適当にごまかして部屋をでて、その日の殺害を断念しました。
父殺害計画が失敗に終わった少年は、「この家にはイヤな思い出しかないし、家を燃やせばイヤな思い出も灰になる」と自宅を放火するとの考えに至ります。
少年は、灯油を探しましたが見当たらなかったので、仕方なく父親の寝室を中心にサラダ油を撒こうと考え、保護者会の2日前の18日(日)に実行することにしました。同月18日夜、家族でサッカーワールドカップの日本対クロアチア戦をテレビ観戦したあと就寝した少年は、未明のアラーム音に気づかずに寝入ってしまい、父親殺害計画はまたしても失敗に終わることになります。
保護者会のある同月20日まで、タイムリミットは迫っていました。
同月19日22時、英会話学校から帰宅した少年は、継母に「(父親が)同僚の送別会で今晩は帰らない」と知らされます。
少年は、保護者会までには父親を殺すことができなくなったことを悟りました。
しかし、父親がいなくても家に火をつけようと考え、同月20日4時15分、少年は目覚めました。アラームは2時40分にセットしていましたが、1時間以上過ぎていることに気づき、少年は焦りました。急いで貯金箱から金をとりだし、連絡がとれないように携帯電話を破壊するなど、逃走後のための身支度をしました。台所に入り、サラダ油2本があるのを確認した少年は、それを撒いていき、ガスコンロでタオルに火をつけ、それを台所脇の階段に置きました。さらに、側にあった封筒や布の袋も火の中に投げ入れました。
そして、少年は火が燃え広がるのを確認しないまま、家をでました。
少年は放火を計画したとき、2階で寝ている3人が逃げ遅れては大変だと考え、脱出ルートの確認をしています。
少年は、継母たちの寝室の窓の下には倉庫の屋根があり、ここに跳び移って逃げるだろうと高を括っていたのでした。
自宅を離れた少年は近い田原本駅ではなく、近鉄線橿原線の大和八木駅まで歩いて行きました。自転車を使えば、すぐ駅に行ったことがバレてしまうからでした。6時30分ころに駅にたどり着いた少年は、よく眠っていなかったためタクシー乗り場のベンチに横になりました。2時間ほどして、同駅から京都行きの電車に乗り、しばらくその周辺をうろついたり、休んだりしていました。そして、「なんとなく北を目指そうと思った」と述べています。さらに、地下鉄で烏丸御池駅を向かうが寝過ごしてしまい、駅員に起こされたときには、国際会館駅を折り返して奈良駅に戻ってきていました。再び烏丸御池に戻ってきたときには、夕方になっていました。
少年は、同月20日と翌21日は公園で野宿しています。滑り台で寝ているのを、近所の人に目撃されていました。
同月22日0時こと、修学院駅近くの公園で寝ていた少年はあまりの寒さにおきました。近くに停まっていた軽自動車に乗りこみましたが、それでも寒く、お腹がすいたのと、楽しみにしていたW杯日本対ブラジル戦(少年の勘違いでおこなわれたのは同月23日でした)を観たいと思い、少年は目の前にある民家に入ろうと考えました。
22日0時頃、所持していたペーパーナイフで電話線を切断し、網戸を切り、民家に侵入し、冷蔵庫の中のジュースなどを飲み、ソファに寝転がってサッカー中継を観ようとしましたが、疲れのためかすぐに眠ってしまいました。
翌朝、家の人に「誰?」と声をかけられ、あわてて玄関から逃げだしました。そのあとずっと逃げ続けていましたが、大事になってないか気になり、侵入した家の方に戻りました。
そこで、警官に声をかけられ、連れて行かれた下鴨警察署で保護され、母親や弟妹が死亡したことを知らされると、涙ながらに放火したことを話しはじめたのでした。
少年は、父親との関係については、「父の期待に応えて医師になろうとする気持ちも、父から医師になることを強要され、学校の試験の成績が父の要求よりも低かったときに、身体的または精神的な虐待を受けることに苦痛や恐怖や屈辱を感じる気持ちも、どちらの感情もあったが、成長するにつれて苦痛や恐怖や屈辱を感じる気持ちが大きくなり、ついには、父が仕事で不在であることは分かっていて、継母と異母弟妹を殺害する明確な意思はなかったが、この苦痛や恐怖や屈辱にはもう耐えられない、自分の生活環境をすべて破壊してこの状況から脱出したいという感情により、自宅に放火した。」と供述しています。
平成18年10月13日、少年の精神鑑定の鑑定書が奈良家庭裁判所に提出しました。同年10月26日、奈良家庭裁判所石田裕一裁判長は、鑑定書に記載された「先天性の発達障害と異なる虐待による後天性の広汎性発達障害と診断された」、「幼児期からの父親の暴力により持続的抑うつ状態だった。」、「少年の生育環境や生活状況から、この事件の根本的原因は少年の父の考え方や言動が少年を精神的に追い詰めて、その状況に精神的に耐えられなくなった少年がその状況から脱出しようとして放火したもの。」と認定し、「殺意はあったが、程度は低い。父親の暴力を受けた成育環境が非行に走らせた要因の一つで、広汎性発達障害の影響が強く現れている。保護処分によって、矯正、改善の見込みがある。」として、少年の更生には刑事処分よりも保護処分が適切と判断し、少年を中等少年院に送致する処分を決定しました。
そして、収容期間について「相当長期の処遇が必要である」とする意見をつけています。


-事例151(事件研究35:秋葉原無差別殺傷事件)-
「秋葉原無差別殺傷事件」は、平成20年6月8日(日)、東京都千代田区外神田(秋葉原)で、7人が死亡し、10人が重軽傷を負った通り魔事件です。
平成20年6月8日12時30分過ぎ、東京都千代田区外神田四丁目の神田明神通りと中央通りが交わる交差点で、元自動車工場派遣社員の加藤智大(25歳)の運転する2トントラックが西側の神田明神下交差点方面から東に向かい、中央通りとの交差点に設置されていた赤信号を無視して突入、青信号を横断中の歩行者5人を跳ね飛ばしました。
トラックが、交差点を過ぎて対向車線で信号待ちをしていたタクシーと接触して停車すると、加藤は車を降り、道路に倒れこむ被害者の救護にかけつけた通行人や警察官ら17人を、奇声をあげながら所持していた両刃のサバイバルナイフ(ダガーナイフ)で立て続けに殺傷したのです。
