あなたは、夫の暴力・DVを容認していませんか? 暴力のある家庭環境で暮らす子どもの心を守ることを忘れていませんか?

[Ⅲ-2]Ⅰ.密接な関係。児童虐待とドメスティック・バイオレンス

10.育った家庭環境が影響する思いを断ち切れない複雑な心理

 
 11.断ち切るために必要。加害者に共通する行動特性の理解 9.被害者に見られる傾向-暴力被害の後遺症という視点-
*新版3訂編集中(2017.12.17)

 暴力のある家庭環境で育ち、人との適度なかかわり方(距離感の持ち方)がわからず、生き難さを抱えている人たちの総称として、アダルトチルドレン(AC)*-114という名称が使われます。
人とのかかわりにおいて、ここは踏み込んでもいいけれども、ここは少し離れた方がいいといった“加減”がわからず、対人関係に困ったり、悩んだり、人とかかわることが苦しくなったりするのです。
 この原因は、アタッチメントの獲得に問題を抱え、自己と他の境界線があいまいなまま成長したことです。
自身の“特徴”と、その時々の状況による“気持ち(困る、哀しい、苦しいなど)”が結びついている(自覚できている)ときには、親の暴力によるダメージは浅いことになります。
 ところが、ペタッとくっついているように、人との距離感が極端に近すぎる人の中には、自覚できていないこともあります*-115。
 このときは、親の暴力によるダメージは深いことになります。
 いずれにしても、暴力のある家庭環境で育ってきていると、程度の差はあるものの、人との適度な距離感のあり方について、なんらかの問題を抱えています。
 この問題は、より親密な対人関係、つまり、交際相手、配偶者、子どもとのかかわり方において、顕著な影響を及ぼします。
*-114 「Ⅱ-22.ACという考え方と人格障害(パーソナリティ障害)」の中で詳しく説明しています。
*-115 幼児が「ぺタッとくっついて、くっついている人と同質化している」ように見えるときには、母子分離に失敗している、つまり、自己と他の境界線がないことを意味し、それは、愛着障害の特徴のひとつです。

(1) DV被害、理想的な被害者の対応とその行動を拒む要因
 交際相手や配偶者から暴力を受けたとき、被害者自身がとるべき理想的な対応、そして、理想的な対応を選択できない理由を考えてみたいと思います。

① 初めて暴力を受けたとき
理想的な対応は、第1に、交際相手や配偶者から暴力被害(避妊に応じないといった性暴力被害を含む)を受けたときには、「この人は、私のことを大切に思い、私の意志を尊重してくれる人ではない」と認識し、躊躇せずに、暴力に支配される関係を断ち切ることです。
「暴力に支配される関係を断ち切る」とは、別れる、家をでる、離婚することです。
「自分を大切にする」とは、いかなる理由があっても暴力を受け入れない、つまり、「私は、誰からも暴力で支配されない大切な存在である」との認識に立つことができることです。
したがって、「自分を大切にできる人」は、暴力を受け、自身の心身に大きなダメージが及ぶことを許しません。
その結果、暴力被害による後遺症が長期にわたるリスクを背負うことはありません。
ところが、長く暴力被害を受け続けていると、「私は、誰からも暴力で支配されない大切な存在である」、つまり、「自分の身(命)や自分の意志は、誰にも害されることがあってはならない大切な存在である」という人の根本となる概念が破壊されてしまいます。
 そのため、自分を大切にするという“感覚”がわからないのです。
こうした自分を大切にするという“感覚”がわからない被害者には、共通した特徴があります。
それは、人に嫌われることをひどく怖れることです。
人に嫌われることをひどく怖れる人は、自分が傷つくことをひどく怖れる人です。
自分の言動や態度を、人がどう感じ、どう思ったのかが気になり、その思いが強烈な不安感や恐怖心に心が苛まれていきます。
ときに、強迫観念や妄想に心が囚われてしまうこともあります。
悪い方向(最悪の事態)に思考を巡らし、自らを追い込んでいきます。
強烈な不安感は、心をかき乱します。
強烈な恐怖心は、心に深いダメージを及ぼし、ときに、心を破壊します。
強烈な不安感や恐怖心に心をかき乱される傾向のある人は、乳幼児期に、アタッチメント(愛着形成)を損なうトラウマ体験、つまり、暴力のある家庭環境で育っていることから、カラカラに乾いたスポンジのような渇望感、そして、底なし沼のような寂しさを抱えています。
「カラカラに乾いたスポンジのような渇望感」とは、カラカラに乾いたスポンジは、幾らでも水を吸い続けるように、とにかく愛されること(=存在そのものを認められること、全身全霊を持って受け入れられること)を欲するということです。
なぜなら、とにかく愛されることは、乳幼児期に決して満たされることが叶わなかった“承認欲求”が満たされるからです。
 このことは、逆に、自分の存在そのものを認められなかったり、受けられなかったりしたときには、「スポンジが渇いているよ!」、「寂しいよ!」と心が悲鳴(叫び声)をあげることになります。
つまり、愛されないことに、強烈な不安・恐怖(=見捨てられ不安)を感じるわけです。
以上のように、人に嫌われることをひどく怖れる人は、「見捨てられ不安」を抱えているのです。
 「見捨てられ不安」を抱えている人には、共通して被害を受けやすい暴力があります。
 それが、「避妊して欲しい」、「避妊しないなら、性行為に応じない」と自分の意志を示す(伝える)ことができず、望まない性行為を強いられるということです。
 また、「避妊して欲しい」と伝えることができたとしても、「気持ちよくないから、避妊はしない」、「中にはださないから、大丈夫」と応じられたとき、「これ以上、強くいったら、不機嫌になったり、怒られたりするかもしれない」と不安になり、相手の自分勝手ないいぐさを受け入れてしまうこともあります。
 いずれにしても、その結果、望んでいない妊娠をしたり、中絶を余儀なくされたりすることになり、その後の人生に大きな影響を及ぼすとともに、心には消し去ることのできない深いダメージを残します。
この心理には、2つのポイントがあります。
ひとつは、「きっと、…かもしれない」と、相手の考えや行動を先回りして考えることです。
この思考パターンは、相手の意に反して、機嫌を損ねたり、気分を害したり、怒ったりされることを避ける、つまり、回避行為です。
これは、「この瞬間(この場)さえ乗りきれば、あとは、なにごともなかったかのようにふるまえる」という暴力のある環境に順応するために、身につけてきた体験を積み重ねていることを意味しています。
「なにごともなかったかのようにふるまう」とは、傷ついた心にフィルターをかけることで、心が傷ついたことから目を背けるという意味です。
しかし、心の奥深い部分には、傷ついた心は残り続けます。
 もうひとつは、きっと、自分のことを“嫌い”だから、自分を「怒る」のだろうと認識しているということです。
 つまり、怒るきっかけ(原因)となる行為ではなく、“嫌い”という感情を優先する思考パターンです。
 感情に心が動かされやすいと、「Ⅰ-8.被害者心理。暴力でマインドコントロールされるということ」で詳述しているように、心を操られやすいのです。
 そして、嫌われることをひどく怖れる人の多くは、「避妊に応じない」という行為を性暴力被害と認識していません。
 なぜなら、性暴力被害を認識することが、愛されていない(大切にされていない)と自覚しなければならないことから、無意識下で、その現実を受け入れることを抵抗するからです。
 しかし、性暴力と認識したくないとの思いは、さらなる深刻な性暴力被害に発展することあります。
それは、拒絶されたくない(嫌われたくない)との思いで、自らを犠牲にしてでも、従順に尽くそうとしてしまうことです。
 自らを犠牲にしてでも、従順に尽くそうとする行為は、事例25のように、“仲直りの儀式”としての「暴力に対する和解の強要としての性行為」の他に、「自分が性行為を拒むと、外で(他の女性と)性行為に及んでくるかもしれない」との思い(不安感・教師心)から、自ら“率先”して悦ばせ、期待に応えようとする行為があります。
 この回避行動にもとづく状態は、この状態は、紛れもなく性暴力としての「暴力に対する和解の強要としての性行為」に他なりません。
 つまり、性暴力とは、「性行為の強要とセックスの拒否に対する暴力」だけでないということです。
 後者のケースでは、自分の方から仕掛けている(自分が望んでいる)、つまり、「私は、和解を強要されていない」のだから、性暴力被害は受けていないと強く事実認識を拒もうとすることもあります。
なぜなら、先のケースと同様に、「自分が大切にされていない(愛されていない)」という事実を認めたくない強い心理が働くからです。
そして、「見捨てられ不安」を起因とする嫌われることをひどく怖れる人が、望んでいない妊娠をしたとき、避妊に応じようとしなかった相手に対して、「彼は、温かい家庭を築きたいと夢を語っていたから、きっと、妊娠を喜んでくれるに違いない」「きっと、結婚をしたら変わってくれる」と“根拠のない期待感”に胸を膨らませ、結婚の意志を固めることがあります*-116。
 つまり、人に嫌われることをひどく怖れる人は、自分が傷つくことを回避するためにとった行動(選択)によって、逆に、暴力の関係から逃れられなくなったり、暴力のある環境に留まざるを得なくなったりすることがあるのです。
「きっと、…かもしれない」という“仮定の話(願望)”を“真実(現実)の話”とすり替え、ものごとを判断し、行動してしまう*-117結果、慢性反復的(日常的)な暴力被害は長期化することになり、その心的外傷(トラウマ)体験によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)などの症状に苦しむなど、深刻な後遺症が長期にわたるリスクを背負うことになります。
 この「きっと、…かもしれない」と根拠のない期待感で持って、仮定の話(願望)を真実(現実)の話とすり替えてしまう思考習慣は、間違った考え方の癖、つまり、認知の歪みです。
重要なことは、この「きっと、…かもしれない」という仮説にもとづく判断は、「こうあって欲しい」という願望(期待感)でしかない、つまり、裏づけのある根拠(事実)にもとづいていないということです。
このことは、願望(期待感)を優先させ、行動する傾向のある人の思考パターンは、論理(事実)よりも、“感情”を優先することを意味しています。
つまり、一度立ち止まって、じっくり考えることが苦手で、その時々の感情に心がゆさぶられやすいわけです。
 そのため、悪意のある人に、感情をコントロールされてしまいやすいのです。
「一度立ち止まって、じっくり考えることが苦手」という傾向は、その時々の感情で、怒鳴ったり、ものを投げたり、叩いたりする、つまり、暴力をふるう親の下で育った人に顕著に認められる傾向です。
なぜなら、その時々の感情で言動や行動がコロコロ変わる親の下での生活では、一度立ち止まって、じっくり考えて対応することが許されないからです。
直ぐに、暴力(身に降りかかった危険)を回避する言動や行動を求められるからです。
この特徴は、DV被害者の次のような状況での対応に顕著に表れます。
それは、「別れたい」との意志を伝えたり、実家に帰ったりしたとき、「ごめんなさい」と(泣きながら)謝られたり、「二度と暴力をふるわないから、子どももいるし、離婚は考え直してくれ」と懇願されたりすると、暴力への恐怖、痛み、哀しみ、ツラさなどを頭から消し去ってしまうことです。
「Ⅰ-9-(2)-②レノア・E・ウォーカーの「暴力のサイクル理論」」で詳述しているとおり、交際相手や配偶者の“これまで”とは違う甘く優しいことばや態度を示されたり、子どもと無邪気に遊ぶ姿を見せつけられたりすると、感情が強くゆさぶられてしまいます。
その結果、「今度こそは、本当に変わってくれるかもしれない」との“根拠のない期待感”に心が突き動かされ、交際相手や配偶者のもとに戻ってしまうことが少なくないのです。
“根拠のない期待感”に心が突き動かされ、交際相手や配偶者のもとに戻ってしまう被害者の心理的な特徴は、前述しているとおり、「わたしが暴力で傷つけられる=わたしは嫌われている」という認識です。
自分が「大切にされていない(嫌われている、愛されていない)」ことを受け入れたくないとき、“これまで”とは違う甘く優しいことばや態度を示されると、激しく心がゆさぶられます。
そして、暴力に耐えられないと別れを切りだしたり、実家に帰ったりしたものの、心の奥には、自分が嫌われて傷つくことを避けたい、つまり、底なし沼のような寂しさ(見捨てられ不安)から逃れたい強い思いが存在していることから、行動選択として優先するのは、嫌われることへの不安感や恐怖心を払拭することです。
つまり、嫌われることへの不安感や恐怖心は、暴力による痛み、哀しさ、ツラさよりも凌駕するわけです。
その結果、耐え切れないほどの暴力を加えてきた交際相手や配偶者のもとに戻る選択をするのです。
 このとき、戻るという選択が間違っていないと、自分自身にいいきかせる理由、つまり、再び、暴力被害を受ける可能性を消し去るための根拠が必要になります。
 それが、「今度こそは、きっと、変わってくれるに違いない」という考え方です。
 しかし、この考え方は、自分に都合のいい考えにもとづく“願望”でしかなく、裏づけられた根拠はなにもないわけです。
 その結果、不条理にも、再び、暴力被害を受ける生活を余儀なくされてしまうのです。
こうした行動もまた、暴力のある家庭環境に順応するために、子どものころか学び、身につけてきた間違った考え方の癖(認知の歪み)によるものです。
こうした間違った考え方の癖(認知の歪み)を身につけていない人は、つまり、暴力のある家庭環境で育っていない人は、“これまで”とは違う甘く優しいことばや態度を示されたとしても、「今度こそは、きっと変わってくれるに違いない」とは考えないのです。
つまり、“根拠のない期待感”に、これからの自分の人生を任せてしまうことはないのです。
しかし、暴力のある家庭環境で育っていない人が、“根拠のない期待感”を抱くようになることがあります。
それが、暴力による恐怖に、心が支配されているときです。
では最後に、重要な選択(判断)を下すとき、根拠のない期待感(願望)を持ちだしてしまう人のDV被害の状況を見ていきたいと思います。
交際相手や配偶者から暴力行為をはじめて受けたとき、「きっと、会社で嫌なことがあったんだ」、「いま、仕事が忙しくて大変な時期だから」と、自分で納得できる理由をつくって、その場(瞬間)を過ごしてきた、つまり、交際相手や配偶者の暴力行為を容認(正当化)してきた事実があります。
なぜなら、そういう理由をつくることで、自分の心が傷つかなくてすむからです。
こうした自分で納得できる理由をつくり、暴力被害は一時のことと耐え続けてきた事実があるとき、先のような状況で、“根拠のない期待感(願望)”にもとづいて、交際相手や配偶者のもとに戻るという選択は、これまでもそうであったように、再び、裏切られることになります。

② 子どもを妊娠したとわかったとき
第2は、もはや理想的な対応とはいえないものですが、妊娠していることがわかったとき、暴力のない環境で妊娠期を過ごし、出産後も、暴力のない環境で子どもを育てるために、躊躇なく別れる決断をするということです。
ここには、別れたあと、ひとりで子どもを出産し、周りの助けを借りながら育てていくのか、それとも、別れたあと中絶し、ひとりで新たな生活を送っていくのかという、とても重い決断が必要になります。
しかし、それでも、躊躇なく別れる決断をできるかという問題です。
ここで問題になるのは、ひとつは、暴力のある環境下で、妊娠していることがわかったとき、「きっと、子どもが生まれたら変わってくれるかもしれない」と“根拠のない期待感”を抱き、暴力のある環境に留まり、出産する選択をすることです。
もうひとつは、暴力のある環境に留まり、出産後、子どもが、暴力のある環境で育っているとき、「子どもの手がかからなくなるまで、私ひとりががまんすればいい」、「子どもには父親が必要だし、子どもには夫婦が揃っていなければならない」と、自分を納得させる理由をつくり、別れる決断を先延ばしにする選択をすることです。
 子どもを出産し、育てていくには、それ相応のお金がかかります。
 だから、暴力のある環境で、子どもを育てていくのは仕方がないという考え方を容認していいのでしょうか?
DV被害者支援に携わる者としての回答は、Noです。
なぜなら、妊娠期の母親の心身への影響だけでなく、胎児期の子どもの脳の発達に大きなダメージを与え、将来にわたり、子どもの心身の健康を損なうリスクを高めるからです。
「Ⅰ-2-(4)-①面前DV=子どもが、両親間の暴力を目撃する-子どもがDVの最大の被害者と認識しなければならない意味-」で詳述しているとおり、子どもが、夫婦間の暴力を見たり、聞いたり、察したりしている状況は面前DVといい、「児童虐待の防止等に関する法律(児童虐待防止法)」では“心理的虐待”になります。
 つまり、法律にもとづく解釈をすると、暴力のある環境で子どもを出産し、育てる行為は、子どもに対して心理的虐待を加えることを意味するわけです。
 理不尽なことですが、配偶者からDV被害を受けている者が、子どもから見ると、心理的虐待を加える当事者になってしまうということです。
 母親が、父親から身体的な暴力(暴行)を受けているとき、70%以上の子どももまた、父親から身体的な虐待(暴行)を受けているという報告があります。
 したがって、妊娠前、あるいは出産前に、身体的な暴力(暴行)を受けているとき、「きっと、子どもが生まれたら、(身体的な)暴力を加えなくなる」と考え、暴力のある環境に留まる選択をしたときには、母親の暴行被害がなくならないだけでなく、新たに、10人に7人の子どもが、父親からの暴行(身体的虐待)被害を受けることになります。
 DV環境下では、妊娠-出生後、子どもに対する直接的な暴行(身体的な虐待)だけでなく、心理的な虐待(面前DVを含む)、性的虐待、そして、ネグレクト(育児放棄)のリスクが非常に高くなります。
 このことは、DV環境下で育つ子どもは、心身に大きなダメージが及び、その後遺症が長期にわたる可能性が高くなるということを意味します。
したがって、子どもを暴力のない安全で、安心できる環境下で育てる(生活させる)ことが重要なのです。

-事例172(DV86)-
私が我慢することが、子どもたちにも我慢させてしまうことも、怒鳴り合う親を見ながら生活することが、どれだけ子どもにとって辛いことなのかわかっています。
しかし一方で、私が夫と上手くつき合えたら、私が上手に夫をコントロールできたら、子どもの心は、私が一生懸命愛情を伝えればわかってくれるのではと思うことがあります。
そして、私は、子どもたちの方から「もうこんな父親とは離婚した方がいい」といってくれるのをずっと待っています。
でも、この思いは、自分で決められない決断を子ども責任転嫁しているように思います。
私は、夫と離婚することができず、なんのために我慢してきたのかわからなくなります。

-事例173(DV87)-
夫が暴れだしたり、怒鳴りだしたりして、「でてけ!」といわれるたびに、私は実家に逃げ帰りました。
 私は夫から離れると、優しいときのことを思いだし、私にも悪いところがあったと思います。
これまでの経験から、1日泊まったら、とりあえず家に戻らないと、夫に怖い思いをさせられることを思い知らされてきました。
 私は、夫に「離婚」というキーワードを切りだすのが怖いのです。
夫に「お前がいったんだぞ!」といわれ、後に引けなくなると思うと不安になります。
子どものころ、いろいろ辛い思いをしてきた夫のことを、私が捨てたことになるのが怖くなります。
そして、常に、話し相手がいない生活になると思うと不安になります。
あんな人でも一緒にいるだけで、心強いと感じてしまいます。
こんな私ひとりでやっていていけるのだろうかと考えると、途端に自信がなくなります。

-事例174(DV88・頼ることのできない実家8)-
私は、子どもを連れて実家に帰りましたが、夫は「俺は一緒に親と同居してほしかったのに、お前が勝手に実家に帰ったから払う必要ない。」といい、別居期間中の生活費(婚姻費用の分担)を支払うことを拒みました。
 私は、子どもと一緒に実家に留まることが負担となり、よりを戻すことにしました。

-事例175(DV89・頼ることのできない実家9)-
私が2人の子どもを連れて実家に帰ると、夫は、電話で謝ってきて、「実家の迷惑になるから、長くはいれないだろう? それとも、どこかにアパートでも借りて住むつもりか? 子どもの学校はどうするんだ!」といってきました。
確かに夫のいうとおりでした。
実家は自営業を営んでいたので、2人の子どもと一緒に何日も泊ることは難しかったですし、夏休みや冬休みでもない時期、子どもを何日も学校を休ませることはできませんでした。
いえ、子どもの学校の問題がなかったとしても、私は家に戻っていたと思います。
なぜなら、アパートを借りることは、金銭的なことを考えるとできなかったからです。
預金通帳は、夫と私とで分けていましたが、弁護士に相談して離婚調停を申立てる前の私は、「共有財産」ということばも知らず、夫の稼ぎで蓄えてお金は夫のものだから、許可を得なければ預金を下ろすこともできないと思っていました。
それに、勝手に預金を下ろしてアパートを借りたとしても、夫とやり直すことになったら、給料、学資保険などのすべてが、夫の管理なってしまい、私と子どもたちが苦しい生活になってしまうと考えてしまいました。
心の中では、もう嫌だ、あの夫のもとには2度と帰りたくないと思って、子どもを連れて、実家に帰りましたが、夫からの電話のあと、子どもが通う学校のことだけでなく、2人の子どもと新しい生活をはじめることへの不安、そして、夫への恐怖が思いだされ、考えれば考えるほど、混乱し、なにをどうしていいのかわからなくなっていきました。
翌朝、私は、車で子どもを学校に送り届けたあと、家に戻りました。

-事例176(DV90・頼ることのできない実家10)-
 DV被害を相談しはじめた私は、何度か夫Pと話合いました。
 しかし私は、日々、夫と同じ空間にいることに耐えられなくなりました。
 そして、私は、夫に「暴力に耐えられません。離婚します。」「子どもたちは私が育てます。直ぐに転校とかできないので、ここからでて行ってください。」と伝えました。
はじめて強くでた私に驚いたのか、夫は、「わるかった。二度と暴力はふるわない。」と繰り返し謝りました。
そして、夫は、「わかった。君が落ちついて話ができるまで、実家に帰るから。また、話し合おう。」といい、実家に帰っていきました。
 夫が実家に帰った翌日、義母から「Pが突然帰ってきたけど、なにがあったのかなにも話さないの。なにがあったの?」と電話があり、義母が家を訪ねてきました。
 義母が訪ねてきたものの、私が耐えられなかったのは、夫の性的嗜癖を強いられることだったので、夫にどれだけ惨いことをされているのか、具体的に話すことなどできません。
 私が「夫からDVを受けています。」と伝えると、自身が夫からDVを受けてきた義母は、「私も夫から暴力を受けてきたけど、子どもたちのことを思って、ずっと耐えてきたのよ。」などと、「あなたも、子どもたちのために、離婚を考え直した方がいい」との考えを繰り返し、「子どもたちの将来を考えてね。」といい、帰っていきました。
 私は、義母の話をうわの空で聞いていました。
ずっと親の顔色を伺い、従順でいい子で過ごしてきた私は、思ったことを口にすることはできませんせんが、心の中で、「あなたが暴力に耐えながら、子どもを育てていたから、夫はああなったんじゃないの! あんたのせいじゃないの!」と義母への不満をぶちまけていました。
 義母が帰ったあと、おかしなことに、私は、子どもたちのために離婚をしなくてすむ方法をネットで調べはじめました。
 なぜなら、親の期待に応えるために、都内で有数の進学校から国立大学に進学し、一部上場企業に勤務していたものの、仕事を一生懸命に頑張るよりも、ピアノを弾いたり、友人たちとテニスをしたり、カラオケで歌ったり、楽に、楽しく暮らせればいいと思っていたので、離婚をして、自分で働いて、2人の子どもたちを育てられるか、ちゃんとした教育を受けさせられるか急に不安になったからです。
 ネットで調べ、「加害者更生プログラム」の存在を知り、夫に受講させて経過を見て、暴力が治まったどうかを判断してから、離婚のことを考えればいいやと思いました。
 そして、夫に「加害者更生プログラムを受講し、その後の経過を見て、離婚するかどうかを決める。」と伝えると、夫は「わかった。それで、離婚しなくてすむなら受ける。」と自分に都合よく解釈し、了解してくれました。
 実施機関での夫の面談、私の面談を経て、夫のプログラムへの参加が決まりました。
 ところが、実施機関と夫との2回目の面談のとき、夫がトラブルをおこしました。
 受講すれば、離婚を回避できると思い込んでいる夫は、面談者に、離婚をしないですむ方法について質問をはじめたのです。
 面談者が、「このプログラムは、離婚の有無を決めるものではありません。目的は、…」と応じたことに憤慨し、夫は「離婚について、わからないとはどういうことですか?!」と声を荒立て、帰ってしまったのです。
 そして、夫から「プログラムは止める。離婚をしないですむことをアドバイスできない奴らの話を聞くことはできない!」と連絡があり、私が、「プログラムを受けて、その後の経過を見て、暴力が治まったを確認できたときに、離婚をしないかを考えるといって、あなたがわかったと応じたのよ。」と説明しても、夫は聞く耳を持ちませんでした。
 それから1ヶ月後、事件が起きました。
 夫は、壁伝いに2階にのぼり、鍵が閉まっていない窓を開けて、家に入ってきたのです。
 突然、家の中にいる夫の姿に動揺してしまった私は、相談をしてきたDV被害者支援機関のアドバイスをすっかり忘れてしまいました。
 私が守れなかったアドバイスのひとつは、夫が家に押しかけてきたときには、躊躇なく警察に通報すること、もうひとつは、2人だけでなく、家族や友人が同席しても話合いに応じてはいけないというものでした。
 押しかけてきた夫に「これからのことを話合いにきた。」といわれ、私は、母に電話をして、「夫との話合いに立ち会って欲しい。」とお願いしました。
 私から電話を受けた母は、男の人もいた方がいいと叔父(母の弟)に連絡をして、私の家に駆けつけてくれました。
 4人ではじまった話合いでしたが、私の母、そして叔父も「これから、子どもたちの教育費もかかる。お前が子どもたちをひきとっても、私立に通わせるだけ稼げるわけじゃないだろ。」と、夫との離婚に反対しました。
 そして、「2人でちゃんと話合いなさい。」といい残し、母と叔父は帰っていきました。
 私は、同じ家の中に夫がいると思うと怖くて、2人の子どもたちに「これから、おばあちゃんの家に行くから」というと、次男は「わかった。」と応じましたが、長男Aは「(進学した私立中学校の)部活もあるし、友だちもいるから、おばあちゃんの家に行くのはいやだよ。僕はここに残る。」と応じたのです。
 私は、仕方なく次男だけを連れ、実家に帰りました。
 平日は毎日、私は、夫が出勤した時間を見計らって、長男の洗濯物を選択したり、夕食を用意したりするために家に通いました。
 1年後、長男が高校に進学する前に、長男をひきとりたいと、家庭裁判所に「監護権審判」と「離婚調停」を申立てしました。
 監護権審判では、「A君は、この前、手紙に書いたように、このままお父さんと暮らすといっています。」、「15歳に達しているので、A君の意志は尊重されるんですよ。」と応じられ、長男がこれからも性的異常者の夫と生活をしなければならないのかと考えると目の前が真っ暗になりました。

-事例177(DV91・頼ることのできない実家11)-
中学校の教師をしていた私の両親は、父方の祖父母と同居していました。
私を出産した母は、わずか1ヶ月で職場に復帰をしました。
そして私は、祖父母でなく、母の知人に預けられました。
兄は0歳で保育園に入り、私は、3歳になって保育園に入りました。
忙しい両親を見て、私は、いつも両親の邪魔をしてはいけないと思っていました。
いい子だったかわかりませんが、テレビばかり見ていました。
2歳違いの兄は、高校に進学したて間もなく、家にひきこもり、登校を拒否するようになりました。
兄が不登校になると、家の雰囲気は暗くなりました。
兄はめまいがひどく、よく吐いていました。
私と兄とは、部屋が隣り合わせだったので、兄が部屋で吐いていたり、「うっうっん」と咳払いしていたりする音が聞こえてきました。
「うっうっん」と咳払いするような感じはいまでも続いています。
私には、「俺はここにいるよ」「俺はここにおるんや」とのメッセージのように思います。
そして、兄は本ばかり読んでいました。
5年をかけて高校を卒業し、大学でも一時期ひきこもりましたが、6年かけて卒業した兄のことを、私は尊敬しています。
 だから、子どもを連れて実家に帰ってきたときには、兄と一緒に入られると思い、嬉しい気持ちもありました。
 なぜなら、私と兄は仲がよく、しかも、兄のことを同志みたいに感じてきたからです。
 兄と2人で、「お母さんは、今日機嫌が悪いみたいだから。」といい合っていました。
しかし、実家に帰り、DV被害者支援機関でカウンセリングを受けはじめると、あることを思いだしました。
それは、私が高校2年生になり、不登校の兄が2度目の留年で高校3年生をしなければならなくなったとき、兄に「Hがいなかったらよかったのに。」、「死んでくれ。」といわれたことでした。
兄と私は、高校生のときに、ストレスからくる「中心性網膜炎」を患っています。
 実家に帰った私は、母に、小さいとき寂しかったことなど、どのような思いをしてきたのかをいっぱい話しましたが、母は謝らず、「しょうがなかった。」とひとこと応じただけでした。
母は、母親ではありませんでした。
むしろ父親のようだったと思います。
父親が、2人いた家庭だったと思います。
教師だった父は、いまも私にいうことは先生のことばです。
「みんなに優しくしなさい」、「挨拶しない人にも挨拶をしていたら、時間がかかるが挨拶してくれるようになる」、「夫と話し合いなさい。とことん話して、話するしかない。話をしなさい。」・・。
いうことは、みな正しいことばかりです。
母は、私が夫にいわれたこと、暴力に対しても「はぁ~。」と悲しそうに、大変だねという顔をするけど、私が「夫に謝って欲しい。」というと、母は、「男の人に土下座さすようなことしたらアカンわ。」と応えます。
私は、土下座でもして謝って欲しいと思います。
私はずっと母が嫌いでした。
いまも嫌いです。
しかし、家に帰ってきて、母に子どものころのことを訴え、夫とのことを話し合ったことで、少し諦める気持ちになったように思います。
私が望んでいる回答を、母は口にしないことがわかりました。
母は変わらないと思いました。
実家に帰った私は、父と母、そして、兄に絶望し、子どもたちを連れて、夫の待つ家に戻りました。
そして、家に帰った私は、いま夫に絶望しています。
子どもにとって、なにがよいのか、どういう環境がよいのか、じっくり考え、納得し、きちんと答えをだしたいと思います。
ずっとずっと、特に2人目を妊娠してからは、夫と別れたいと思ってきました。
夫が、私や子どもたちにしてきたことは虐待で、虐待の中で育つ子どもを助けられるのは私しかいないというのはわかっています。
しかし、どのような家庭が普通なのか?
普通の家庭とは、どういうものなのだろうか?
それが、私にはわかりません。
私は母が働き、教師として忙しく、かまってくれないことが不満でした。
そして、いつも怒っていました。
だから私は、結婚するときは、専業主婦になり、子どもたちにクッキーやお菓子をつくってあげて、学校からの帰りを待つような優しい母になりたいと思っていました。
離婚して、私が必死になって働き、疲れて家に帰ることになったとき、本当に、子どもたちに優しくふるまえるのかと考えてしまいます。
私は、母のように仕事から疲れて帰って、怒って、「忙しい」といい、ほったらかしにならないだろうか?
兄と一緒に母の機嫌を伺っていたように、子どもたちも、私の機嫌を伺って過ごすようになったりしないだろうか?
いつもいつも悪いこと悪いようにばかり考えてしまい、離婚を決意することができません。

 幾つかの要因が複雑に絡み合う親密な関係にある交際相手や配偶者との関係を断ち切り、生活の再建をすることは、いうまでもなく決して容易なことではありません。
a)親族への対面や世間体を気にしたり、b)経済的な理由で離婚を躊躇したり、c)密な関係にある者が逮捕・起訴されることを躊躇したり、d)別れを告げて逃げたりしたら、もっとひどい暴力を受けるかもしれない(なにをされるかわからない)恐怖に身が竦んで決心できなかったりするなど、それぞれの思いや事情の影響を強く受けます。
また、e)「この人は私と似た境遇で育った。この人の苦しみは私だけがわかってあげられる(共感)。」と支えていたり*-118、f)「私は、この人の夢を一緒にかなえたい(共通目的)」と使命感が満ちていたりする思いも、暴力を断ち切る判断を躊躇されます。
さらに、「俺は、お前たち(妻や子ども)を養ってやっているんだ。いうことをきけ!」ということばは、間違った価値観をすり込んだ加害男性の常套句ですが、g)被害女性の妻にも、「妻と子どもは、夫に養ってもらうもの」と間違った価値観をすり込んでいることが少なくないのです。
そのため、慢性反復的(日常的)な暴力被害を受けていても、「夫と離婚したら、自分が働きながら子どもを育てなければならない。それは、嫌だ(おかしい)。」と、離婚をせず、夫に養ってもらう関係性に固執することもあります。
「間違った考え方」としているのは、結婚という制度(法律)では、“相互扶助”を前提(義務)としているからです。