事件発生後まもなくして近くの万世橋警察署秋葉原交番から駆けつけた警察官が加藤を、殺傷現場から逃走した加藤を追跡し、警棒で応戦し、拳銃の銃口を加藤に対して向け、「ダガーを捨てるように」「応じなければ拳銃を発砲する」と警告します。ナイフを捨てた加藤を、非番でたまたま居合わせた蔵前警察署の警察官とともに取り押さえ、身柄を拘束しました。
犯行から現行犯逮捕されるまで、5-10分ほどのできごとでした。
トラックではねられた5人のうち74歳無職男性、19歳男子学生、19歳男子学生の3人が亡くなり、ナイフで刺された12人のうち21歳女子学生、47歳無職男性、33歳調理人男性、31歳男性会社員の4人が亡くなりました。通り魔事件としては、過去30年で最悪の事件とみられ、無差別殺傷事件としては、平成13年6月8日の付属池田小児童殺傷事件*-58に次ぐ惨劇となりました。
*-58「付属池田小児童殺傷事件」については、「Ⅱ-14-(9)性的サディズムと人格障害などが結びついた誘拐監禁・殺害事件」で詳しく述べています。
加藤は、昭和57年9月、青森県五所川原市で生まれ、平成10年4月、母親が卒業し母親が進学を希望していた県内一の進学校の青森県立青森高等学校に入学しました。加藤智大には、事件後に自殺した弟がいます。
加藤の母親は、兄弟に対し「青森での冬の寒い日に、薄着で外に立たせている」、「友人の家に遊びに行くことも、友人を家に呼ぶことも禁止した」、「作文や絵画は親の検閲をした(教師ウケするように、母親が指示し強要した)」、「見ることを許したテレビ番組は「ドラえもん」「まんが日本昔ばなし」だけであった」、「男女交際を禁止した」ということです。
そして、母親は、兄弟に対しに完璧なものを求めました。
それを如実に表すものが、母親の兄弟に対する作文指導でおこなわれていた「10秒ルール」です。
兄弟が作文を書いていると、母親が横で文面を検閲し、「この熟語を使った意図は?」と質問を浴びせ、即答できずにいると、母親が「10、9、8、7、…」と声にだしカウントダウンをはじめ、0になるとビンタを浴びせたのです。
母親の問いかけにおける正解は、母親の好みの解答を応えることでした。
そして、母親の求めていたのが「教師ウケ」だったのです。
加藤が中学1年生のときのエピソードを、「食事の途中で母が突然アレに激高し、廊下に新聞を敷きはじめ、その上にご飯や味噌汁などのその日の食事を全部ばらまいて、「そこで食べなさい!」とはい放ったんです。アレは泣きながら新聞紙のうえに積まれた食事を食べていました。父も黙っているばかりで助け船もださず、弟も横目で見ながら食べ続けていた…。」と述べています。
加藤の母親は「教育熱心で有名だった」とされていますが、教育熱心ということではなく、子どもを思い通りにいうことをきかせるためにいき過ぎた教育(教育的虐待)、精神的虐待、体罰という名の下での身体的虐待をおこなってきたのです。子どもを「スパルタで育てた」「厳しく育てた」「過剰に干渉した」という表現は、子どもに対しての親の支配、つまり、虐待行為でしかないわけです。
加藤は、母親に対して「わたしは食べるのが遅かったが、母親に新聞のチラシを床に敷き、そのうえに食べ物をひっくり返され、食べろといわれた。小学校中学年くらいのとき、何度も。屈辱的だった。」、「無理やり勉強させられていた。小学校低学年から「北海道大学工学部に行くように」といわれた。そのため青森高に行くのがあたり前という感じだったが、車関係の仕事をしたいと思っていた。現場に近い勉強がしたい、ペンより工具を持ちたいと。母親に話したことはない。」と被告人質問で述べています。
また、加藤が高校卒業後に短大に進学したとき、「父親の口座にふり込まれた奨学金を父親が使ったので、整備士の資格を取るつもりだったが、アピールとして取ることをやめた。」と供述していますが、父親にも問題があったことが伺えます。
こうした暴力で支配された家庭環境で育った加藤は、小中学校では成績優秀、スポーツ万能でした。しかし、母親やの期待に応え進学した優秀な生徒が集まる県立青森高校では、加藤は埋没し、成績が低迷していきます。
母親の欲望を満たす(母親の期待に応える)だけに頑張り続けてきた加藤は、母親に暴力をふるったり、部屋の壁に穴を空けたり、教室の窓ガラスを素手で割ったりするようになります。
母親に対しての暴力について、加藤は「中学時代に母親を殴ったことがある。食事中に母親が怒りはじめた。ほおをつねったり、髪をつかんで頭を揺さぶられたりした。無視すると、ほうきで殴られ、反射的に手がでた。右手のグーで力いっぱい左のほおのあたりを殴った。汚いことばで罵られた。哀しかった。」と述べています。
高校時に、母親の期待に応えることができなくなり、抑圧されてきた“わたし”という感情、葛藤、憤りなど、思春期後期から青年期の稼働の心はバランスが崩れ、家庭内暴力と発展させていきました。
短大に進学したことについて、加藤は「大学進学をやめ、自動車関係の短大に行くことにした。母親にはあきらめられていたと思う。挫折とは思っていない。勉強をしていないからついていけないのはあたり前。短大には失礼だが、無駄な2年。」と被告人質問で述べています。
加藤が3年進級する時点で、「短期大学への進学を希望していた」ことについて、片田珠美氏は「無差別殺人の精神分析」で、「成績がよくなかったとはいえ、県下一の進学校に在籍していた加藤にとって、より好みさえしなければ大学に進学することも可能だっただろう。短大を選んだのは、子どもを学歴社会の勝者にするべく必死にやってきた母に対する反発のようなものがあったからではないか。それを裏づけるように、加藤が高校を卒業する際に生徒会誌に残したのは、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に登場する少女(綾波レイ)が、理不尽な戦いを強いる司令官に告げた決別のセリフ、「ワタシはアナタの人形じゃない。赤い瞳の少女(三人目)」である。」と記しています。
短大卒業後の平成15年7月、加藤は、仙台市の警備会社に就職し、警備事業部に配属されました。
雇用形態は準社員で、月収は残業を含めて多いときで25-26万円でした。工事現場の警備員の仕事は最初だけで、平成16年1月、内勤に移動になり、月収は固定給で17万6000円(手取り)となった。同年4月、母親から資金提供を受け、自動車運転免許を取得し、30万円の自動車を購入します。このとき、自動車を改装する費用を、消費者金融から借りています。