以上のように、暴力被害を受けたとき、「なにを大切にしなければならないのか」というプライオリティ(優先順位)に影響を及ぼすのが、暴力のある家庭環境で育ち、アタッチメント(愛着形成)の獲得に問題を抱えているということです。
つまり、暴力のある家庭環境で育ってきた人は、そうでない人に比べて、再び、交際相手や配偶者から慢性反復的(日常的な)な暴力を受け、再び、その状況から抜けだすことができなくなるリスクが高いということです。
親の庇護下にある乳幼児、青年期(15-18歳)前の子どもは、自分の意志で暴力のある環境から逃れることができないことから、親が、子どもをその環境から自分の意志で断ち切ることを示していない(子どもとともに、暴力のある環境に留まり続けた)ときには、自分の意志で、暴力に支配される関係を断ち切る方法を学び、身につけることができません。
つまり、子どもが、暴力のある家庭環境で学び、身につけるのは、暴力のある家庭環境でうまく立ち回ることです。
「うまく立ち回る」とは、親と同じように、a)上下の関係、支配と従属の関係を成り立たせるための“効果的”な暴力の使い方、逆に、b)暴力で上下の関係、支配と従属の関係を成り立たせようとされたときには、機嫌を損ねないための“効果的”なふるまいのことです。
こうして、暴力がチェーンのようにつながっていきます。
「暴力の世代間連鎖」は、どこかの世代で断ち切っていかなければ、いつまでもつながっていきます。
「暴力の世代間連鎖」を断ち切るために重要なことは、いま、暴力被害を受けている女性、あるいは、子どもの母親は、暴力に支配されている関係性を断ち切り(別れる、別居し離婚する)、女性は安全で、安心できる環境で生活することです。
そのためには、子どもは、安全で、安心できる環境で育つ必要があることを理解することです。
*-116 「デートDV被害を受けている状況(DV被害を自覚できていない状況を含む)から結婚の意志を固め、その後、慢性反復的(日常的)な暴力被害を受けることになる状況」については、「Ⅰ-7-(2)デートDVから結婚に至る経緯」でとりあげている4つの事例(分析研究)を通じて詳述しています。
*-117 『「きっと、…かもしれない」という仮定の話を真実化(現実化)させてしまう思考パターン(考え方の癖=認知の歪み)でものごとを考え、判断してしまう』ことは、他に、不安感や恐怖心を増長させてしまい、心を強迫観念に支配されてしまう人に共通して見られる特徴です。
 増長される不安感や恐怖心の背景には、幼児期に、親の不穏な気配(雰囲気)や態度、空気感を察したとき、“もっとひどい事態が待っている”という体験、“もっとひどい事態に対しては、幼い自分は無力である”という体験を積み重ねてきたことがあります。
 幼児期にこうした体験を積み重ねていると、不穏な気配(雰囲気)や空気感を察すると(あるいは、察する前に)、もっとひどい事態が生じない(身に降りかからない)ように、“回避行動をとる”ことが習慣になります。
 なぜなら、親が、いまどのような精神状態であるかを空気感で察知したり、雰囲気や態度、言動に思いを巡らしたりすることで、「きっと、…だと思う(に違いない)。だから、こうしよう(こうしなければならない)」と率先して“意を汲んだ(意に反しない)”言動やふるまいで、危険を回避しなければならないからです。
その習慣化された「回避行動」は、その場から離れ(逃げる)たり、意を汲んだ(意に反しない)言動やふるまいで機嫌をとったり、喜ばせたりすることです。
そして、この習慣化された「回避行動」は、家庭内だけでなく、学校や職場など、あらゆる人とのかかわるうえでの処世術(世渡り術)としての基本行動となっていくことになります。
 機嫌を損ねない(気分を害しない、怒らせない)ように、意を汲んだ(意に反しない)言動やふるまいで機嫌をとったり、喜ばせたりする回避行動は、その家庭内を支配する者に対する“準順さ”や“絶対服従している”ことを示すもので、①DV被害者、②暴力のある家庭環境(いき過ぎた教育、過干渉・過保護を含む)で暮らしている子ども(被虐待者)に共通して見られる傾向です。
 そのため、暴力のある家庭環境で育った人が、再び、交際相手や配偶者から暴力被害を受ける(2重の暴力被害)ことになると、被害は長期化しやすく、同時に、PTSDの症状も重く表れる傾向があるのです。
 また、「相手は、きっと、…と感じている(思っている、考えている)かもしれない」という考え方(思い)は、時に、“相手(他者)の意志を尊重しない”“相手(他者)には考えや意志は存在しない”という考え方(思い)に通じてしまう危険性があります。
危険性とは、相手(他者)の意志・考えがないかのように自分勝手に(自己中心的に、あるいは、自分だけに都合よく)捉えてしまう(創造してしまう)、つまり、すべてのものごとを一人称で捉え、考え、行動することです。
すべてのものごとを一人称で捉え、考え、行動することは、二人称・三人称を身につけていない、つまり、幼児期に母子分離ができず、自己と他の境界線があいまいなまま成長してしまった人に共通して見られる傾向です。
 そして、「きっと、…」という考え方が、一人称、自己中心的に捉えられるとき、「おこないを正してあげなければならない」との使命感、「しつけ直しをしてあげる」との“善意の行為”として、DV、児童虐待(いき過ぎた教育、過干渉・過保護を含む)、体罰、ハラスメントなどの暴力行為を加えたり、「本人(被害者)の意志に反して、親や友人、同僚が邪魔している」と自分が傷つかない理由をつくりあげ、邪魔(反対)している親などから助けだしてあげなければならないと連れ去ろうとするストーカー行為につながったりすることがあります。
 つまり、「きっと、…かもしれない」という仮定の話を真実化(現実化)させてしまう思考パターン、つまり、間違った考え方の癖=認知の歪みでものごとを捉え、考え、判断してしまう人は、被害者だけではなく、対人関係で、パワー(力)の行使により上下の関係性、支配と従属の関係性を成り立たせようとする加害者にも顕著に認められる特性です。
*-118 働いたお金で、アルコールや薬物、ギャンブルなどの依存状態にある交際相手や配偶者を養ったり、金を与えたりする人たちがいます。
 こうした行為は、結果として、依存となる原因(状態)を手助けしまう行為であることから、こうした行為に及ぶ人のことを「イネイブリング(依存者を支える者)」といいます。
このイネイブリングには、2つの問題があります。
ひとつは、依存状態にある者を支えることで、自分の存在価値を確認し、承認欲求を満たしていることです。
つまり、“もたれ合い”の関係性をつくっているわけです。
こうした「もたれ合い」の状態になっている関係性のことを“共依存”といいます。
もうひとつの問題は、アルコールや薬物を購入するためのお金、ギャンブルに費やすお金を要求するときに、暴行が加えられることがあるということです。
この状況にあると、単なるもたれ合いの状態を逸していることになります。
 共依存にある関係性は、他には、第1に、親が子どもに過剰に干渉(過干渉・過保護)した結果、思春期・青年期と成長した子どもが、自分で決めなければならなくなった(自分で判断しなければならない)とき、「間違ったら(失敗したら)どうしよう」と怖くてできなくなり、すべてを親に頼ってしまい、「もたれ合い」の状態になっている関係性があります。
親は、成長した子どもが自分で決められない状態に自分の存在価値を見いだしている(生きがいとなっている)ので、子どもが大人になっても、“これまで”通りに干渉し続けます。
一方の子どもの多くは、親に干渉され、すべてを決められることが苦しくて、たまらない(逃げだしたい)けれども、怖く(自信がなく)て、その関係性を断ち切ることができない状態に陥っています。
それでも、共依存的な関係性にある子どもが覚悟を決めて、実家をでてひとり住まいをはじめるなど親から離れようとする意志を示すと、親は、子どもが自分から離れよう(自立しよう)とする現実を受け入れることができません。
そのため、親は、子どもが自分から離れよう(家をでて、自立しよう)とすることを許しません。
家をでる強行突破をした子どもには、ひとり住まいをはじめた家に頻繁に押しかけたり、つきまとったりすることになります。
上記の“文”の「子ども」を、「妻や交際相手」、「親」を「配偶者や交際相手」と置き換えると、別れる(離婚の)意志を伝えても、その事実を受け入れず、復縁を求めるために執拗につきまとうストーカー行為と同じ範疇にあることがわかります。
つまり、暴力行為で支配することで、自らの存在価値を確認している人たちは、かかわりが深ければ深いほど(一方的な思慕を含む)、その対象を失うことを認められないということです。
 第2は、暴力行為で支配しようとする交際相手が、自分が育った家庭環境と似た境遇であったとして、抱えている思い(心の問題)に共感してしまっているとき、もたれ合いの状況がつくられやすくなります。
 心の問題に共感してしまうと、暴力被害にあったときには、「暴力という方法でしか気持ちを表すことができない彼の苦しみは、私だけがわかってあげられる」と暴力を受け入れ、「私が彼を支えてあげる(たち直せて見せる)」と“根拠のない期待感”を拠り所にして、自ら強い関係性をつくってしまいます。
一方、暴力をふるう者は、自分の生い立ちに起因する暴力行為は受け入れられたと解釈し、その状態にどっぷり甘えて(その気持ちを巧みに利用して)いくことになります。
その結果、被害者が主導する「もたれ合い」の関係性がつくられていきます。
被害者が主導してはじまる「もたれ合い」の関係性であったとしても、慢性反復的(日常的)に暴力をふるわれることによって、深刻な問題をひきおこします。
ひとつは、そもそも低かった自尊心や自己肯定感が破壊され、「いってもムダ」「なにをやってもムダ」と無気力になり、「暴力をふるわれて体や心が傷みを感じるときに、自分には存在価値がある」と認識できるといった深刻な状態に陥ってしまうことです。
もうひとつは、もたれ合いの関係性は、暴力をふるう者と暴力をふるわれても支えようとする者との間で成り立っていることから、結婚し、子どもが生まれた(シングルマザーが再婚するを含む)としても、子どもの存在は忘れ去られたかのように傘の外におかれてしまうということです。
こうした状況下で、存在が忘れ去られ傘の外におかれてしまう子どもは、「Ⅱ-」でとりあげている事例 のようなネグレクト(育児放棄)、あるいは、凄惨な暴行(身体的な虐待)の対象となってしまうリスクが生じることになります。


(2) 判断を困難にする“認知の歪み”
-暴力に順応するためにみにつけた間違った考え方の癖-
① 間違った考え方の癖とふわふわと地に足がついていない危うさ
暴力で支配される関係を断ち切り、暴力で傷ついた心身をケアするには、暴力のない安全で、安心できる環境下で生活することが必要です。
乳幼児期の子どもにとって安全で、安心できる家庭環境とは、世話をしてくれる養護者(=親)が、“わたし(自分)”のことを決して傷つけない(安全な)存在であると認識できる状態のことです。
このことが持つ重要な意味は、世話をしてくれる親は、“わたし(自分)”のことを決して傷つけない(安全)存在であると認識することによって、はじめて、人という存在を信頼することができるということです。
世話をしてくれる親が、“わたし(自分)”のことを傷つける(安全でない)存在であるとき、人は、人という存在を信頼するという認知が損なわれてしまいます。
乳幼児期に、人という存在を信頼することができないという認知が構築されてしまうと、その後、人とのかかわり方に深刻な事態を及ぼすことになります。
しかし、慢性反復的(日常的)に暴力を受け続けている被害女性の多くは、常に気を張り、機嫌を損ねないようにふるまわなければならない、つまり、暴力を回避したり、暴力に耐えたりすることで精一杯で、いま、子どもがどのような思いで過ごしているのか、暴力が深刻な後遺症を招くのかといった思いに馳せることができなくなっています。
場合によっては、「自分も暴力のある家庭環境で育ってきたけれど、“ちゃんと大人になった”のだから、子どものことを心配する必要ない」と考えていることもあります。
この「ちゃんと大人になった」と認識している被害者は、「自分の身(命)や自分の意志は、誰にも害されることがあってはならない大切な存在である」といった“感覚”を持ち合せていません。
つまり、“一定の条件下”での暴力は容認しています。
暴力のある家庭環境で育ってきたために、“一定の条件下”の暴力を認めるという“認知の歪み(間違った考え方の癖)”が生じているわけです。
そして、いま、慢性反復的(日常的)に暴力を受け続けている被害女性に見られる傾向は、「暴力をふるわれるのは自分が悪い(いたらない)から」、「暴力をふるわないときは、優しいから」、「子どもが手を離れるまで、私ひとりががまんすればいい。それが、母親の務め」と暴力のある環境に留まる“理由づけ”をします。
それは、暴力のある環境に留まることを正当化するために、「できない理由探しをする」ことにつなげていく考え方の癖です。
例えば、助けを求めて駆け込んだ警察署や通報をして駆けつけてくれた警察官に対して、被害者が、被害届(捜査の強制力があるのは告訴状)の提出を拒む理由には、「もっとひどいことをされるかもしれない」という恐怖心、「大ごとにしたくない」という世間体を気にしてしまうだけでなく、「そんなことをしたら、裏切ったと思われてしまう(嫌われてしまう)」という“見捨てられ不安”が反応してしまうとことがあります。
“見捨てられ不安”にもとづく心の反応については、「Ⅰ-10-(1)DV被害、理想的な被害者の対応とその行動を拒む要因」で詳述したとおりです。
そして、世間体を気にした判断を優先させることは、自身の命(あるいは子どもを含めた母子の命)よりも、世間体(加害者を含める)の方が大切と認識していることを意味します。
判断基準(モノサシ)、プライオリティ(優先順位)は、その人の価値観、考え方が表れます。
重要なことは、価値観、考え方、判断基準、プライオリティなどの思考習慣の多くは、いまの暴力に支配された生活の中で身につけたものではなく、過去の生育環境(親の下で育った生活環境)で学び、身につけたものということです。
この「手引き」の命題となっている「人の脳は、生存している環境に合った脳の機能がつくられる」、「人は、育つ家庭環境やコミュニティで生存するために必要な脳の機能を発達させ、必要ない脳の機能は発達させない」に準じると、暴力のある家庭環境で育った者と、そうでない者との違いは、“暴力”の捉え方に顕著に表れるわけです。
 つまり、暴力のある家庭環境で育った者は、価値観、考え方、判断基準、プライオリティなどの思考習慣に、定の条件下での暴力を容認する概念が存在して(組み込まれて)います。
 以上のとおり、被害女性に、暴力のある家庭環境で育っているとき、程度の差はあるものの、暴力のある環境に順応するために身につけた間違った考え方の癖=認知の歪みが存在しています。
 加えて、暴力のある家庭環境で育ってきた者には、カラカラに乾いたスポンジのような渇望感や底なし沼のような寂しさと表現される“見捨てられ不安”を抱えていることになります。
 「見捨てられ不安」を抱えていることは、“承認欲求”を抱えていることを意味します。
 「承認欲求」とは、渇望感、寂しさを埋めてくれるマグマが突きあげてくるような、コントロール不能に陥る強烈な欲求のことです。
 したがって、暴力に支配された関係性を断ち切るには、暴力のある環境に順応する考え方の癖=認知の歪みに対するケア(アプローチ)が欠かせないのです。
なぜなら、第1に、激しい暴行(身体的な暴力)を受け、ショックと恐怖からその場から逃げだして実家に帰ったり、友人宅に保護してもらったりしたとき、加害者に「暴力をふるわないから、帰ってきてほしい」と優しく甘いことばやふるまいに心がゆさぶられ、「きっと、暴力をふるわなくなる」と“根拠のない期待感(願望)”にもとづき、交際相手や配偶者のもとに戻ってしまい、再び、日常的な暴力被害を受けることになる可能性があるからです。
第2に、警察への通報や女性センターへの相談をきっかけに、「配偶者暴力防止法」にもとづく“一時保護*-119”の決定を受け、緊急一時保護施設=行政や民間のシェルターに入居したりしたとき、非公表の所在地を知られ、入居者に危害が及ぶのを防ぐために、加害者を含め、被害者家族や友人などへの連絡を禁止されている中で、怒っていないか心配になったり、寂しく声を聞きたくなったりして連絡をしてしまい、会って話し合うことになり、交際相手や配偶者のもとに戻ってしまい、再び、日常的な暴力被害を受けることになる可能性があるからです。
最初は、暴行への恐怖があり、交際相手や配偶者にもとに戻ることはなくとも、安全な環境で、安心してぐっすり眠ることができる生活が数日続くと、徐々に居心地の悪さを感じはじめます。
例えば、私は裏切った、私は子どもから父親を奪ったという罪悪感が表れると、「いまなら、まだやり直せるかもしれない」と“根拠のない期待感”を膨らませ、「だって、彼は、暴力をふるわないときは優しかったし、子どもが懐いていたから」と、配偶者や配偶者のもとに戻るために、自分を納得させる“根拠(理由)づくり”を考えるようになります。
ここには、やり直せるのではないかとの思いではなく、やり直したいとの思いであるということです。
なぜ、やり直したいのか?
それは、てっとり早く渇望感、寂しさを埋めてくれるのが、交際相手や配偶者だからです。
その相手の「暴力をふるわないから、帰ってきてほしい」という優しく甘いことばは、承認欲求を満たしてくれることばです。
“快楽中枢”が覚えた心地よい言動や態度、つまり、承認欲求を満たしてくれる言動や態度を、もっともっと欲しがるのです。
被害者の中には、別れた(離婚した)あとも、ずっと、交際相手や配偶者に対する思いを燻らせている、つまり、承認欲求を満たしてくれる相手として待ち望んでいるといった、「ふわふわと、地に足がついていない危うさ」を抱えていることがあります。
“危うさ”は、底なし沼のような寂しさで、マグマが突きあがってくるような強烈な承認欲求衝動のことです。
強烈な承認欲求衝動下では、人は、理性で行動をコントロールすることはできません。
戻ったとき、再び、暴力下で暮らすことになることよりも、優しかった、楽しかった思い出に浸り、突き進みます。
第3に、「見捨てられ不安」を抱えている被害者は、別れたあと、ひとりでいることができないことから、優しく甘いことばやふるまいで、“承認欲求”を満たしてくれる異性を追い求めます(探します)。
問題は、ふわふわと、足が地についていない危うさを抱えている被害者は、近づいてくる異性の優しく甘いことばやふるまいが、“装い”“偽り”“嘘”であると見抜く力を備えていないことです。
そのため、次に交際した相手から、再びDV被害を受けてしまったり、カルトや新興宗教、スピリチュアルなものなどに傾倒してしまったりするリスクが高いのです。
あまりのツラさや恐怖により、その一時は、暴力から逃げることができても、アタッチメントにトラブルがあり、「見捨てられ不安」という“心の問題”を秘めている限り、ある一定の時間が経過すると、暴力に支配される“環境”やカルトや新興宗教、スピリチュアルなものなどの“信仰”に、自分の居場所(存在価値)を求めてしまうことがあるのです。
次の交際相手から、再び暴力被害を受ける高いリスクは、「マムズボーイフレンド(シングルマザーの交際相手)による虐待」と新たな問題と深く結びついています。
新しいボーイフレンドの自身に向けられる“暴力”を回避したい(痛い思いをしたくない)思い、「暴力を止めて欲しい」と訴えて、嫌われたくない(別れを切りだされたくない)思いで、ボーイフレンドによる子どもへの虐待行為を黙認してしまう状況が生まれるということです。
 暴力によるケガの治療に訪れた病院や子どもが通う学校園で、「このケガは、転んだものです」と、ボーイフレンドを擁護するだけでなく、上記の2の思いから、子どもへの虐待に加わったり、自ら積極的に虐待に及んだりすることがあります。
第4に、なにかのきっかけで、これまで尽くし、耐え続けてきたのに、「どうして?!」「なぜ?!」と報われない思いが爆発し、過激な暴力行動となることがあります。
この「過激な暴力行動」については、「Ⅰ-5(5)PTSDの症状(攻撃防御の機能不全)に端を発した暴力」で説明しているとおり、ケアされていない暴力被害の後遺症が生じさせるものです。
しかし、慢性反復的(日常的)に暴力がおこなわれている家庭環境で育った者が、交際相手や配偶者から、再び、慢性反復的(日常的)に暴力被害を受けることになっているとき、“攻撃防御の機能不全”による過激な暴力行動は、より激しいものになります。
アタッチメントにトラブルがあり、“見捨てられ不安”を起因とする「嫌われたくない思い」で、がまんし、耐え忍び、どんなに頑張っても認めてもらえない(愛されない)、つまり、承認欲求が満たされないという期間が一定値に及ぶと、溜め込んできた怒りの感情が、マグマが突きあげくるように溢れてきます。
怒りの感情は、もはやコントロール不能となり、怒りを爆発させることになります。
このときの「過激な暴力行動」は、加害男性を殺傷する事件に発展することがあるほど激しいものです。
また、報われない思い(憤りや怒りの感情)は、子どもに向かい、虐待行為につながります*-120。
それは、同様に、子ども殺傷する事件に発展することがあるほど激しいものです。
つまり、交際相手や配偶者から暴力を受けるDV被害者である一方で、子どもに対し、激しい虐待を繰り返す加害者になってしまうことがあるのです。
以上のとおり、慢性反復的な暴力を受けてきた被害女性が、暴力に支配される関係を断ち切る、つまり、交際相手と別れたり、「婚姻破綻の原因は配偶者によるDVである」とする離婚調停に臨んだりするときには、「暴力のある環境に順応した“考え方の癖(認知の歪み)”」と「暴力の後遺症としてのPTSDの症状」に対するアプローチが欠かせないのです。
これは、被害者の“いま”の問題にフォーカスし、アプローチするだけでなく、“これから”の問題(人生)に対してもフォーカスし、同時進行的にアプローチする必要があるとの考えにもとづくものです。
*-119 「配偶者暴力防止法」にもとづく“一時保護の決定”については、「Ⅲ-25-(3)一時保護」で詳しく説明しています。
*-120 PTSDの症状としての「攻撃防御の機能不全」による子どもへの加害行為の背景には、交際相手や配偶者からの「いまの暴力被害」が“きっかけ”に過ぎず、幼少期に受けた慢性反復的(日常的)な暴力体験が存在していることが少なくありません。
つまり、過去のトラウマ(心的外傷)体験が主原因ということです。
例えば、一時保護をした被害女性が、交際相手や配偶者からの暴行(身体的な暴力)被害はないにもかかわらず、「見つけだされたら、なにをされるかわからない。連れ戻され、殺されるかもしれない。」と強烈な恐怖を訴え続けることがあります。
どのような暴力被害だったのかを訊くと、「やることなすことに干渉され、否定され、非難され、侮蔑され、卑下された」とことばの暴力(精神的な暴力)被害だけを訴えるだけです。
ここには、訴え続ける強烈な恐怖心と直接な因果関係が認められないことになります。
しかし、父親が、母親を大声で怒鳴りつける暴力(DV行為)に、禁止・否定・避難・侮蔑・卑下することばが使われ、しかも、そのあとに殴られたり、蹴られたりしていたのを見たり、聞いたり、察したりしていた(面前DV=精神的虐待)ときには、このトラウマ体験が“強く(トラウマ)反応”した、つまり、強烈な恐怖心を訴える背景となっていると考えることができるわけです。
「こうしたできごとが起きたあとは、必ず、こうしたできごとが待っている」という思考パターンが、過度の恐怖心を生みだします。
 PTSD(心的外傷後ストレス障害)は、SAD(急性ストレス障害)の症状が1ヶ月以上継続しているときに診断されます。
また、PTSDには後発性という特徴もあり、数ヶ月-数年を経て強い症状となって表れるもの特徴です。
一方で、幼児期の虐待体験(面前DVを含む)、思春期・青年期前期のいじめ体験など、慢性反復的(日常的)な暴力被害にもとづくPTSDの症状については、人格の歪みまでダメージが及ぶリスクがあるとする「C-PTSD(複雑性心的外傷後ストレス障害)」への理解が必要になります。
なお、「PTSDとC-PTSDの症状」については、「Ⅰ-9-(5)面前DV、DV環境下で育つ子どもに表れる症状と傾向-子どもがDVの最大の被害者と認識しなければならない意味-」、「Ⅱ-14.トラウマと脳」、「Ⅱ-20.PTSDとC-PTSD、解離性障害」で詳述しています。

② 自覚覚のない間違った考え方の癖(認知の歪み)
 では、暴力に順応するために身につけた間違った考え方の癖(認知の歪み)とはどのようなものかについて、事例178(分析研究14)と通して考えていきます。
事例178(分析研究14)は、「婚姻破綻の原因は夫のDVにある」として離婚調停を申立てたDV被害者のFさんが、委任(代理人)契約を結んでいた弁護士との打ち合わせ、調停委員との調停でのやり取りについて、調停が不調になったあとの援助者(アボドケーター)宛メール文と、その後のやり取りです。

-事例178(DV92・分析研究14)-
・5月31日
2:50  F→援助者宛 …。今見ると私頭おかしいみたいです。それにしても異常に思いました。でもこうゆうこと今までにあったような気がします。自分にとことんうんざりです。…。
12:41 援助者→F宛 …。①「いま見ると、私頭おかしいみたい」、「それにしても異常に思った」とありますが、なに(どのような状況、もしくは、どのようなやり取り)に対しそう感じたのかを詳しく教えていただけますか? 次に、「でも、こういうこと、いままでにあったような気がする」とありますが、以前の似たような状況を説明できる範囲で教えていただけますか?
14:28 F→援助者宛 …。N弁護士のメールのことは、わかってもらいたくて色々説明しているところですかね。4月22日23日あたりです。急に距離をつめすぎているように感じました。N弁護士に気持ちをもっと話した方がいいのかなと思ったのと、本当に苦しかったんだと気づいてもらえたら、調停も多少は違う結果になったりするかなと思いました。わかってくれる!と思って飛びついてガッカリ…のような感じです。以前の似たような状況は、夫・母・姉でそうなりました。他の人(仕事関係)では、(意見が違うと相手の話も聞きていて、でも更にこちらの意見をきいてもらわねばならないときは)、わかってもらうために関係が悪くならない程度に説明してやめるか(相手のいうことを優先しますが納得できず諦めたときもありました)、私に諦めがある(もうすぐ辞めるし)ともういいやとなったりすることもありました。夫・母・姉以外は、ここ最近はなかったです。自分でも、わかってくれる!と思って飛びついてガッカリ…を何回も経験していたので、「なんでなの?!」とはじめは一人で怒っていましたが、「色んな考えがあるから」と思うようになりました。夜中に改めてメールを見て、久しぶりにこの感じ出たわと思いました。
22:10 援助者→F宛 …。さて、「22-23日以降のメールで、わかってくれる!と思って飛びついてガッカリ…」としていますが、N弁護士のどの文面、どのことばに対し、“ガックリ”したのかを教えていただけますか? 次に、2:50のメールの「いま見ると、私頭おかしいみたい」、「それにしても異常に思った」という表現と、“久しぶりにこの感じでたわ”として、上記(メールでは少し詳しく)のように表現されているわけですが、私には、両者の感情表現には大きな温度差を感じます。Fさんの中では温度差はないのでしょうか? さらに、「わかってくれる!と思って飛びつく」という行動習慣によってもたらされる「ガッカリ」という感情が表現されているわけですが、2つのメールの文章をそのまま解釈すると、Fさんは、この行動習慣を行う自分ことを“頭がおかしい”、“異常に思った”と表現していることになります。この行動習慣によってもたらされる感情が「ガッカリ」なわけですから、私には、「またやってしまった」と“失敗した”として、“反省する”範囲のことであって、“頭がおかしい”、“異常に思った”という表現とは結びつかないのです。
              そこで、「2つのメールの文章をそのまま解釈する」という“前提”で間違っていないのであれば、私には結びつけることができないこの部分を埋めていただけますか? もし、この“前提”ではないところに“頭がおかしい”、“異常に思った”と表現しているのであれば、なにに対しての表現なのかを教えていただけますか?
・6月1日
3:17 F→援助者宛  …。“「わかってくれる!と思って飛びつく」という行動習慣を行う自分ことを“頭がおかしい”、“異常に思った”と表現しています。驚きました。ご指摘の通りです。私には普通の感覚でした。温度差があると思いませんでした(いわれて初めて気づきました)。確かに変な話ですね。人を信じて色々話したあとで、大概いつも後悔しています。私にとってはとても重大なことなのに、相手は軽くとったことで、相手に伝わってなかったと思うこともあります。N弁護士に対してはメール以外で直接会ったときや、電話での何となくの話しぶりで、今後の裁判のことを楽観視しているような感じがしたと思います。深刻に話したのに、冗談混じりで笑われて話されたりするとガッカリ、ですかね。一人で感情的になってバカみたい、カウンセラーから洗脳されたみたいともとれるなあと思いました。いまだに、“夫からされたことはモラハラではあったが、DVは大げさ、受け取り方の違い”と思っているのかもしれません。前お話した、自分にブレがあるという状態です。私にとっては、耐えられなくて本当に苦しくて死にたいくらいの1年だったと今でも思っていますが、“夫からされたことはモラハラではあったがDVは大げさ、受け取り方の違い”と思っている私がいます。N弁護士も“モラハラではあったがDVは大げさ”という感じでしたDVで、と私がいったときにN弁護士の表情が止まり、その後違う話のときにモラハラですねーといっていました。私も、話したとしても深刻に話すことはできなくて笑って適当にごまかしたり、軽い話のように話したりすることが多いので、その気持ちの重たさは伝わらないとも思っています。そのくせ相手に同情してもらうのも苦手で、めんどくさいと思われたくないし、平気なふりをするところもあります。人に気持ちをわかってくれたと感じても、話しすぎてうっとうしくなかったかな、押しつけちゃったかな、もう次は話すのをやめようと思います。また、私の話の途中で、相手が話を理解できてないまま(特に途中で話を遮ってくる人に)「あーわかる、◯◯◯でしょ?」と違うことをいわれると、ガッカリして、そこからうまく気持ちを伝えられないことが多いです。相手が夫であろうが、私の気持ちをわかってくれる人であろうが、わかってくれる!と思って飛びつき、ガッカリして(ガッカリしない場合も色々考えるので)疲れるということを自分ひとりの中でやっている感じです。疲れるので、人に話すことをあまりしなくなりました。それがない大丈夫な人もいます。…ここまで書きましたが質問と合っているでしょうか??
8:10 援助者→F宛  …。さて、F田さんは「普通の感覚」と表現されていますが、自分の行動習慣を“頭がおかしい”、“異常”とは表現しません。表現しないとは、“ことば”として頭に思い浮かばせることはないということです。気持ちを表すことば(感情表現)の習得は、親のふるまいとそのときに発することばを赤ちゃんのときから見て、聞いて、察して学び、すり込んでいくものです。つまり、Fさんは、赤ちゃんのときから「おかしい」「異常」ということばを日常的に聞かされて育っているということになります。母親と父親とのやりとり、そこに、姉とFさんとがかかわるやり取りの中で、「おかしい」とか、「異常」といったことばが使われていなかったかを教えていただけますか? さらに、子どものときから家族内で日常的によく使われていた(よく口にしたり、思ったりする)気持ちを表すことば(感情表現)や態度・ふるまいがあれば詳しく教えていただけますか?
12:45 F→援助者宛 …。なるほど…。父が感情的になって大きい声で怒鳴ったり(何をいっていたのかはあまり覚えていません)、逆に落ち着いて「そんないい方はしてはいかんのだ!」といったりしたときも、母は、父に向かって「うるさいわ! あんたのせいで。」のようなことをいい返していたと思います。母の「あんたのせいで。」はすごく頭に残っています。ケンカが終わった父への母の感想は、「あの人おかしい。異常だわ。」だったような気がします。そんな母に「そうゆうことFの血が入っている。」といわれると、私はとてもショックな気持ちになってしまいました。
母は口を開ければネガティブな発言ばかりです。私が何かいって母がそれに同調してなにかつけ加えるときには、「違う。」からはじまります。「違う。◯◯◯なんでしょう?!」、「違う。◯◯◯ってことなんだわ。」といい方を変えられたりしました。「え? 何が違うの? それって同じじゃない?!」といってみようものならば、「そんなんなら、何も話せんがね。でしょう?!」と返ってきました。母の意見のあとの「でしょう?!」、特に「普通、◯◯◯でしょう?!」というのがありました。
今朝のことですが、うちの猫が吐きました。よくあることで、吐いたものは、猫ごはんの匂いなのでそんなに気持ち悪いものでもなく、汚れると困るくらいです。でてきたものを見ると、毛がいっぱいで吐くときの音が苦しそうなので、ブラッシングしてあげなきゃと思います。母は「やだねえ。」、「やだ、じゅんちゃん汚い!」といいます。私も今日の猫のようにそういわれていたのか、幼稚園のころから吐くのが怖わくて、20年以上、吐くことができませんでした。いまでも吐くことができないので、胃腸炎が流行るととても恐怖を覚えます。
 母から聞いた父の発言は、「キチガイ」、「洗濯おばさん」ですかね。父のことばはあまり覚えていません。私の結婚を機に、父と会うようになりましたが、父はネガティブないい回しはしない人だと思いました。
姉は、昔は口が悪かった。包み隠さずハッキリいう人で、私が高校生か大学生のころ、母によく「うるさいなーこの嫌みババア(笑)」と冗談ぽくいっていました。私はいつもその母の話に乗り、話を聞いていました。…。