平成17年2月、仕事の提案をしても所長に却下も採用もされず、所長への不満に対する抗議の表明として無断欠勤し、警備会社を退職しています。
平成17年4月、一般労働者派遣事業(登録型派遣)会社と契約し、埼玉県上尾市の自動車メーカーの工場に派遣されます。住居は派遣会社が提供する独身寮で、月収は残業や休日出勤を含めて、多い月で27万円でした。
休日は1人でゲームをしたり、秋葉原に行ったりしています。また、同年、70万円の自動車を借金して購入しています。
秋葉原について、加藤は「地理的に近かった。ゲームが好きで、自分はオタク的要素を持っているので、オタクの聖地の秋葉原に興味がわいた。」と被告人質問で述べています。当時、「電車男」の映画がはやり、オタクが市民権を得るようになっていました。職場では、仕事以外で交友する友人はできず、加藤は、ネット上の掲示板への投稿に深入りするようになっていきます。きっかけは、ゲームの情報を得ようとして携帯電話で掲示板を見つけたことでした。ネット上の友人ができ、仕事以外の時間はすべて掲示板にあてるようになり、たわいもない雑談をしていました。
掲示板への投稿について、加藤は「掲示板は高校のクラスのイメージで、話題は何でもあり。雑談とかネタ、オタクのような話とか。スレッドを次々とつくり、みんなを面白がらせようとした。」、「書き込まれている文字の内容をそっくりそのまま考えていると取られると困る。ネタはひとことでいうと冗談。うけると返信があり、とてもうれしかった。1人じゃないと感じた。掲示板はわたしにとっての居場所。家族同然。現実でも親しい人がいるが、掲示板上のほうがより親しく、重要に感じていた。」と被告人質問で述べ、掲示板との関係について、「依存とひとことで片づけられるものではなく、すべての空白を掲示板で埋めてしまうような使い方をしていた。」と供述しています。
平成18年4月、部品の整理の仕方を正社員に提案したときに「派遣は黙ってろ」と一喝されたことへの抗議の表明として無断欠勤し、派遣会社を退職しました。同年5月、一般労働者派遣事業(登録型派遣)会社と契約し、茨城県つくば市の住宅部品メーカーの工場に派遣されます。住居は派遣会社が提供する独身寮でした。人つき合いはほとんどなく、3ヶ月ほど経ったとき、自殺を考えはじめ、平成18年8月、無断欠勤するようになり、派遣会社を退職しました。
このとき、加藤は、青森や仙台時代の友人宛に「自殺するつもりである」と携帯電話のメールで送信し、青森の母宛に電話しています。メールを受信した友人たちは「考え直すように」と説得するメールを返信しています。
そして、加藤は、3年ぶりに両親宅に帰宅し、母親と面会しました。
母親は、加藤に対し子ども時代の教育姿勢を謝罪しました。
同年9月、母親は「次に仕事が決まるまでしばらく自宅で休養するように」と勧め、父親は「このまま自宅にいていい」と話をします。この期間、加藤は、高校時代の友人たちとたびたび飲食し、歓談しています。その後、加藤は、母親から資金提供を受け、大型自動車運転免許を取得しました。
自殺企図について、加藤は「孤独感が強かった時期だった。わたしが厳しい意見をいったのがきっかけで掲示板上での友人関係がまずくなり、人がいなくなった。掲示板は帰る場所。かなりのめり込んでいた。」、「自殺を思いついた。車で対向車線のトラックに正面衝突しようと。平成18年8月31日、青森県弘前市のバイパスで、と決めた。到着し、路肩の縁石にぶつけて走行不能になった。母親は「よく帰ってきたね」「ごめんね」。幼少のころわたしにしたことを謝られてハグされた。」、「実家では母親と会話する努力をはじめた。父親は仙台に単身赴任していて、週末には青森に帰ってきていた。大学に行かなかったこと、資格を取らなかったことなどもろもろの意味で、父親に「バカでごめんね」といった。話のできる普通の家族にしたいと思った。単身赴任から帰った父親に「離婚する」と告げられた。もう一度家族のやり直しをしようというところで、悲しかった。」と被告人質問で述べています。
平成19年1月、青森の運送会社に大型輸送車の運転士として就職し、同年3月、雇用形態が正社員に変更されます。職場内で、仕事以外で交友する友人でき、また、高校時代の友人たちとの交友関係も続いていました。同年7月、自宅を出て青森市内にアパートを借りて一人暮らしをはじめます。
同年9月、ネットの掲示板の投稿者と面会する旅行2週間のための休暇を会社に対して申請しますが、会社から却下されたことに対する抗議の表明として無断欠勤し、運送会社を退職し、青森を去ります。
同年9-10月、掲示板の投稿者と面会するための旅行と面会を繰り返したあと、同年10月、掲示板の投稿者宛に「自殺するつもりである」とメールを送信し、メールを受信した人たちに「考え直すように」と説得されます。
また、駐車場に無断駐車し自動車内で寝泊まりしているところを、警察官に職務質問され「自殺するつもり」と応え、警察官に「考え直すように」と説得されます。
母親との関係について加藤が被告人質問で述べている「わたしは、なにか伝えたいときに、ことばで伝えるのではなく、行動で示して周りにわかってもらおうとする。母親からの育てられ方が影響していたと思う。」とのことばの中に、ここまで、加藤が、職場内での不満に対する抗議の表明として無断欠勤し退職するという行為を3回繰り返す行動パターンについての解を読みとることができます。
母親の指示命令に従順に応えることだけを求められてきた加藤は、自分の気持ちをことばで表現することを身につけられなかったのです。
同年11月、一般労働者派遣事業(登録型派遣)会社である日研総業と契約し、関東自動車工業の静岡県裾野市に所在する工場に派遣されます。住居は派遣会社が提供する独身寮でした。日勤と夜勤の交代制で、月収は残業や休日出勤が多い月は手取りで20万円(寮費を引いた金額)、残業や休日出勤がない月は手取りで14万円でした。リーマンショックに端を発した世界同時不況で自動車業界は減産を余儀なくされ、平成20年5月29日、加藤は、一旦6月末での契約解除の通知を受けることになります。
派遣社員での「契約解除」は、職と同時に住む場所も失うことになります。