 暴力のある家庭環境で育ち、再び、配偶者から暴力被害を受けることになった“考え方の癖(認知の歪み)”、つまり、Fの「私、頭おかしかった」、「異常に思った」という表現と、Fの実際の感覚に“温度差”があることが示されています。
その原因は、6月1日12:45のメール文に記載されているとおり、母親が父親を非難する表現のひとつであり、Fが、乳幼児期から日常的に耳にしてきたことばであったわけです。
したがって、Fにとっては、「頭がおかしい」「異常」ということばには、特別な意味、重大な意味はないのです。
暴力のある家庭においては、「お前の頭がおかしい」、「お前は異常だ」、「キチガイ」といったことばは、「バカやろう」、「アホか」、そして、「でて行け!」、「死ね!」ということば同様に常套句、日常的に使われていることばです。
 DV被害者や虐待被害者の話を聴くとき、被害者の使うことばや表現方法には、“温度差”があるかもしれないと前提で、事例178(分析研究14)のように、ことばの使い方や意味をていねいに訊き、そこで把握した内容(事実)を被害者と共有していくアプローチが欠かせないのです。
Fは、メールの中で、N弁護士とのやり取りで、わかってもらえないこと、意図が伝わらないことに対しての失望感を記しています。
そして、家族、学校、職場の人間関係においても、同様のことが繰り返されてきたことを記しています。
こうした失望感は、ことばの使い方や解釈に“温度差”があり、それを埋めるプロセスをないがしろにしてきたことが原因です。
しかし、暴力のある家庭環境で育ってきた人には、このプロセスをないがしろにしているという感覚そのものが存在していないのです。
なぜなら、「わかってくれる、認めてくれる=味方」、「わかってくれない、認めてくれない=敵」と二元論で考えてしまうからです。
この間を埋めるためのアプローチは存在していないので、「わかってくれない、認めてくれないのであれば、もう、かかわらない」と極端な考え方に終始してしまうのです。
 暴力のある家庭環境で育つということは、絶対君主である親から子どもへの一方通行のやり取りしか存在しないのです。
双方向のやり取り、疑問や不明点を確認して温度差を埋める(理解を深める)やり取りを通して、はじめて共通認識、共通言語にすることが可能になります。
しかし、暴力のある家庭環境では、こうしたプロセスを通じて相互に信頼感が生まれることを学ぶ機会が、奪われていまうのです。
つまり、対人スキルを身につけていないので、人とのかかわりそのものが、不安で、恐怖なのです。
そのため、不安や恐怖に対して、攻撃して不安を排除しようとするか、不安を避けて触れない(かかわらない)ようにするのか(回避)、心を閉ざしたり、鈍感になったりすることで不安を感じないようにするか(感覚鈍麻)が行動習慣となります。
 Fは、6月1日3:17のメールで、「私にとっては、耐えられなくて本当に苦しくて死にたいくらいの1年だったと今でも思っていますが、“夫からされたことはモラハラではあったがDVは大げさ、受け取り方の違い”と思っている私がいます。」と記しています。
 Fが表現した「耐えられなくて本当に苦しくて死にたいくらいの1年だった」については、夫に「ねえちょっと」といわれるだけで「またなにかやってしまった。怒られる」と恐怖がよみがえり緊張したり(再体験)、帰宅が怖く家に入れずにいたり(回避)、夫がお風呂からでた音、強く扉を閉める音がふるえあがるほど怖くていつも緊張し、心臓が締めつけられるように感じたり、責め立てられる夢を見て起きてしまったり(過覚醒)するといった症状に悩まされ、食事が喉を通らなくなり、夫が側にいると思うと眠れず、体調不良が悪化していった状態を指しています。
再体験、回避、過覚醒は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の主症状です。
その後、離婚を決意し家をでて実家で別居をはじめたFは、転職しました。
転職した職場で、女性の上司からちょっとした注意を受けただけで怖いと恐怖を感じ、ミスをしたらどうしようと焦り、仕事に支障がでるほど手がふるえ、また、離れた場所で、同僚が大きな声で誰かを非難している声が聞こえてくるだけで怖くなり、身が竦んでしまうようになり、仕事をすることが苦しく、毎日胃がちぎれそうな思いで出勤していましたが、1ヶ月で退職することになりました。
 Fは、こうしたPTSDの症状に苦しむほどの暴力を夫から受けてきたわけですが、「モラハラであってDVは大げさ」と表現するのには、Fが、『父が大きな声で怒鳴り、殴ったり、叩いたり、ものを投げたりしていました。母もいい返しものを投げ、姉は「お母さんがかわいそう」、「お前なんか父親じゃない」と母をかばっていました。私はそのやりとりすべてが怖くて、ひとりで布団の中に入り泣きながら過ぎ去るのを待っていました。』と幼かったときの記憶を述べているとおり、Fが暴力のある家庭環境で育ち、暮らしてきたことが影響しています。
そして、6月1日12:45のメールで、母親が「違う」と否定することばを常套句としていることを記しているとおり、Fは否定と禁止のことばの暴力を浴びせられて育ってきたことを示しています。
しかし、Fはこうした表現をしていても、育った家では「暴力があった」と一度も表現することがなく、そのことを指摘されても他人ごとのように受け流してしまいました。
なぜなら、親から暴力(虐待)を受けてきたことを受け入れることは、親に大切にされてこなかった、存在そのものを認めてもらえなかったことを受け入れることになるからです。
そのため、多くの暴力のある家庭環境で育ってきた人たちがそうであるように、そのことを認めたくない心理が働くのです。
そして、「被虐待者」と指摘される(このことばを使われる)ことに激しく抵抗します。
 Fの父親が母親に対しておこなった行為はDVそのものです。
同時に、Fの姉とFは面前DV(精神的な虐待)の被害者であり、夫からDV被害を受けている母親から否定と禁止のことばの暴力を浴びせられ、あらゆることに詮索干渉され、同時に、母親の愚痴聞き役も演じなければならなかったように、精神的な虐待の被害者です。
この事実を受け入れることができないために、夫からの暴力を「DVである」と認識できないのです。
なぜなら、Fは、夫の暴力をDVと認識してしまうと、父親と母親の暴力の関係はDVそのものであり、自身がDV環境で育ったことを受け入れなければいけなくなるからです。
これも、(C-)PTSDの主症状の「回避」に該当するのです。
DV被害者や虐待被害者の多くは、こうした「回避」にもとづく、認知の矛盾を抱えています。
このことが、第三者にDV被害を正確に伝えることを難しくさせている大きな要因となっているのです。
 したがって、この温度差を埋めたり、正確な被害状況をひきだしたりするのは、援助者の役割ということになります。
そして、援助者がこの温度差に気づくには、暴力のある家庭環境で育つことが、特に、「感情」「ことば」をどのように獲得することになるのかに深い知識が必要になります。

 次の事例179(分析研究15)では、幼い子どもを抱えた母親が、DV被害の状況を正しく認識できずにいたことが、監護権指定の審判において生じた悲劇を考えていただきたいと思います。

-事例179(DV93・分析研究15)-
※ 現在、掲載にあたり、本人の承認待ちです。


 第三者に正しく伝えることができない理由は、DV被害者の多くが、暴力のある環境に順応するための“思考・行動習慣(考え方の癖のことを認知の歪みといいます)”を身につけていること、さらに、PTSDの症状(侵入(再体験)・過覚醒・回避)が表れていることによって、DV被害の状況を正しく認識することが難しいからです。
このことが、DV被害者が、DV被害を相談する女性センター、警察、弁護士、そして、離婚調停がはじまると2名の調停委員や家庭裁判所調査官(子どもがいる離婚事件)、裁判官に、DV被害の状況を理解してもらえなかったり、被害者でありながら理不尽な思いをさせられることになったりする大きな要因になっています。
 DV被害者がDV被害を正しく認識するということは、どのような暴力を受けてきたのか、暴力がどのような状況で、どのようにして暴力がおこったのかをことばにする(話をしたり、文字にしたりする)ことで再現し、言語化し、再確認していく作業が必要になります。
この作業は、PTSDを発症した人が、その回復を意図した認知行動療法(暴露療法)としての第1ステップ、つまり、「トラウマの再体験」を意図的におこなうことを意味します*-121。
DV被害の状況を第三者に正しく伝え、DV被害の構造(本質)を正確に把握してもらうため、そして、DV被害により発症したPTSDからの回復には、この厳しくツラい作業は欠かせないのです。
この作業は、本来、DVや虐待被害によるC-PTSD(複雑性心的外傷後ストレス障害)*-122、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に精通した専門医のもとで、時間をかけて、被害者の心の状態との兼ね合いをはかりながら、被害者のペースで進められるものです。
しかし、問題は、「婚姻破綻の原因は夫のDVにある」として夫婦関係調整を求める離婚事件では、家庭裁判所によって、開催日、反論する書面や証拠などの提出は“いつまでに”と「期日」が設けられるということです。
つまり、家庭裁判所が設定する“期日”に縛られる中で、“なにをされてきたのか”“どのような状況におかれてきたのか”を明らかにしていかなければならないのです。
この状況は、DV被害者に精神的な負担を強いるものです。
なぜなら、DV被害者にとって、トラウマを再体験する作業にとり組むことは、「気が狂うのではないかと思うほど、苦しかった。」、「同居中に夫に非難され、責められているときの夢を見て、怖くて目が覚めた。真冬なのに寝汗をびっしょりかいた。「夢だから、夢だから」と自分にいいきかせ、気持ちを落ち着かせて横になった。」と心境を語るほどツラく苦しいものだからです。
 多くのDV被害にあった人たち、そして、虐待のある家庭で育った人たちに共通しているのは、「Ⅱ-10-(2)-③回避」で、『アフガンなどの戦地(紛争地)から帰還した兵士たち、ナチスのユダヤ人の虐殺から国を捨て逃れた人たち、沖縄で地上戦に巻き込まれた人たち、そして、淡路阪神大震災や東日本大震災で被災した人たちのように、トラウマ的な体験となったできごとを黙して語らないようにしたり、それに類する場所に決して近づこうとしなかったりするのも回避行為です。』と記しているとおり、“なにをされてきたのか”“どのような状況におかれてきたのか”をことば(言語・文字化)にすることは、トラウマの再体験として加害者から暴力を受けている恐怖が呼びおこされることになります。
そのため、多くのDV被害者や被虐待者は、無意識的にトラウマの再体験とつながる行為を避けようとしたり、心が強く拒絶してしまったりすることから被害状況を正しく認識することができず、治療に辿りつくことができずにいます。
 このPTSD主症状のひとつの「回避行動」は、離婚調停での話合いで合意され、家庭裁判所が作成する「離婚調書(調停条項)」に「面会については、第三者機関を利用し、日時・場所・方法等については、子の福祉に配慮し、第三者機関の定めるルールに従う。」と明記されたDV離婚事件で、面会交流を実施するときに表れることがあります。
それは、第三者機関(エフピックなど)の事務所が、DV加害者の元夫との交際時によく訪れていた土地(地区)であることから、被害者がその土地に近づきたくないとの思いで「事前面談」を避け続けたり、面談日が近づくにつれて「子どもを父親に会わせるのは嫌だ。止めたい」との思いが強くなり、「子どもが父親に会うのを嫌がっている」との理由に置き換えて、面会を拒もうと必死になったりすることです。
その結果、家庭裁判所(元夫から「約束した面会交流に応じない」との訴えに応じて)から「履行勧告」を受け、元夫から監護権変更の審判を申立てられる事態を招くことがあります。
合意したけれども、元夫とかかわることを回避しなければならないとトラウマが反応した結果、新たに家庭裁判所を介して、元夫とかかわらざるを得ない(争わなければならない)状況をつくりだしてしまうことになるのです。
そして、「子どもが父親に会うのを嫌がっているので、会わせることはできない。」、「面会交流は母親や子どもへの精神的負担が大きく、実施することはできない。」との訴えに対して、家庭裁判所は、「調停で合意された約束を守り、履行することに努力していない」として厳しい対応をすることになります*-123。
 加害者である父親と子どもが面会交流をおこなうことが決まったDV離婚事件では、本人は無自覚であってもPTSDなどの症状を抱えているDV被害者には、離婚後も、DV被害者や虐待被害者が示す被虐待女性症候群(バタードウーマン・シンドローム)などの傾向、PTSDの症状などに精通した者(専門のトレーニングを受けた援助者)のサポートが必要不可欠なのです。
そして、暴力のある家庭環境から離れることができた子どもに対して、どうかかわるかという問題とも深くかかわるものです。
日本では、性暴力被害者に対し、性暴力暴力被害に関して支援するための訓練を積んだ医療者、警察、相談員、援助者などの多職種の専門家による連携体制を構築して対応する「SART((Sexual Assault Response/Resource Team;性暴力被害対応チーム。日本では「ワンストップ支援センター」)のとり組みがはじまったばかりです*-124が、「侵入(再体験)」「過覚醒」「回避」といったPTSDの主症状に加え、「解離」「感覚鈍麻」などを症状が表れているDV被害者に対する対応においても、同様の「対応チーム(女性センター、援助者(アボドケーター)、児童相談所・保健センター、DV・児童虐待に関して支援するための訓練を積んだ医療者、弁護士など)」でかかわることが必要だと考えます。
そして、DVや虐待の被害者支援に携わる人(小学校の教職員、自治体の女性相談員や担当職員をはじめ、保健師、保育士、民間の援助者、精神科医、子どもシェルターを運営している弁護士など)には、「DV被害の当事者だからこそ、被害の状況を正しくことばにすることができない」ということを理解しておくことが大切です。
事例179(分析研究15)では、母親の訴えに従い子どもを一時保護委託することを決定した児童相談所の職員が、母親による虐待案件なのか、父親(夫)の母親(妻)に対するDVによりPTSDの症状でパニックになっているDV案件なのかを見極めることができれば、違った結果になった可能性が髙いだけに残念です。
*-122 C-PTSDとPTSDとの違いなどについては、「Ⅱ-14.トラウマと脳」、「Ⅱ-20.PTSDとC-PTSD、解離性障害」で詳しく説明しています。
*-123 「婚姻破綻の原因はDVにある」とする離婚事件における「面会交流」のあり方については、「Ⅲ-27.悩ましい面会交流。いま司法はどのように捉えているか」と1節を設けて、詳しく説明しています。
*-124 「SART(性暴力被害対応チーム)」については、「Ⅳ-32.性暴力被害者支援の連携体制、SART(性暴力被害対応チーム)」で詳しく説明しています。

③ 安定した穏やかな生活は心地よくない。シェルターに不信感を抱く
「騙されてシェルターに入れられたDV被害者が、子どもを児童相談所にとりあげられ、児童相談所と闘っている」と訴えるブログを読み、…」と記しているとおり、DV被害を訴え、一時保護の決定がされてシェルターに入居した被害者、そして、DV被害者であっても、PTSDの症状などで精神的に不安定で子どもの養育に支障がある(ネグレクト、身体的虐待など)とされ、児童相談所が子どもを児童養護施設に入居せざるを得なくなった被害者の中には、シェルターや児童相談所、そして、弁護士に不信感を抱いていることは少なくありません。
また、シェルターに入居したDV被害者には、強いPTSDの症状(うつ症状を含む)を起因とするパニックをおこしたり、情緒が不安定であったりすることが少なくありません。
その程度如何では、ネグレクトに発展する可能性が高いと判断されたり、感情をコントロールできずに大声で怒鳴りつけたり、叩いたりする虐待の事実が確認されたりすることもあります。
それだけでなく、虐待を受けて育ってきた子どもに重い障害が認められ、子どもが児童相談所(児童養護施設、乳児院、障害児入所施設、情緒障害児短期治療施設)に預けられたりすることもあります。  こうした事態になったとき、自己と他の境界線があいまいな母親は、子どもとひき離された現実を受け入れることができず、”自分のものを奪われた”と敵意を表すことがあるのです。
そうした強い不満を持ったDV被害者は、「騙されてシェルターに入れられ、子どもを児童相談所にとりあげられ、児童相談所と闘っている」とサイトで訴え、怒りの感情をぶつけるのです。
その怒りの感情は、怒りの感情を抱える人の心を惹きつける魅力にあふれたものです。
その結果、DV被害者でありながら、他の家庭のDV加害者を支援するといった歪んだ構造がつくられているのです。
当然、男性が世の中心で女性は男に尽くす者という考えで、「配偶者暴力防止法」や「児童虐待防止法」の存在を疎ましく思っている弁護士もいるわけです。
こうした弁護士にとって、冤罪DVという事案、つまり、仕事(マーケット)が存在することになるわけです。
被害者本人はもちろんですが、被害者を支援する者は、こうした事実を把握しておくことも重要なことです。
また、福祉事務所の職員から「施設に入ってもらったのに、どうして家に戻ってしまうのでしょうか?」と訊かれることがあります。
この問に対しての回答は、「Ⅰ-8.被害者心理。暴力でマインドコントロールされるということ」などで述べてきましたが、ここでは、施設への不満感情を踏まえて説明しておきたいと思います。
そこで、母子棟に入居した被害者から支援者宛に届いた1通のメールに目を通していただきたいと思います。