このときの思いを、加藤は、携帯サイトの掲示板に「あ、住所不定無職になったのか ますます絶望的だ」と綴っています。
加藤は、心のよりどころとしていた携帯サイトの電子掲示板で千回を超える書き込みをおこなっていました。そこでは「不細工スレの主」という独自キャラを確立していましたが、同年5-6月、成りすましによる偽物が現れ、掲示板を荒らされますが、掲示板荒らしが去ると、孤立感を深めていくことになります。
加藤は「掲示板の成りすましによる偽物に間接的に攻撃するために大事件を起こす」ことを決意し、「近年大きく報道されていた大事件として記憶していたのが無差別殺傷事件」として、次第に殺人を予告する書き込みをおこなうようになっていったのです。
加藤は「大事件は大都市、大都市は東京、東京でよく知っているのは秋葉原」と、襲撃場所は秋葉原に決め、「日曜日なのは秋葉原の歩行者天国が思い浮かんだから」と、日曜日に秋葉原の歩行者天国に襲撃することが決めていったのです。
そして、同年6月8日5時21分、「秋葉原で人を殺します」とのタイトルで、「車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います みんなさようなら」との犯行予告をおこないます。
その後、沼津市から犯行現場まで移動する間に、約30回のメッセージを書き込み、同日12時10分に犯行現場で最後の投稿をし、その20分後の12時30分に事件が発生したのです。
加藤は、「トラックで人を跳ね飛ばすのは、平成17年4月に発生した仙台アーケード街トラック暴走事件を参考にし、ナイフで人を襲うのは、平成20年3月に発生した土浦連続殺傷事件を参考にした。」と供述しています。
3ヶ月にわたる精神鑑定の結果、「完全な責任能力あり」との鑑定結果がだされたことから、東京地方検察庁は同年10月6日から被害者や遺族への通知を開始し、同年10月10日に殺人、殺人未遂、公務執行妨害、銃刀法違反での起訴に踏み切りました。同年10月31日、公判前整理手続に入ることが決定され、平成21年6月22日に第1回公判前整理手続が行なわれ、弁護側は起訴事実を大筋で認めました。
平成23年1月25日、東京地方裁判所で行なわれた第28回公判の論告求刑で、検察は加藤に対して死刑を求刑し、同年3月24日に被告人に対して求刑通り死刑判決が下りました。判決文で、「直接的な動機としては、掲示板荒らしに対する抗議の表明、根本的な原因としては不満に対して多様な観点から熟慮せず、話し合いで解決しようとせず、自分の意思を相手に分からせるために、直接的行動で相手の望まないことをしたり、相手との関係を遮断したり、暴力を行使する考え方、間接的な原因として、母の養育方法が前記のような加藤の人格形成に影響を与えた。」と認定しています。
平成24年6月、加藤の控訴により東京高等裁判所で第1回控訴審が開かれ、減刑を主張します。同年9月12日、東京高等裁判所の飯田喜信裁判長は、第一審の死刑判決を支持し、加藤の控訴を棄却しました。同年9月25日、弁護側は「加藤には精神障害の疑いがある」として最高裁判所へ上告します。同年12月18日に開かれた上告審弁論で弁護側は、加藤が利用していた携帯電話サイトの掲示板について、「被告の偽物が現れ、家族同様だった掲示板での人間関係が壊されたと思い強いストレスを受けた。事件当時は急性ストレス障害だった可能性がある。」と指摘し、「被告は事件当時、心神喪失もしくは心神耗弱だった疑いがある。完全責任能力を認めた1、2審判決は誤りだ。」として極刑回避を求めました。一方の検察側は、「完全な責任能力を認めた判決に誤りはない。」と死刑維持を求めています。
そして、平成27年2月2日、最高裁第1小法廷の桜井龍子裁判長は、被告側の上告を棄却し、加藤の死刑が確定しました。
加藤は拘置所においては、弁護士以外との面会、手紙の受け取り、マスコミの取材を拒否し、自著以外ではコメントを発することはありませんでした。唯一、弁護人を通じて発表したのが、平成26年、「黒子のバスケ脅迫事件の被告人の意見陳述についての見解」でした。 また、加藤が掲示板に「負け組は生まれながらにして負け組なのです まずそれに気付きましょう そして受け入れましょう」などと書き込んでいたこともあり、事件後加藤を負け組の英雄とし、「神」「教祖」「救世主」とまでみなす共感現象がおきます。これに対し、加藤は「本気で自分を「負け組」だと考える人のことはまったく理解できません。また、自分の努力不足を棚に上げて「勝ち組」を逆恨みするその腐った根性は不快です。」と切って捨てています。さらに、「若者が希望を持てる社会、などといわれたりしているようですが、意味不明です。なぜ、そうやって社会のせいにするのか、まったく理解できません。あくまでも、私の状況です。社会の環境ではありません。勝手に置き換えないでください。」と述べています。


-事例152(事件研究36:柏市連続通り魔殺傷事件)-
「柏市連続通り魔殺傷事件」とは、平成26年3月3日に千葉県柏市で発生した通り魔による殺人・傷害・強盗事件です。
平成26年3月3日23時34分ころ、千葉県柏市あけぼの5丁目の市道で通り魔による連続事件が起こりました。帰宅途中の少年で、「すいません、ちょっと」と男に声をかけられた少年は、「気持ち悪い」と感じて駆け足で逃げました。同36分ころ、自転車に乗っていた男性若山さん(25歳)が、男にナイフのような刃物を突きつきけられ、「なんですか? お金ですか」と訊き、左手でナイフを払いのけたときに軽傷を負いました。続いて同時刻、事件現場の近くに住む会社員の池間博也(31歳)さんが襲われ、ナイフのような刃物で刺されました。続いて、同40分ころ、近くに停車中の車に乗っていた男性D(44歳)に対して「金を出せ。もう人を殺している」と脅し、財布を奪いました。同44分ころ、車を運転していた別の男性E(47歳)が、倒れていたCを発見し、車を降りた隙に、男に車を奪われました。
事件に要した時間は約10分で、車は約1.5キロ北東の柏市内のコンビニ駐車場でエンジンがかかった状態で見つかりました。
防犯カメラの映像には、男が車外に出て徒歩で立ち去った様子が映っていました。防犯カメラの映像によると、コンビニ駐車場には同年3月4日0時ころに車で現れ、数分間とどまったあと、立ち去っていました。