-事例180(DV94・分析研究16)-
一時保護を受け、母子棟に入居しているDV被害者から支援者(アドボケーター)宛に届いたメールには、『・・市・・母子ホームのUという先生が人のことをバカにしたり、私の話を聞かないで勝手に物事を決めつけたり、時間内に帰ってきてるのにもかかわらず、文句をいったり、私と彼氏のことを離れさせようとしたり、侮辱したりしてきます。
規則やマナーを破ったこともないのにもかかわらず、外出禁止といういわゆる、監禁状態にさせようとしています。
携帯電話もとりあげられ、友だちに連絡もとれず、毎日ストレスがたまってたまってどうしようもありません。
言葉の暴力なんか日常茶飯事ですし、どうしていいかわかりません。こんなところに居たくない。通報したい。消えてほしい。』と書かれていました。

交際相手や配偶者からの暴力に耐え切れず、シェルターに逃げ込んだものの恐怖の瞬間が去ると同時に底知れない寂しさに耐え切れなくなり、交際相手や配偶者のもとに戻ってしまうDV被害者は決して少なくはありません。
こうした「見捨てられ不安」を抱えるDV被害者は、役場の職員や施設の職員に「暴力はなくならない。だから、別れてなきゃ。」となげかけられても受け入れられず、反発するようになります。
職員のそうしたことばは、親や交際相手、配偶者がそうであったように、命令、詮索干渉されていると心が反応し、避けようとします。
それが、反発という姿勢に表れるのです。
第1章(密接な関係。児童虐待とドメスティック・バイオレンス)、第2章(児童虐待と面前DV。暴力のある家庭環境で育ち、暮らすということ)を通じて、こうした反発も暴力で傷ついた反応(トラウマ反応)のひとつであることを理解していただけるのではないでしょうか?
加えて理解しておく必要があるのが、「Ⅰ-7-(3)2事例で検証する「なぜ、別れられないのか?」」でとりあげている「事例116(分析研究11)」の中で、「人の脳は“快楽刺激”を優先する」と記しているように、人の行動は、本能(欲求)が優先されるということです。
第2次世界大戦後70年(平成27年8月15日現在)を経過したの日本で、極限の生活のひとつは、真冬のホームレス生活と例えることができるかもしれません。
緊急一時保護センター(東京都と都内23区の「路上生活者自立支援事業(ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法(平成14年、10年間の時限立法))」)に、就労意欲があるとして保護された路上生活者は、温かい寝床と3食の食事(弁当とみそ汁)、そして、(2日おきの)温かいお風呂などを与えられ、「ありがたい。」、「助かった。」と感謝のことばを述べます。
しかし、1週間ほどその生活が続くと、「弁当が冷たい。」、「まずい。」など不満を口にするようになります。
缶集めなどでお金を得ていた者は、得たお金で自由に買い物ができていました。
しかし、緊急一時保護センターでは、自由になるお金がなく、お酒を買うことができません。
どの施設に行くのかのアセスメントまでの2ヶ月間は、3食の食事をとること、入浴をすること、治療を受けるなど心身のケアをすることが目的であることから、いかなる労働であっても働いて収入をえることは禁じられています。
そのため、2週間ほどすると、ルールに縛られた緊急一時保護施設から「早くでていきたい。」と口にするようになります。
その「早くでていきたい」ということばは、アセスメントで働くことが可能と判断された者は、就労支援をおこなう次の施設に移り、ハローワークに通い就職先を探す意欲を示すものではなく、そのときに一時金としてわたされる2,000円が目当てなのです。
その2,000円でワンカップの酒を買い、酒を体に染みわたらせたい思いから発することばなのです。
就労支援をおこなう施設でも飲酒は禁止ですから、仲間と酒を飲んで、施設に帰らず、ホームレス生活に戻っていくのです。
こうした路上生活者のひとつの思考・行動パターンは、人の脳は、安全・安定した生活よりも、“快楽刺激”を求めることを示す典型的な例です。
このことは、薬物、アルコール、ギャンブル、セックス、暴力による快感が、「生理的欲求」、「安全の欲求」よりも優先することを明確に示しています。
例えば、ギャンブル依存状態は、過去の負けた嫌な記憶(総額いくら負けているのかといったブレーキとなる記憶)は残さず、勝ったときの“悦に浸っている瞬間”だけの記憶を残すことになることから、歯止めたがきかなくなります。
「生理的欲求」、「安全の欲求」というのは、「Ⅰ-8-(4)暴力、洗脳、マインドコントロール」の「*-96」で説明しているマズローが論じた欲求5段階説で示された「人の欲求には段階があり、ひとつの欲求が満たされる次の欲求を満たそうとする」というものです。
つまり、人は、食べること、排泄すること、寝ることなど、人として生命を維持する最低限のことを求める欲求(生理的欲求)がみたされたると、次は、誰にも脅かされることなく、安心して食事や睡眠がとれる場所を求めるようになります。
雨風をしのぐための住まいを求めたり、戦争や紛争がない環境で生活したいと願ったりする(安全の欲求)ということです。
“酒を飲みたい”との強い欲求(快楽刺激)は、ときに、生理的欲求を凌駕してしまうわけですから、人が、薬物、アルコール、ギャンブル、セックス、暴力で得られる強烈な刺激(快楽)を優先してしまう状況に陥っているとき、「身の破滅させる」、「犯罪者となる」、「家族を破綻させる」といったことばは抑止にはならないのです。
事例180(分析研究16)の支援機関にメールを送られた被害女性は、交際相手からの暴力から逃れるために、一時保護を求め、シェルターに入居することになりました。
その瞬間、被害女性は「生理的欲求」、「安全の欲求」を満たすことになります。
先の緊急一時保護センターに入居した路上生活者の人のように、しばらくは、暴力に怯えずに眠る安全で安心できる生活環境に安堵します。
しかし、その安全で、安心できる生活に慣れはじめると、また、日常的におこなわれていたメールやLINEを使ったやり取りを楽しんだり、フェイスブックなどのSNSに日々の写真を投稿して何件の「いいね」があるのか楽しみに待ったり、友だちとカラオケに行き楽しんだりしたいとの思いがふつふつとわきはじめます。
被害者に訪れるこうした状況は、マズローの欲求5段階説では、人は、安心して食事や睡眠がとれる環境が整うと、今度は、なにかをいっしょにしたり、話し合う仲間が欲しくなったり、なにかの集団(グループ)に属そうとしたりする欲求が強くなっていく(社会的欲求)ことを示すものです。
仲間をつくれなかったり、集団・組織になじめなかったりするなど、この社会的欲求が満たされないと、人は、孤独感や社会的不安感を抱くようになります。
そのため、暴力のある家庭環境で育ち、強い「見捨てられ不安」を抱えている被害者の中には、思春期後期になり、嫌な思いをさせられる暴力のある家庭に寄りつかなくなったり、援助交際をして生活費を稼いだり、しばらくの間、過ごす場所を確保するために男性の家に身を寄せたり(宿カレ)しながら、家庭でのツラい体験の記憶を残さず、そのひとときの楽しさ(快楽刺激)溺れた記憶を残すことで心のバランスとらなけれえばならなかった被虐待者と同じ心理状況が表れることがあるのです。
安全で、安心できる環境を手にすることができたとき、暴力によるダメージの大きさは関係なく、交際相手や配偶者に抱いている恐怖心の差が表れることになります。
それは、安全で、安心できる環境を手にすることができたとき、「見つけだされ、連れ戻されること」、「連れ戻されて、再び、激しい暴力を受けること」への恐怖心が残り続けるのか、それとも、安全な場所で嵐が過ぎ去るのを怯えながら待ち続け、嵐が去り青空が見えた瞬間、嵐に怯えていた記憶は吹き飛んでしまうのかの違い(差)です。
後者の場合、青空のもとへ飛びだしていきたいのに、規制がかかっているわけですから、事例180(分析研究16)の被害女性のように、“この状態”に、強い不満を抱くことになるわけです。
また、そのひとときを楽しむ(快楽刺激)ことで、ツラい日常と向き合うことを避けて(回避して)きたわけです。
つまり、地に足のついていないふわふわした危うさを抱えている人たちということです。
この危うさを抱えているDV被害者は、加害者から謝られたり、優しく甘いことばをなげかけられたりすると(“情”を刺激されると)、楽しかった記憶、優しくされた記憶快楽刺激)が勝り、加害者のもとに帰ることになるわけです*-125。
この「手引き」においても、支援者のとり組む”姿勢”とか、被害者や加害者の決意とか、覚悟とかいうことばを使用する機会が多々ありますが、暴力のある家庭環境には、なにかにとり組むための姿勢とか、新たなことや目標を達成する(成し遂げる)ための決意とか、覚悟とか、約束を守るいった世界観は存在していないのです。
このことを理解することができれば、覚悟がないことに苛立ったり、約束を守らないことに怒りを感じたり、失望したりすることはなくなります。
支援者は、それも、暴力のある家庭環境で育ってきた者の特性という事実(情報)として受けとることが大切なのです。
重要なことは、次の策(対応のあり方)を模索するうえで、有効な事実(情報)が得られたと考え、支援に生かすことです。
*-125 一方で、DVや虐待案件に携わる者(支援者)は、ときに、被害者や当事者の反発した態度に”わがままだ!”と苛立ちを感じたり、加害者のもとに帰ってしまうふるまいには「どうなっても知らないから!」と怒りを感じたり、「助けることができなかった」と失望感を抱いたり、助けることができなかった事案が続くと、「自分(たち)はなにもできない」と強烈な無力感に襲われたりすることがあります。


(3) 暴力をエスカレートさせない。「脅し」のことばには「ノー」と
交際相手や配偶者からの暴力は、“なにか”のきっかけで、突然はじまります。
その暴力のほとんどは、被害者にとって、なぜ暴力がふるわれることになったのか理由がわからず、理不尽なものです。
理不尽な暴力行為であっても、「暴力行為は、いかなる理由があっても決して許してはならない」と、交際相手や配偶者と別れる決断をしないとき、暴力行為に及んだ者は、その暴力行為を受け入れられた(容認された)と認識します。
その結果、その暴力は少しずつエスカレートしていきます。
そして、あるとき一気に沸点に到達したような激しいものになります。
「なにかのきっかけ」による最初の暴力は、殴ったり、蹴ったりする“身体的な暴行”とは限りません。
交際相手や配偶者が、①「テメエは…」、「お前は…」などと名前を呼ばなくなったり、②「チェッ、勝手にしろ!」と舌打ちして突き放すようなことばを口にしたり、③「俺と…のどっちが大切なんだ!(「…」は家族、友人、仕事、部活や習いごとなど)」と選ばせたり、④友人や家族と過ごすことに詮索干渉したり、職場や学校の終業時間に近くに迎えにきていたりするようになったり、、⑤あからさまに無視したり、⑥威圧的な嫌な顔をしたり、雰囲気をかもしだしたり、⑦ドスをきかせた威圧的ないい方をしてきたり、⑧「どうなるかわかっているんだろうな!」脅すようないい方をしてきたり、⑨大きな音を立ててドアを閉めたり、⑩物を投げたり、ゴミ箱やいすを蹴ったりする人物であるとき、以降、DV行為は、ひどくなっていくと理解することが重要です。
そこで、重要なことは、上記の①-⑨は、「精神的な暴力(ことばの暴力、詮索干渉・束縛)」、⑩は「身体的な暴力」に該当する、つまり、すべて「DV行為」と認識できているかということです。
交際相手や配偶者からの暴力被害が長引いてしまう理由のひとつとして、上記のような行為を、「DV(ドメスティック・バイオレンス)」「暴力」と認識していないことがあげられます。
そして、最初に、上記のような言動やふるまい(態度)をしたとき、交際相手や配偶者が、自分のもとから離れていかない(別れる決断をしない)ときには、自分と上下関係、支配と従属の関係を結べる人物と認識されてしまうことになります。
特に、出会ったときに、大判ふるまいをしたり、夢物語を雄弁に語ったり、出会いは運命である位置づけたりする交際相手に対し、なにかおかしい、うさんくさい、騙されないとフィルターをかけられず、友人や親族など近しい人たちの忠告があったときにも、「あの人のよさは私だけが知っている」と反対を押して、頑なに交際を続けているときには、上記のような行為を「DV」「暴力」と認識ができていないケースが少なくありません。
つまり、交際相手や配偶者に対し、上下の関係、支配と従属の関係の持ち込もうとする者は、自分の言動やふるまいに対し、どのように反応するかを確認している(試している)、つまり、自分に対して、なにかおかしい、うさんくさい、騙されないとフィルターをかけられない相手を選んでいるのです。
「試し(確認)」と記しているとおり、ひとつの行為に「No!」のサインがなければ、「これらの行為は、受け入れられている(しても問題ない)」と認識し、嘘やつくり話で騙してコントロールするレベル、暴力でコントロールするレベルを一段ずつあげて確認していく、つまり、少しずつ暴力がエスカレートしていくことになります。
 では、交際相手や配偶者に対し、上下の関係、支配と従属の関係の持ち込もうとする者を見極めるにはどうしたらいいのでしょうか?
 それは、「お前は…」、「俺の女が…」、「俺の嫁が…」といったいい方をするか、しないかです。
なぜなら、「お前は…」といういい方は、相手を対等な人物という認識はなく、卑下し(見下し)、侮蔑して(バカにして)いることに他ならないことから、上下(男性が上で女性が下)の関係性、支配と従属(女性は男性に従順で、絶対服従を誓う)の関係性が当然という考え、価値観の持ち主であることを示し、また、「俺の女が…」といういい方は、自分のモノという意識が強い、つまり、支配欲が高い人物であることを示し、「俺の嫁が…」といういい方は、家意識が高く、嫁いできたら家のしきたり、やり方に従順に従うのが当然であるという考え、価値観であることを示しているからです。
つまり、女性は男性、そして、嫁いできた家に対し、違う考えを示したり、反論をしたりすることを許さず、従順に従い、絶対服従を誓うことが当然と考えている人物であるわけです。
逆に、「お前は…」「俺の女が…」「俺の嫁が…」といういい方に対し、違和感を覚えず、「No!」をつきつけないとき、それは、「家意識」、「ジェンダー観(性差、性の役割)」に似通った感覚を持っている、つまり、似通った考え方の家庭環境で育ってきていることを意味しています。
このことは、男性が上で女性が下という上下の関係性、支配と従属の関係性を受け入れていることを意味することから、“より強固”な上下の関係、支配と従属の関係を構築できると認識されてしまうことになります。
 つまり、この人物は、「パワー(力)を使いやすい」、「パワー(力)を受け入れやすい」と認識されるということです。
この人物はパワー(力)に恐怖心を感じやすく、パワー(力)に屈しやすい、つまり、この人物は、恐怖を与えれば、思い通りに支配できると確信されるのです。
例えば、思わずビクッとしてしまうような態度をとったとしても、この人物は、「わたしになにか落ち度があったのだろうか」と“自分の方に非があった”と考え、「仕事でなにか嫌なことがあったのだろうか」と、“きっと、…に違いない”と考えで、先回りをして、相手の気持ちを察し、暴力的行為そのものの是非を判断しない(問題にしない)ことを知っているのです。
しかし、交際相手や配偶者が、上記のような「DV行為」、つまり、「暴力行為」を本意ではなくても“肯定している”と認識されている状態は、決して好ましいことではありません。
恫喝や脅しのようないい方をされたり、罵倒されたり、否定・侮蔑・卑下されたりすれば、誰だって不愉快です。
こうしたやり方は、そもそも対等な関係ではありえないことです。
したがって、交際相手や配偶者がこうした態度をとったときには、「嫌だから止めて欲しい。」とはっきりいわなければならないのです。
もし、「もしかしたら、私がいけなかったから(いたらなかったから、悪かったから)」と口をつぐみ、「私は嫌だ」との思いを「いってもしょうがない」、「いっても無駄だから」と口にすることができずにいると、先に記しているとおり、交際相手や配偶者は、それでいいと思ってしまうことになるのです。
その結果、どんどん横暴な態度、要求がエスカレートしていくことになります。
先に、似通った「家意識」「ジェンダー観」を持っていると、似通った考え方の家庭で育ってきていると記していますが、上記①-⑩の行為は、DV行為(暴力)そのものであるわけですから、仮に被害女性がこうした暴力を暴力と認識できなかいときには、程度は別にして、なんらかの暴力のある家庭環境で育ってきていることになります。
「なんらかの暴力」には、両親間の暴力を目撃する(面前DV=精神的虐待)ことに加え、いき過ぎた教育、過干渉・過保護など、親が子どもを支配する行為すべてが含まれます。
こうした家庭環境で育ってきた者は、そうでない者に比べて、「暴力をふるうのは、それなりの理由があるからに違いない」、「夫婦(交際相手)のことだから、暴力をふるわれても仕方がない」と暴力を容認して(受け入れて)しまいやすい傾向があります。
また、子どものときのように、「家庭内に暴力があることは、誰にも知られてはいけない」と隠そうとしたり、「きっと知られていると思うけど、私は大丈夫、そんなこと気にしていないとふるまえばいい」と気丈にふるまおうとしたりすることが少なくありません。
中には、「暴力を受けること=自分が悪いから」という考え方の癖ができていると、「自分が欠陥品(恋人や妻として失格の烙印を押されてしまった)」であるかのような認知が構成されやすいことから、「自分のことを恥ずかしい」という思い(恐怖感情)を抱えていることがあります。
このとき、「恥ずかしい自分を、人にさらしたくない」と、暴力被害を口にすることを避けようとするだけでなく、必死に隠そうとします(回避行動)。
それでも、交際相手や配偶者の理不尽な“力による支配”は、決して許してはいけないのです。
“脅し”を含んだり、“否定”や“侮蔑”、“卑下”の意味を含んだりしている言動には、はっきりと「No!」といわなければならないのです。
「お前の家事のやり方がノロノロしていて気に入らない!」、「顔を見ていると腹が立つ!」などの自分勝手な理由で暴力に訴える行為は、「道端で肩がぶつかったから」、「後ろの車がクラクションを鳴らしてうるさかったから」という理由で、他人を殴るのと同じなのです。
恋人同士のことだから、夫婦間のことだから、家の中のことだからと自分自身にオトシマエをつけてはいけないのです。
このような言動や行動が“許容されてしまう”と、次の暴力につながっていき、その結果、家庭が、暴力で支配された無法遅滞と化してしまうことになります。
かつてニューヨーク市のジュリアーニ市長は、「割れ窓理論」にもとづく対策を採用し、地下鉄構内、街中の落書き消しを徹底し、無賃乗車などの軽犯罪や違反行為を厳しく取り締まることで、1994年から2001年の7年間で、犯罪件数を57%、殺人件数を66%減少させ、治安を劇的に改善することに成功しました。
「割れ窓理論(ブロークン・ウィンドウ理論)」とは、アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングが考案したもので、割れた窓を放置していると、“誰も注意を払
っていないという象徴”となり、次いで別の窓が破られ、あるいは他の違反行為を誘発するというように、小さな違反行為を放置しておくと、次第に無秩序感が醸成され、それが大きな治安の悪化につながるというものです。
窓が割れた車、自転車のかご、空き地に捨てられたひとつのゴミが放置されると、次々とゴミが捨てられていくのをよく見かけると思います。
この考え方は、組織におけるコンプライアンス、法的遵守の問題も同じように考えることができます。
組織として、ひとりひとりが切手1枚、ボールペン1本ぐらい私用で使っても許されるだろうという気の緩みが、不正な経理処理、そして、横領事件、商品の不正表示や偽装事件へと発展させてしまうことになります。
家庭内での子どもとのかかわり、学校での教師の生徒への対応、そして、家庭内での夫婦の関係もまったく同じなのです。
特に、この程度のことは許されるだろうと規範が緩い家庭で育つ子どもは、「この程度のことは許される」という考えや価値観を学び、身につけ、規範そのもの、つまり、ものごとの判断基準になります。
つまり、DV行為をひどくさせないため、子どもが暴力行為は許されるという考え方を身につけないためには、「このぐらいなら許されるだろう!」と思わせないことがなにより重要なことです。
そこで、既に、DV(暴力)行為がおこなわれている中で、敢えて、「暴力(DV)行為は許されない」と声をあげるにあたり、特に重要なことは、次の2点です。
第1に、「暴力は間違っている」、「私は暴力をふるわれたくない」と考えや意見を口にした(意思表示をした)ことによって、激怒され、「テメエ、誰に口きいてやがるんだ!」、「お前の考えなど聞いていねえんだ!」、「いつからそんなに偉くなったんだ!」と大声で怒鳴りつけたり、殴られたりしたときには、別れる(離婚する)決意を固め、躊躇することなく家をでることです。
なぜなら、2度とふざけたことを口にしないように、より暴力がエスカレートしていくからです。
つまり、他の選択肢はないのです。
暴力行為を受け入れず、暴力から逃れる(暴力をふるう人と別れる)行為は悪いことではなく、正しい行為で、「自分を大切にすることに他ならない」ことを理解することが必要です。
第2に、「ずっといい続けたら、いつかきっとわかってくれる」とわずかな期待感を思ってはいけないということです。
「暴力をふるう夫とはいえ、子どものこともあるし、いまはまだ離婚までは考えられない。だから、コトを荒立てたくないし、近所に家庭の事情を知られるのも困る・・」との思いが錯綜してしまい、躊躇なく警察に通報したり、家をでたり、離婚したりする決心がつかない被害者は少なくありません。
また、母親が「子どもには父親が必要だから、子どもの手がかからなくなるまで、私ひとりががまんすればいい」と口を閉ざし、耐え続けたり、「子どもが成人するまで、父親としての義務を果たして欲しい」、「暴力をふるったり、外に女をつくったりしても、私が本妻なんだから、絶対に別れない!」との思いが強く、婚姻関係に固執し続けたりするケースもあります。
 こうした状況下にあるとき、子どもは、両親間の暴力を目撃し続ける(面前DV)、つまり、精神的虐待を受け続けることになります。
つまり、母親ががまんし、耐え続ける中で、慢性反復的に繰り返される「暴力」は、子どもに計り知れない影響を与えることになります。
そして、子どもに対し、両親間の暴力を目撃させ続けることは、配偶者からのDV被害者である一方で、子どもに対しては、理不尽であっても、虐待行為の当事者になってしまうということです。
したがって、どれだけツラく苦しくとも、子どもの親として、この事実と真正面から向き合わなければならないのです。


(4)「いいか」「悪いか」と二元論で、ものごとを判断しない
DV被害を受けた人が、自身への暴力被害と向き合ううえで重要なことは、「いいか」「悪いか」と二元論で、ものごと(事象)を判断しない思考習慣を身につけることです。
例えば、「Ⅰ-7-(2)デートDVから結婚に至る経緯」では、4件のDV事件(事例111-114)をとりあげ、結婚する前に「別れる」タイミングがあったこと、そのタイミングを逃すことになったのは、暴力のある家庭環境で育ち、親からの暴力に順応するために身につけてきた考え方の癖(認知の歪み)が影響していることを示しています。
こうした指摘に対して、「やっぱり自分が悪いんでしょ。」と自身に責(非)があると解釈するのではなく、「“そのとき”の選択・判断の誤りが問題(懸案)」と受け止め、その選択・判断を誤らせることになった原因は、現時点では変えることができない「暴力のある家庭環境で育たるを得なかった」という“過去のできごと”です。
そして、その過去のできごとは、いまとなっては、変えることができないわけです。
したがって、過去のできごとにフォーカスするのではなく、選択・判断の問題にフォーカスすることが重要なのです。
したがって、過去のできごとが影響し、選択・判断に誤りがあったとしても、現時点で、なにを誤ったのかを理解し、これからは、誤らないように改善すればいいということです。
問題は、暴力に順応するために身につけてしまった考え方の癖(認知の歪み)が影響した選択・判断の誤りを改善するためには、“学び直す”という視点に立たなければならないということです。
暴力被害にあった人が暴力から脱する(暴力を容認しないという考え方に立つ)には、「いいか悪いか」「好きか嫌いか」「敵か味方か」といった二者択一(二元論)でものごとを捉えたり、判断したりする考え方を持ち込まない思考習慣を身につける(学び直す)ことが重要な意味を持つのです。
この思考習慣に必要なのは、“知識の裏づけ(裏づけのある根拠)”です。
なぜなら、「どうして?」という疑問に対して、「明確な解を持つ」ことで心に湧きあがってくる強烈な不安感、猜疑的・疑心暗鬼に陥りやすい考え方の癖をとり払うことができるからです。
例えば、被害者が加害者から「おかしいのはお前だ!」と非難することばを伴って否定され続けているとき、うつ症状やパニック症状などの精神的・身体的な不調、マインドコントロールなど、“おかしさ=異常さ”に通じることばで指摘されると、強い拒否反応を示すことがあります。
なぜなら、自分はおかしくない(異常じゃない)との思いが強いことから、精神的な不調をみせる自分、マインドコントロールされた自分を認めたくない心理が強く働くからです。
被害者の見せるこうした不安感からくる強い拒否反応(強迫観念)は、明確な知識に裏づけられたものではなく、その多くは、被害者の抱いているイメージに過ぎないのです。
重要なことは、「暴力のある家庭環境にいたら、精神的・身体的に不調になるのが正常な反応であり、それは、“どうしてか”」、「自分が暴力のある状況から逃げられないことこそ、DVの特性であり、誰でもそういう状況に陥ることになる。それは、“どうしてか”」といった“どうしてか?”という理由を知ることなのです。
必要なことは、裏づけされた根拠で少しずつ理解を深め、その間違ったイメージを払拭することです。
その場しのぎでわかったつもりになるのではなく、気が遠くなるような長い時間が必要かもかもしれませんが、囚われてきた間違ったイメージを払拭するできたとき、はじめて自分と向き合うことができるようになります。


(5) “DV環境下”で、「片親ではかわいそう」との考えは不必要
 「離婚*-126によって、子どもが片親になったらかわいそうで、離婚を躊躇してしまう」、「離婚が原因で、子どもが情緒不安定になったら困る」と口にする被害者は少なくありません。
しかし、両親の離婚による子どもへの影響の多くは、離婚そのもの(離婚した事実)によってもたらされるものではなく、離婚に至る“これまで”の家庭環境、つまり、母親と父親(ときには、祖父母を含む)の“負の関係性”を見て、聞いて、察して育ってきたことにもたらされる“心の反応”です。
つまり、離婚する前に、子どもへの直接的な虐待行為はなかったとしても、配偶者(両親)間にDVがあることは、子どもへの直接的な心理的虐待(面前DV)であることから、両親が離婚した影響を思われる子どもに表れる情緒不安定、不登校などは、子どもが受け続けた心理的虐待を受けたことが原因ということになります。
つまり、子どもが“これまで”育ってきた家庭生活で(面前DV=心理的虐待被害を受けてきて)、傷ついてきた心の問題をそのままにしてきた(きちんとケアしなかった)結果によって生じているものです。
そして、子どもが、暴力のある家庭環境で暮らす日々が長くなるほど、数多くの心理的虐待を受け、心身に深いダメージが及ぶことになります。
したがって、重要なことは、家をでで、離婚が成立したあと、①子どもが対人関係でトラブルばかりをひき起こしたり、②対人関係を起因として不登校になったり、万引きや家出を繰り返したりするなど非行的なふるまい、③リストカットや過食嘔吐(摂食障害)などの自傷行為を繰り返すなどの「問題行動」が表面化したとき、その問題行動は、離婚そのものが原因ではなく、また、父親がいない母親(片親)だけで育てていることが原因でもなく、家をでるまで、暴力のある家庭環境で暮らしてきた(面前DV=心理的虐待被害を受けてきた)ことによる心の傷(心的外傷=トラウマ)が原因になっていると正しく理解することせう。
これらの子どもの問題行動は、両親の離婚の有無に関係なく、暴力のある家庭環境で育った子どもたち(被虐待児童)に共通してみられる傾向であることを理解し、傷ついてきた子どもの心のケアにつなげることが重要です。
しかし問題は、暴力をひとりで耐え続けている母親には、こうした子どもの問題行動、つまり、「助けて!のサイン」に気づくことができないということす。
なぜなら、DV被害者である母親が、精神的にいっぱいいっぱいな状態だからです。
つまり、自分のことで精一杯、子どものことまで思いが及ばないのです。
そのため、DV環境下で、母親は生まれ育った家庭で学び、身につけてきた価値観、判断基準にもとづいて、ものごとを捉え、考え、判断することになります。
 それは、①「子どもが学校をでるまで、私ひとりががまんすれば」と問題の本質を見間違えてしまったり、②「子どもには父親が必要だから」、「子どもは父親に懐いてみえるから」と誤った解釈をしてしまったり、③「子どもが新しい環境に馴染めるのか、不安だから(きっと、…だから)」と、自身の不安感を子どもの不安と置き換えて解釈(自身の判断・行動を正当化)することで、自身が負う責任を回避しようとしてしまったり、④思春期(10-15歳)に達した子どもに「どうして家をでたの(離婚したの)? 友だちと離れたくなかったのに!」、「(暴力による心の傷が、問題行動を起こしはじめ)こうなったのはお母さんのせいだ!」と“責められたくない”との思い(回避行動)から、暴力のある環境に留まる判断をしてしまったりするという“ものごとの捉え方”、“考え方”、“判断のあり方”に顕著に表れます。
ことが少なくないのです。
しかし、暴力のある家庭環境で学び、身につけてきた価値観、判断基準にもとづいて、ものごとを捉え、考え、判断することは、“誤り”です。
なぜなら、結果として、暴力のある環境に留まるという判断、選択、つまり、子どもにDVを目撃させる家庭環境に留まるという判断は、子どもに心理的虐待を与え続ける環境に置くという選択に他ならないからです。
だからこそ、「子どもの手がかからなくなるまで」、「子どもには父親が必要だから」と配偶者からの暴力に耐え続けてきた被害者の方たちには、受け入れ難いことであっても、子どもが暴力を目撃(面前DV)して育つことは心理的虐待になり、同時に、配偶者からのDV被害者であっても、子どもに対しては、心理的虐待を加える当事者になってしまうということを理解する必要があるのです。
重要なことは、“これまで”は、こうした事実を知らなかったので仕方がないけれども、この事実を知った“いま”は、“これから”は、そうであってはならないと考え、子どもを暴力のある環境に留めない(置かない)という行動に移すことです。
そして、暴力に耐えてきた母子のPTSDの症状に対するケア(治療)にとり組むことが重要なのです。
 また、慢性反復的(日常的)な暴力被害に至る前に、その関係性を断ち切ることの重要性を学んでおくこと、つまり、啓蒙教育が重要です。
*-126 「婚姻破綻の原因はDVにある」とする離婚については、「Ⅲ.「婚姻破綻の原因はDVにある」ときの離婚」で詳しく説明しています。


(6)母親の“これから”が、子どもには“いまさら”となる理不尽さ
 DV環境下で、子どもと生活をしてきた母親が、理不尽な暴力にもう耐えられないと考え、家をでる(離婚する)覚悟を決めたとき、思いもしない事態が待っていることがあります。