車は3時ころに千葉県警が発見しました。
Cは首や背中の複数個所を刺されており、病院で死亡が確認されました。死因は止血性ショックで、抵抗した形跡はなくほぼ即死でした。
この事件が発生する3日前の同年2月28日の夜、現場から約2キロ離れた柏市東台本町で、帰宅途中の女性(26歳)がいきなり後頭部を棒のようなもので殴られ重傷を負う事件が発生していました。
事件後の同年3月4日夜、池間さんと同じマンションに住んでいた男が、報道陣に対して、「自室のドアを開けて共用の廊下から市道を見ると、犯人が馬乗りになりなんども刺していた。」と、池間さんが襲われたときの目撃談を語っていました。その中で、男は犯人の特徴も話していました。
同年3月5日7時25分ころ、柏署は殺人容疑で池間さんと同じマンションに住み、事件後に報道陣に目撃談を詳細に語っていた竹井聖寿(24歳)に、捜査員が「わからないことがあるので、警察署にきてほしい。」と任意同行を求めると、竹井はチェスでいう“詰み”にあたる「チェックメイト」と呟いたといいます。
同日17時50分ころ、柏署捜査本部は、竹井を立ち合わせて自宅を家宅捜査し、凶器とみられる刃物を押収しました。
立ち会わせられていた竹井は、連行されるときに報道陣に向かい「Y少年Hoo! チャット万歳!」と叫び声をあげ、親指を地面に向けたり、中指を立てたり挑発的なポーズをとったり、「バンザイ」と奇声をあげたりしました。同日夜、柏署は殺人容疑で竹井を逮捕しました。竹井は「金を奪おうと思った」と供述し、一連の襲撃事件すべてについて関与を認めている。
一方で竹井は、事件後の同年3月4日夜、報道陣に対し「3日午後11時半ごろ、「おいこら」という怒鳴り声が聞こえたので、玄関から外をみると、(池間さんと犯人が)もみ合っていた。」、「犯人は手に30センチほどの長さの刃物を持っており、暗闇でもギラギラ光っていた。」、「犯人は「ハハハ」と笑い声をあげたり、奇声をあげたりしながら、牛刀のようなもので倒れた男性に馬乗りになり、背中をなんども刺していた。」と状況を細かく話していました。
報道陣に池間さんについて問われると「面識はない。同じマンションの住人が刺されているなんてわからなかった。」、「(犯人は)身長約175センチで黒ずくめ。」、「犯人が笑っていた。」と応え、さらに、犯人が車を奪った状況について、「(犯人は)たまたま通りかかった車の前に立って止め、運転していた男性を引きずりだした。」と応えました。
また、竹井は「(事件を)撮影した6分くらいの動画もある。」と得意げに話し、報道陣から動画の提供を求められると、「事件の解決に一役買いたいが、警察に「外にもらすな」といわれた。」と釈明しました。
続けて、「もし、犯人が同じマンションに住んでいたら怖い。」と話し、テレビカメラに対しては「顔を写さないでね。」、「音声も変えてほしい。」と繰り返し要望しました。
竹井の話は、のちにつくり話であったことが判明しています。
特徴的なのは、アリバイ工作として虚言証言するのではなく、“誰かに話したくて仕方がない”衝動を抑えられなく饒舌に語っているということです。
逮捕後、竹井は動機についてこう話す一方で、涙を見せながら「後悔している」と供述したり、取り調べに素直に応じる一方で、突然発言が少なくなったり、話の流れとまったく関係のないことばを発するなど、得意な言動が散見されたといいます。
竹井は、平成25年10月、バイク店でトラブルを起こしていました。
竹井が訪れたバイク店で、「キャンセル料払いますんで、バイク買いたいです。」と聞かされた店長は、「いや、キャンセルするんだったら(バイク)買わないでください」と応じています。竹井はその場で購入を約束し、一度は申込書にサインをしました。しかし、その後キャンセルしたことから、店側は、竹井に対し「店への出入り禁止」を告げました。
その3ヶ月後、竹井が「バイクが欲しい」と再び店を訪れましがた、店長は「いや、ちょっとお客様、1回うちとトラブルがあったんで、出入り禁止ですよね。」、「だから、ちょっと帰ってくれないですか。』と応じると、「なんでだー!」と大声で奇声をあげていたのです。
さらに1年前の平成24年、竹井は、以前住んでいた千葉県流山市でも事件を起こしていました。流山市のアパートに住んでいた竹井は、近所の男性に親子ゲンカを注意されると、その男性に対し、包丁を突きつけ、「刺すぞ!」と怒鳴りつけていたのです。
小学校のころの竹井を知る人は、「スタンガン持ってたりとか、そのころからナイフ持ってたりとか、おかしな行動をとっていた。」と話しています。
竹井の小中学校の同級生は、「いきなり竹井が家にあがって、ちょっとしたと思ったら、スタンガン持ってきたので、「こいつスタンガン持ってる。やべぇ、逃げろ」といい、わーって、みんな逃げた。」と話しています。
さらに、竹井が少年院に入所していたときに1年ほど同室(最大7名が共同生活を送る)だったという少年が、「自分は18歳から19歳の終わりぐらいまで2年近く少年院にいましたが、自分が入った半年くらい後に、同い年だという竹井が入ってきました。ふだんはおとなしくて、どちらかといえばイジメられるタイプ。でも、キレるとなにをしでかすかわからないので、みんなから厄介者扱いされていた。」、「足を踏まれてからかわれてもおとなしくしているのに、なにかの拍子でいきなりキレると所構わず大暴れする。寮父室という学校の職員室みたいな部屋に呼び出されたときに、机の上にあったセロハンテープやら備品やらを全部弾き飛ばして怒鳴り散らしていたこともありました。食器を洗う当番のときにも、急に食器をひっくり返したりしたこともありました。そういうことが度々あったので、竹井は単独室という独房の常連だった。」、「監視の目が届きにくく不正が起こりやすいため、誰がトイレを最後に使ったかわかるようになっているんです。あるとき、竹井がトイレからでてしばらくしてから、看守たちの様子が慌ただしくなった。しばらくたってトイレの掃除をするように命じられ、トイレに向かいました。すると、トイレの壁一面に大便がべったりと塗りたくられていたんです。しかも壁の一部には、ホラー映画のように彼の手形がついていて…。“アイツはヤバイ”と、あまりのできごとに青ざめました。」、「仲間うちでは竹井のことを“レッドマン”と呼んでいた。普段は色白だけど、キレるといつも顔を真っ赤にして怒っていたから」と述べています。
竹井は1人暮らしで、職には就いておらず、普段は近くのコンビニに行く以外はあまり外出せず、周囲との交流はほとんど確認されていない「ひきこもり状態であった」ということです。
以前は、親の援助を受けて生活していましたが、事件前には援助を絶たれ、生活保護を受けていました。
動画投稿サイトに残されているプロフィールで、竹井は「私は現在、24才のセレブニートであります。悪を持って悪を制する信念と正義を持っております。」、「父親が不動産・一級建築士です。祖父の土地も豊富にある為、働かずに生きていける環境は常に整ってはいます。」、「車・バイク・武器マニアです。過去少年院2回入りました。悪を持って悪を制する信念と正義を持っております。リアル喧嘩凸上等・喧嘩・馴れ合い・相談・スカイプ凸上等なんでも自由でございます。」と記し、これは、「除悪」という名でネット上に投稿していました。
そのプロフィールで、「14歳時には、ヤフーチャットがきっかけで友人とトラブルになり、殺人未遂で少年院入りした。」、「18歳で再び少年院に入り20才で仮退院をした。」と過去の犯罪歴を告白しています。さらに、「子供のころは爆弾を作ったり、うさぎをナイフで刺してサカキバラを尊敬し、真似事で首と腹を刺した事もあります。そして母校の中学の正門前に置いて大騒ぎになったことなどもございました。学校の窓ガラスを割り、理科室から薬品を盗み出し、ニトログリセリンも過去に作ったことがございますが、これらの犯罪はすでに免責で罪を償っておりますのでご安心ください。それからハムスターを真冬で外に出し、凍死実験やバケツに水を入れてハムスターを泳がせてスタンガンをそのバケツの水に電流を流した際、一瞬にしてハムスターは死んで水に浮いていました。つまり、プールなどで大量の人の泳いでる中で電流を流せばどうなるかは大量殺人になる恐れがあるのでそれは致しませんが、スタンガンで小学生たちに通り魔などもしてさまざまな武器の威力の実験も中学生の時よくやりました。窃盗などもよくしました。私の生い立ちは学生時代はいじめられたりいじめをしたり、家族の暴力、学校の先生の体罰など理不尽な環境の中で生きていきました。家族の不仲による家庭環境の異常性と学校を3回も転校するという環境で育ち、いじめられた過去もあり、いじめた過去もある者でございます。そういった環境とDNAが私をこの地球に生んだのでしょう。」と、過去に小学生や中学生をターゲットにした通り魔的な犯行を行っていたことも書いていました。
竹井がネット上に書き込んだ文章には、「最後まで生き残った者が強者であり、死んだ者、謝罪した者は弱者となるのです。下には下がおり、上には上がいる。その狭間の繰り返しが人生であり、本当の最強の人間の強さとはなにかを研究するべく、私はこれからも人生、戦っていく覚悟でございます。」と書いていました。
また、別の動画投稿サイトでは、奇声をあげておもちゃの剣を振り回している動画などが複数投稿されていました。
竹井は、チャット(文字での会話)サイトやインターネット電話サービスなども頻繁に利用していました。
そして、事件数週間前に竹井は、ネット上の知人に対し「なにか大きいことをしてやる。」と話していたといいます。
逮捕直後に竹井は、「普段考えていること」を問われ、「まずバスジャックをして、人質を取って、そして空港に乗りつけて、ハイジャックをして、東京スカイツリーに突っ込んで、社会に報復してやる。」と供述し、強い社会への不満を露わにしています。
平成26年4月11日、千葉地方検察庁は、竹井の精神鑑定留置を千葉地方裁判所に請求し、精神鑑定がおこなわれることになりました。同年7月17日、千葉地方検察庁は、精神鑑定の結果を受けて、竹井の刑事責任能力が問えるとして、強盗殺人容疑で起訴しました。平成27年5月27日、千葉地方裁判所(小森田恵樹裁判長)で初公判が開かれ、竹井は「間違いありません。」と起訴内容を認めました。
同年6月2日の第4回公判で、竹井は開廷前に「裁判長に申しあげる」といった発言を繰り返し、意味不明な発言をしたり、突然「ハハハ」と笑いはじめたりしたため、一時、法廷から退出させられる騒ぎをおこし、開廷が約1時間遅れる事態となりました。
竹井はこの日、前回公判までのスーツ姿とは打って変わり、タンクトップ姿で入廷し、腕のタトゥーがあらわになっており、傍聴人を驚かせました。この日は、かつてインターネットで交流していた仲間などが証人として出廷する予定になっていました。
同年6月5日、千葉地方裁判所で開かれた論告求刑で検察側は、竹井に対し、「金銭目的の犯行」と指摘したうえで、「再犯の可能性も高い」として無期懲役を求刑し、一方の弁護側は、最終弁論で「犯行は統合失調症の影響によるものだ」と主張しました。公判中、竹井は度々「死刑にしてみろ!」、「でてきたらまた殺してやる!」と叫ぶことがありました。
同年6月12日、千葉地方裁判所の小森田恵樹裁判長は、「強固な殺意におとづく残虐な犯行」として、竹井に対し、求刑通り無期懲役の判決を下しました。この日、竹井は、両腕の入れ墨を誇示するかのように白いタンクトップ姿で入廷し、裁判長の判決読みあげを、両手を頭の後ろで組んだ姿勢で聞き、尾崎豊の「卒業」を歌い続けました。裁判長が注意しても聞く耳を持ちませんでした。
子森田裁判長は「強固な殺意が認められる。動機は生活費を得るためで、身勝手極まりない。厳しい処罰が求められる。」として「無期懲役」と述べた瞬間、竹井の拍手が法廷内に響きわたりました。
さらに、竹井は検察官に向かって中指を立てると、「これでまた殺人ができるぜ。悔しかったら死刑にしてみろ。」と叫び、刑務官に抑えられ退廷させられました。同年6月12日付けで、竹井は判決を不服として東京高等裁判所に控訴しました。


-事例153(事件研究37:北海道南幌町母祖母殺害事件)-
「北海道南幌町母祖母殺害事件」とは、平成26年9月30日、北海道空知管内南幌町で、祖母の佐竹須三代(71歳)さんと母親の佐竹和美(47歳)さんを、高校2年生の三女(17歳)が殺害した事件です。
平成26年10月1日1時、地元の薬局に勤める長女(23歳)が帰宅したときに、1階の寝室で母親が、2階の寝室で母方の祖母が寝間着姿のまま死亡しているのを発見し、110番しました。
駆けつけた栗山署員が、佐竹母娘の死亡を確認しました。
母親は喉仏から頸動脈まで切り裂かれ、祖母は頭と胸を中心に7ヶ所所刺され、2人とも失血性ショック死でした。
警察の事情聴取に対し、三女は「(敷地内の)離れで寝ていて気づかなかった」と応えていましたが、その後、「私がやった」と犯行を認めたことから、殺人で緊急逮捕しました。
凶器は台所の包丁で、軍手や衣類とともに、自宅から5km離れた公園内の小川で発見されました。
室内を荒らされたようにみせかけるなど、証拠隠滅には長女もかかわっていました。
逮捕された三女は、「しつケガ厳しく、いまの状況から逃れたかった。」と供述しています。
平成16年2月、幼稚園児だった三女が、家庭内で虐待を受けているとの通報があり、児童福祉司が身体的虐待の痕があることを確認し、岩見沢児童相談所は、児童福祉法にもとづく指導措置を決定し、同年11月まで、自宅の訪問や面談を重ね、「虐待が再発する心配はない」と判断し措置を解除しています。
その後、虐待の通報はされていませんが、三女を取り巻く環境は、地獄そのもので、祖母からの仕打ちは想像を絶するほど厳しかったということです。
20年前の平成7年、札幌市に住んでいた両親が、長女と次女を連れて、この地に引っ越してきました。
その3年後の平成10年、三女は生まれています。
父親は水道工事関係の仕事をし、家族5人で、庭でバーベキューをするなど仲のよい家族だったということです。
しかし、三女がうまれた2年後、夫を亡くした祖母がこの家で同居をはじめると、生活は一変することになりました。
祖母は、夫の遺産や生命保険に加え、株投資で大儲けした成金でした。同居をはじめたこの一戸建ては、祖母のお金で建てたものでした。
祖母は「あたしの家に住むのなら、あたしのいうこときくのがあたり前だろ!」と、家での実権を握り、家族を支配していきました。しかも、祖母は大の子ども嫌いで、幼い三女が泣いたりすると、娘夫婦を「一体どういうしつけをしてるんだ!」と怒鳴り散らしたということです。
一方で、祖母は、自分が連れてきた柴犬だけはかわいがり、「この家の子どもは犬以下だよ!」と口にしていたということです。
三女の父親は、そんな横柄な物いいをする義母に意見することもありましたが、「文句があるなら、この家からでていけ! 二度と帰ってくるな!!」と怒鳴られるだけだったといいます。
そして、祖母の同居から2年後、三女の父親は母と離婚し、札幌の実家に帰っていくことになりました。このとき、次女は「こんな家じゃ暮らせない」といい、父親といっしょに家をでていきましたが、長女と三女は、母親の元に残ることになりました。
父親と次女が家をでたあと、祖母は、「誰のおかげで飯が食えてるんだ!」と、家のことをすべて三女に押しつけていきます。
小学校のときから家中の掃除やゴミだしだけでなく、冬になると積雪が1mを超える極寒の中、三女は、早朝5時から1人で雪かきをさせられていました。家の前の雪をすべてきれいにしないと、祖母は杖で、三女を叩き、怒鳴り散らしていました。
祖母は、家の仕事を優先させ、三女には友だちと遊ぶことさえいっさい許しませんでした。
夕方5時までに必ず帰宅させ、毎日、庭の草むしりや植木の手入れをさせ、洗濯や犬の散歩も強いていました。
近隣住人は「ちょっとでも遅れると、おばあさんは怒鳴って叩きますからね。一度、遅刻した罰で叩かれて骨折して、入院したこともありますよ。こういう暴力は、(三女)ちゃんが高校に入ったあともずっと続いていて、最近も、5時直前に慌てて帰宅するのを何度も見ています。」と述べています。
平成25年4月、三女は高校に進学し、当初テニス部に入部していますが、「家の手伝いをしなければならない」との理由で退部することになりました。
三女は、高校1年生の秋ごろから生徒会活動に熱心にとり組むようになり、事件1ヶ月後の平成16年10月には、生徒会長に就任する予定でした。
近所の人が、祖母に対して「(三女に対して)ちょっと厳しすぎるのでは?」というと、「うちの躾です! いっさい構わないで!」と声を荒げるだけだったということです。その祖母は、ほとんどが農家という中で、高級ブランド物の洋服姿で闊歩する祖母は、周囲からも浮いていたといいます。
近隣の住人は、祖母について、「常に化粧しては髪の毛も一本乱れていない人でした。それに、自分がいかに金持ちかを吹聴するような女性で、誰に対しても上から目線で接するので、避ける人も多かった。」と述べています。
リュックを背負って通学していた三女は、ある日から風呂敷に勉強道具を入れて首から巻いていたことがありますが、それは、祖母が「リュックは、私が買ったものだから絶対に使うな!」と命じたからでした。
実権を握っている祖母に対し、三女の母親は口をだすことはできず、母親の三女になにも買ってあげることはできず、三女はいつも制服かジャージー姿でした。
三女が暮らしていたのは自宅の“離れ”とされていますが、近隣住民は「(三女)ちゃんが暮らしていたのは、物置小屋です。4畳ほどのところに家の荷物が置かれて、わずかなスペースに机だけが置いてあるんですから。彼女は出入りも玄関からではなくて、車庫の裏にある潜り戸を通って裏庭にでて、そこから物置部屋に入っていました。」と述べています。
その物置小屋は、暖房設備のないログハウスで、三女は、高校入学以降、ここで生活することを強いられていました。
祖母から三女への虐待は、怒鳴りつけたり、罵ったり、殴ったり、蹴ったり、杖や竹刀で叩いたりするだけではありませんでした。
火のついたタバコを腕に押しつけ、トイレを使わせず、風呂は夏でも週1回だけで、真冬に庭に立たせて水をかけ、裸で屋外に放りだされ、頭から水をかけられては笑われたり、暖房設備のないログハウスで生活を強いられたりするなど、三女の少年審判に提出された札幌家庭裁判所の調査官による報告書には「壮絶な虐待」と記載されるほど過酷なものでした。
三女の母親(祖母の娘)は、祖母に「お前の教育が悪いから、この孫娘はこんなにグズなんだよ!」と怒鳴り散らし、娘(三女の母親)を容赦なく杖で叩いていました。
母親は精神的に不安定になり、ノイローゼになっていきました。
そして、母親は「あんたのせいでアタシが怒られるんだよ!」と、ことあるごとに三女をなじり、暴力をふるうようになっていきます。
事件後、同居していた姉は、事件後「あの娘が苦しんでいるのを知っていながら、なぜ私が支えになってあげられなかったのか」、「事件を防げなかったのは私の責任です」と話し、泣き続けていたということです。
平成26年11月、三女の同級生や保護者らは、「社会復帰の機会が損なわれないよう、公開で裁判をおこなわないこと」を求める嘆願書と計約1万9000人分の署名を地方検察庁と家裁に提出していましたが、同年12月25日、札幌地方検察庁は鑑定留置の結果、三女の刑事責任能力に問題はないと判断し、札幌家庭裁判所に送致しました。
平成27年2月21日、札幌仮定裁判所は、医療少年院送致とする保護処分を決定しました。
栗原壮太裁判長は、「生徒には事件当時、完全に責任能力があった。」と認定し、「原則として逆送すべき事案。結果は極めて重大で、計画性も認められる」と前置きしたうえで、「祖母と母から虐待を受けていた事実があり、非行(殺害)に至る経緯や動機に影響している」と認定。検察官送致(逆送)をして刑事責任を問うよりも、治療や矯正教育で社会適応をはかることが必要と判断した。」と述べています。

以上、暴力のある家庭環境、つまり、親による虐待(身体的虐待、精神的虐待、性的虐待、いき過ぎた教育(教育的虐待))、そして、過干渉・過保護という支配のための暴力で育たざるとえなかった子どもたちがひきおこした凄惨な殺害事件をみてきました。
「Ⅱ.児童虐待・面前DV。暴力のある家庭で暮らす、育つということ」の中で繰り返し述べてきていますが、親の子どもへの暴力・虐待(抑圧)が、子どもの情緒や行動、対人関係に及ぼす影響を見ていきたいと思います。
情緒面への影響は、過敏さ、感情コントロールの悪さ(感情の抑え込みと感情の爆発)、慢性的な欲求不満、自己イメージの悪さがあげられます。虐待を受けたことにより、心は常に不安定です。
乳児期では、おなかが空いたら欲求不満で泣き、親に気づかせ、欲求を満たそうとします。
オムツが濡れた不快感を訴えたり、抱っこをしてほしいと泣いたりします。
一方の親は、乳児が泣いている意味を知るために繰り返し欲求を満たします。
しかし、乳児が泣いても親が放っておいたり、虐待をしたりすることにとって、乳児は欲求を満たすことができません。
また、虐待により、常に神経を張りつめて生活しなければならず、家には安心できる場所ではありません。
子どもは、暴力のある環境では、自分の感情をだす(気持ちをあらわす)ことはできず、常にがまんし、自分を押し殺していますが、家から離れたり、親の目の届かないところにでたりすると、抑圧されてきた反動として、感情を一気に吐きだしてしまい、感情のコンロトールができなくなってしまうのです。
子どもの成長に伴って、人は自分の感情(気持ち)をことばで伝えることができるようになりますが、暴力で抑圧され、自分を押し殺してきた子どもたちは、気持ちをことばで伝える術を身につけることができず、大人になっても、幼児のように気を惹くたり、してほしいことを訴える(従わせる)ために、笑ったり、泣いたり、叩いたり、蹴ったり、髪を引っ張ったり、物をなげたり、癇癪を起したり、駄々を捏ねたりする方法しか身につけることができないのです。
そのときに添えることばは、親に浴びせられてきた暴力的なことば(否定し、非難・批判し、侮蔑し、卑下し、罵り、辱める、からかいひやかす)、啖呵を切るような短いことばです。
暴力のある家庭で育つ悲劇は、自分の感情(気持ち)を伝えることばを持っていないことです。
感情(気持ち)を伝えることばを持っていないことは、ことばにして吐きだす(人に聞いてもらう)ことができず、心内に溜め込むことしかできないのです。
溜め込まれた苦しさやツラさ、哀しみ、憎しみ、怒りの感情は、身体的暴力(暴行)で吐きだされることになります。
その溜め込んできた感情を、他者に吐きだしたときには暴力(暴行、傷害)となり、自分自身に向けられるときには自傷や自殺になります。
行動への影響は、身辺自立の遅れ、落ち着きのなさ、自傷行為、食行動への影響、粗暴な言動などで、非行もこの中に含まれます。
育児放棄(ネグレクト)や緊張状態の生活の中で、起床、着替え、歯磨き、洗面、入浴、睡眠、排泄といった基本的な生活習慣が身についていないことがあります。
これらの生活習慣は、主に親から教わるものです。寝つきが悪かったり、起床時間になってもおきてこなかったり、食事中におしゃべりが過ぎたり、落ち着かず席についていることができなかったり、偏食であったり、箸を正しく使えなかったりします。
多様な食品を経験することができずに、味覚の発達が偏り、極端な好き嫌いにつながっていることもあります。
対人関係への影響は、虐待に関連する対人関係を避ける傾向があったり、赤ちゃん返りをしたり、大人への不信感などがあります。
親に甘えが受け入れられなかった子どもは、深く傷ついています。
そのため、他人に甘えたり、依存したり、物事を頼んだりするとき、拒否されるのではないかという不安に囚われ、素直に甘えることができません。
そもそも甘えるためのことばを持っていまいこともあります。
それだけでなく、不信感が先立って、自分に危害を加える危険な人としてみることがあります。
なぜなら、虐待を受けて育った子どもは、根底から人を信頼することができず、身の危険を察知することに過敏になってしまっているかです。
人に対する不信感は、猜疑心に心が囚われ疲弊したり、人を避けたり、拒絶したり自ら招いた孤独感に押しつぶされてしまいそうになったり、うらやましくてひがんだり、ねたんだり、奪いとろうとしたり、対人関係を含めさまざまなところで軋轢や障害を生みだします。


2016.3/4 ブログ再編成(第3次改訂)に伴い、主記事として掲載
2017.4/24 「第2章(Ⅱ(8-15))」の「改訂2版」を差し替え掲載




もくじ   3kaku_s_L.png   [Ⅲ-5]Ⅱ.児童虐待と面前DVの影響。暴力のある家庭で暮らす、育つということ
FC2 Blog Ranking
*Edit
   
  • 【13.PTSDとC-PTSD、解離性障害】へ
  • 【(12) 思春期・青年期の訪れとともに】へ