① 思春期をむかえた子どもにとって、親の離婚は“いまさら”
DV環境下にある母親が、意を決して「もう耐えられない。お母さんは変わった。家をでて、離婚する。あなたもいっしょにくるよね。」と、思春期を迎えた子どもに宣言したとき、暴力のある環境に順応してきた子どもにとって、母親の家をでる、離婚するという宣言は、“いまさら”になっていることがあります。
母親が別れる覚悟を固めたとき、思いもしなかった子どもにソッポを向かれてしまう事態が待っていることがあるのです。
ここで、母親が子どもを連れて家をでる以外に、子どもが、暴力のある家庭から離れる(逃れる)ことができるケースを見ていきたいと思います。
通報を受けた警察や児童相談所が、子どもが面前DV下にある、つまり、心理的虐待を受けているとして家庭に介入し、児童相談所が、「児童虐待防止法」「児童福祉法」にもとづき、子どもを一時保護することを決定したときには、保護期間の長短はあるものの、子どもは、暴力のある家庭から離れることができます。
しかし、ここには、子どもが面前DV下にあるとして、児童相談所が介入し、子どもを一時保護するときには、DV被害者であると自覚しているものの心理的虐待行為の当事者であるとは認識できていない母親は、子どもから引き離されてしまう、つまり、児童相談所に、子どもを奪われたと解釈してしまうという問題が絡みます。
暴力のある家庭環境で、思春期後期(13-15歳)-青年期前期(15-18歳)に成長した子どもが暴れ、殴る、金属バットで家具を叩き壊したり、壁に穴をあけたりするといった家庭内暴力があるとき、「子どもが手をつけられないほどの暴力をふるう。助けて欲しい。」と警察に訴え、保健センターや医療機関に相談している状況であれば、警察と児童相談所、保健センター、医療機関が連携して動き、結果として、子どもを医療機関に措置入院させ、治療を開始することで、子どもを暴力のある家庭から離すことができる可能性があります。
また、子どもが、万引きなどの非行行為を繰り返したり、暴行や傷害事件をおこしたりして立件されている状況下では、児童相談所や少年院に送致することで、結果として、子どもは、暴力のある家庭から離れることができます。
しかし、通報により、児童相談所の一時保護の決定を受けたり、子どもが精神的破綻をきたしたり、非行に走ったりするのを待って、行政・医療の支援、警察・司法の介入を期待することが、子どものためになるのでしょうか?
とはいっても、DV環境下では、親と子どもの間には信頼関係は存在せず、家族として、“機能不全”に陥っています。
「親と子どもの間には信頼関係は存在しない」とは、暴力による上下の関係、支配と従属の関係では、親と子どもとの間に信頼関係が構築されることはないという意味です。
従順に従うしかなかった子どもが成長し、思春期(10-15歳)を迎えるようになると、親のことばに反発し、耳を傾けなくなります。
DV環境下で、親のことばに反発し、耳を傾けなくなった子どもが、非行などトラブルを起こしはじめたとき、慌てた母親が、「一度、病院で診てもらおうよ。」となげかけることがあります。
このとき、「俺をキチガイ(病気)扱いにするつもりなのか!」と感情を“逆なでされた”と感じると子どももいます。
この“ひとこと”が、家庭内暴力のキッカケになり、以降、家にひきこもったり、逆に、家出を繰り返したりする事態を招くこともあります。
つまり、この年代に成長した子どもは、暴力のある家庭の問題よりも、自身の心の問題と葛藤しはじめています。
こうした時期の子どもが、突然、母親に「もう暴力には耐えられない。いいくるめられるお母さんじゃない。家をでる。」という訴えを聞かされたとき、母親のその訴えをどう感じるのでしょうか?
母親が暴力に耐え続けているのを見聞きしてきたとしても、母親の「お母さんは変わったから、家をでる。」という悲痛な訴えは、思春期後期(13-15歳)に成長した子どもにとっては、それほど重要なことではなくなっています。
つまり、家=親が一番ではなくなってきています。
特に、DV環境下では、ものごとを「損得」で考える思考を学び、身につけている可能性があることから、「自分に都合がいいこと」、「自分の特になること」が、“判断基準”となっている可能性があります。
このことは、両親が離婚するとき、母親と一緒に生活するのが得か、それとも、父親と一緒に生活をするのが得かを考えるということです。
“これまで”与えられてきた生活水準を、“これから”も与えられるかを見極めることになります。
つまり、単純に生活環境が変わることを嫌がるのではなく、重要なことは、これまで食べられたものがこれからも食べられるか、これまで買ってもらえたものがこれからも買ってもらえるのかということです。
苦労はしたくないので、離婚した母親との生活が、“これまで”のような生活水準を満たすものでない限り、母親と新たな生活にチャレンジしようとは考えないわけです。
「新しいことにチャレンジすることを躊躇する」というのは、暴力のある家庭環境で育ち、アタッチメントにトラブルを抱えている人、つまり、アダルトチルドレンに共通する傾向のひとつです。
自己と他の境界線があいまいなまま成長していることは、母子分離に問題を抱えていることから、新しいことにチャレンジするに対し、極度に不安がり、怖れ、しり込みしてしまいます。
つまり、“これまで”と同じことが安泰と思いたがるということです。
その不安、怖れの裏返しとして、“いまさら”ということばで、新しいことにチャレンジできない自分を納得させようと目論むのです。
 ツラいこと、がまんすること、新たな苦労が待っていることに巻き込まれたくないのです。
知らない土地、新たな生活をはじめ、新たな人間関係を築かなければならないことには強い不安、恐怖を覚える子どももいます。
 暴力のある家庭間で育っているかにかかわらず、誰でも、家庭のことがすべてであった幼児期や学童期を経て、思春期を迎えると、友だちや習いごとなど自分自身の世界観が拡がってきています。
その中で、DV環境下で、転校を余儀なくされるであろう両親の離婚は、学校のクラスメート、習いごと、部活の仲間と「どうして別れなければならないのか?!」、「どうして転校しなければならないのか?!」と憤りを感じさせてしまいます。
「あれほど嫌な思いをさせてきていながら、なにを勝手なことをいっているんだ!」と怒りさえ覚えるのです。
突然、離婚を切りだした母親に向けられる思春期以降の子どもが感じる怒りの感情は、a)父親に怒鳴られ許しを請い、b)父親にいわれたことにNOといえず、従うしかできない、c)父親のいいなりになってきていた“これまで”の母親の姿勢、言動、態度に対してのものです。
自分に父親の刃が向けられても見て見ぬふり、守ってくれることのなかった母親が、突然、「もう耐えられない」と声をあげることなど、子どもにとって、自分勝手ないい草でしかありません。
そのため、“これから”の生活を損得で考えた結果、父親がDV加害者であろうが、父親のもとに留まった方が、“これまで”と変わらない生活を続けられると考えることがあります。
この結果、例えば、第1子が思春期後期に達し、高校受験を控えていたり、高校に進学した状況だったりしたときには、そのまま家に留まり、中学校進学前(思春期前期まで)の第2子は、家をでて行く母親にとともに新たな生活をはじめる、つまり、きょうだいが別々に暮らすことになる状況が生まれます。
DV環境下にある思春期前期までの子どもは、特に、母親の愛情に飢えています。
そのため、暴力のある環境から離れることができれば、母親の目を惹くことができ、愛情を得られると期待するのです。
しかも、DV環境下で育つ子どもには、強いストレスがかかっている、つまり、抑圧されていることから、きょうだいがいるときには、下のきょうだいに対し、その抑圧されている思いをぶつけています。
「下のきょうだいに対し、抑圧されている思いをぶるける」には、かまって欲しい弟や妹を“無視”をする行為も含まれます。
 したがって、上記の例の家をでて行く母親と行動をともにする選択をした第2子は、既に、きょうだい間に軋轢や溝が生じている第1子と離れて暮らすことを喜んでいることもあるわけです。
配偶者である夫から暴力を受け続けてきた母親が、自分が被害者であると自覚し、ツラい、苦しい、もう暴力に耐えられないと思い、その関係を断ち切る決断をすることは正しいことです。
子どもがいて、その子どもが乳幼児であれば、有無をいわさず、手を引いたり、抱き抱えたりして、家をでることができます。
しかし、その子どもが小学校3-4年生(9-10歳)となり思春期に入ると、もはや有無をいわさずとはいかない状況になっていきます。
さらに成長して、思春期後期・青年期前期に達した子どもは、時として、母親が、DV加害者である夫との関係を断ち切り、家をでることの足枷になってしまうことがあるのです。
その家をでることの足枷となった娘や息子が、さらに成長し、青年期後期(18歳-22歳)に達すると、一転して、母親のもう耐えられない、がまんできない思いに共感し、「お母さん、もう家をでなよ。」と背中を押してくれるようになります。
つまり、子どもは、乳幼児期、児童期、思春期、青年期と成長していく中で、母親が暴力から逃れる背中を押してくれることもあるし、逆に、足枷になることもあるということです。
一方で、子どもが、乳幼児期、児童期、思春期、青年期と成長する段階で、どこまで、暴力のある環境で育っているかによって、子どもへの暴力の影響、つまり、心のダメージの深さが違ってくるということです。

② 暴力のある家庭環境で、子どもが思春期を迎えるということ
暴力のある家庭環境で、子どもが思春期(10-15歳)を向えるということは、10-15年もの間、夫婦のあり方を見て、人とのかかわり方を学び、身につけてきたことを意味します。
それは、妻という「女性(弱いもの)を支配していうことをきかせる」ためにパワー(暴力)を用いるやり方であり、絶対君主、絶対権力をもつ父親(男性)のもとからは、母親(女性)は決して逃れられない状況を学んでいくことになります。
つまり、人とのかかわり方、関係性の基本が、力のある者には屈し、力の弱い者には力で押さえつけるということを学び、身につけるわけです。
それは、身近なきょうだいや親、保育園や幼稚園、小学校、中学校の同級生や先輩後輩といった関係性において行使し、成功・失敗という体験を積み重ねながら、効果的な“術”を習得していくことになります。
また、巧妙な嫌がらせの加害者になったり、または、被害者になったりすることもあります。
中には、母親に支配され、同一化することによって、母親を自分のものにしてしまう、つまり、「共依存」の関係性を求めてしまうこともあります。
先のDV環境下で、突然、母親が「父親(夫)のようにパワーによって、人を支配することはいけない。だから、私はもうがまんしない。従うことはしない」と声高に宣言することは、子どもにとって、いままで目の前で繰り広げられてきた父親と母親の関係、そして、父と子の関係を覆されるものです。
つまり、子どもにとって、突然、“これまで”とまったく正反対の路を示されることになります。
“これまで”とまったく正反対の路を示されることは、新しいことにチャレンジすることを躊躇するように育ってきた子どもにとって、脅威でしかありません。
なぜなら、“これまで”構築してきた価値観そのものを崩壊させるできごとだからです。
母親にとって「もっともである考え、正当性のある考え」であっても、生まれてからずっと暴力のある家庭で育つことを余儀なくされてきた子どもたちにとっては、そのまま受け入れることではないのです。
その前に散々心は傷つき、暴力という方法を身につけることしかできなかったのです。
人(同級生だけじゃなく、先生や親戚の大人たち)との距離感をどうとっていいのかわからず、散々悩み、苦しんで、生き難さを感じてきたのに、“いまさら、なんで!”と戸惑い、“これまで”何度も、「何度も助けて!」と訴えてきたじゃないかと憤り、怒りを覚えます。
眠れなかったり、怖い夢を見たりするから寝ることが怖くて仕方がなかったりしていました。
子どもは、怒鳴られ、罵倒され、叩かれ、殴られたあと、2-3日経つと頭痛や腹痛がしたり、3-8週間に一度高熱をだして(免疫力が低下して溶連菌感染症を発症したり、扁桃腺を腫らしたり)、身体的症状を通してずっと“心の悲鳴”を訴えてきたのです。

② 子どもの反対で別れるタイミングを逸したあと
では、思春期後期に達した子どもに、“いまさら”と親の離婚に反対され、暴力のある家庭環境に留まることを決意することになった母親への影響を考えてみたいと思います。
母親が第1子を22-32歳で出産したとすると、思春期を迎えた10歳の子どもが、青年期後期を迎える17-18歳までの7-8年、つまり、32-42歳だった母親は、40-50歳に達し、延べ17-18年間にわたり、慢性反復的(日常的な)な暴力を受け続けることになります。
このことは、暴力にさらされ続けたストレスは蓄積し、より心身を蝕んでいくことを意味します。
その結果、既に、a)うつ症状やパニック症状に悩まされ、精神安定剤や睡眠薬が手放せなくなっていたり、b)慢性的な「Ⅰ-9-(2)被虐待女性症候群(バタードウーマン・シンドローム)」、「同-(3)暴力の後遺症としてのPTSD」の症状に苦しんでいたりする症状や傾向が表れているかもしれません。
 これらの典型的な症状や傾向だけでなく、長期的に強いストレスにさらされていると、ドーパミン、アドレナリン、ノルアドレナリンなどのホルモン物質が過剰に分泌されたり、分泌が極端に減少したりすることになり、その結果、c)自律神経失調症の他、更年期の症状が早く表れ、しかも、重い症状がでていたり、d)甲状腺機能の異常や免疫機能が損なわれるリュウマチ等の膠原病に悩まされていたり、e)解離性健忘の症状がひどくなり、壮絶な暴力被害の記憶が霞んでいたり、f)コルチゾールの慢性的で過剰な分泌により、早期のアルツハイマー型認知症を発症したりしているかもしれません。
さらに、耐え続ける現実から目を背けたいという絶望感と無気力感、子どもたちにも苦しさをわかってもらえなかった寂しさと孤独感に襲われ、ぽっかり空いてしまった心の穴を埋めるために、g)薬物やアルコール、セックスなどに依存していたり、h)新興宗教やカルト教団、スピリチュアルなものに傾倒し、多くの財産をつぎ込んでいたり、i)出会い系サイト(コミュニティサイト)などにのめり込んでいたりすることもあります。
i)では、2次被害として、リベンジポルノ被害にあっていたり、それを脅しの材料に使われ、セックス産業での労働を強いられるなど性的搾取にあっていたりすることもあります。
また、「32-42歳」-「40-50歳」という年齢には、被害者の発症リスクが高くなるとされるa)-f)の疾病以外に、一般的な状況として、j)癌を発症するリスクが高くなりますし、加えて、k)親の介護の問題が発生するリスクも高くなります。
つまり、暴力のある環境の中で1年1年と齢を重ねるごとに、心身に暴力のダメージ(後遺症)が蓄積していくことになり、被害者にとって、新しい人生を生きる力やエンジンが削ぎ落とされていきます。
加えて、新たな問題を抱え込むことになるなど、問題はより複雑になっていきます。

③ 思春期後期-青年期前期に達した子どもにとって“いまさら”であっても、やはり、そのままでいいはずがない
子どもは、社会のルール(道徳観、倫理感)を身につけなければ、その後、対人関係でトラブルを生み、苦しみ、悩むようになります。
それは非行、犯罪とみなされることもあります。
実は、子どもが、暴力のある家庭環境で育つということは、社会の法やルールという規定、道徳観や倫理観という規範とは反する(一線を画する)生活を余儀なくされているということになります。
そして、暴力のある家庭環境で抑圧されて育ってきた子どもたちは、受験や就職活動の失敗、学校や職場での人間関係の軋轢などをきっかけにひきこもり、ニート生活から抜けだすことができなくなった人たちと同様に、「俺の(私の)人生はどうなるんだ!」との憤りや怒りを心に秘めて生きていかなければならなくなります。
その憤りや怒りは、不安の裏返しの感情であり、弱い自分と向き合うのを避ける(回避する)ための理由づくりの意味も持ちます。
新しいことにチャレンジする不安や恐怖を回避するために、先の状況になったとき、「あのとき、お母さんは気づきもしなかった、見向きもしてくれなかったのに、どうしていまそんなことをいってくるんだ」と憤り、怒りをあらわにするのです。
つまり、子どもにとっては、現実と向き合うことはツラく、苦しいので、「もう、いまさら」という意味があるということです。
子ども自身の不安感が、「いまさら、家をでる? 離婚するって。俺がどんな思いをしてきたと思っているんだ」、「どっちが親権を持つかだって! 俺はモノじゃないんだ! 勝手なことをいっているんじゃないよ」、「そんなことに、俺を巻き込みやがって! なんなんだよ、あんたらは」との叫び声をあげさせているのです。
このまま暴力のある環境に留まることは、さらに、子どもの状態を悪くするだけです。
母親として、子どものこうした不安との裏返しの感情の苛立ちや憤りを受け止める覚悟をして、家をでるしかないのです。
それは、母親として、大きな負担を負うことになります。
③であげたような自身の心身に表れる症状だけでなく、PTSDの症状に悩まさる中でおこなわれる離婚調停では、暴力を認めない夫と闘わなければならず、一方で、まるで赤ちゃん返りのように駄々をこねたり、癇癪をおこしたりする、つまり、非行行為という問題行動を繰り返す子どもと、真正面から向き合わなければならないわけです。
本当に大変なことです。
“これから”の大変さに思いを巡らしてしまうと、先に進むことができなくなるので、ただ、配偶者からの暴力に耐え、がまんしてきた事実と向き合うことです。
つまり、配偶者から“なにをされてきたのか”、その結果、自分はいま“どのような状況におかれているのか”という問題に、真正面から向き合うことです。
その中で、子どもの「助けて!」のサイン、叫び声に気づく余裕などなかったことに気づいたときには、“これまで”の自分を責めるのではなく、悪いのは、すべて、加害者である配偶者という一点(事実)にフォーカスすることです。
それは、「いかなる理由があっても、暴力は許されるものではない」という考えに立ち、その許されない暴力行為を繰り返してきたのは、加害者である配偶者という事実です。


(7) 暴力のある家庭環境で育った子ども。その事実を受け入れない
DVを目撃して育ち(直接的な虐待被害を含む)、後遺症として、多くの心の問題を抱えている人たちの中には、「自分は親に虐待されて育ったこと」、「被虐待者と呼ばれること」に対して、強い拒否反応を示すことがあります。
また、「親から厳しく育てられた」、「親が過干渉だった」、「親から暴力を受けて育った」ということばを受け入れることができても、「親に虐待されて育った」ということばは受け入れられないこともあります。
なぜなら、親が子どもを虐待する行為は、親が子どもを拒否しているメッセージであることから、自分が、親に拒否された、受け入れられなかった事実を認めたくないという心理が働くからです。
つまり、心の障壁が、「No(受け入れたくないと抵抗)」と表現するのです。
自分が親に拒絶されていたと認識することは、自己の存在基盤そのものが揺らぎ、自己を保つことが危うくなります。
こうした抵抗を見せる人たちに共通しているのは、暴力を受けたという事実認識ではなく、「親に暴力をふるわれるのは、自分のことを嫌いだから」と感情認識で判断していることです。
このメッセージに囚われている人は、「嫌い」「認めない」「受け入れない」という思い(感情)が存在しなくても、人は暴力行為に及ぶという考えに至ることができません。
したがって、「暴力行為」に及ぶ理由は、“嫌い”“認めない”“受け入れない”という思い(感情)に起因しているとの思いに囚われている人が、交際相手や配偶者から暴力を受けると、「きっと、私のことが嫌いだから」という考え(仮説)を持ち込みます。
そのため、交際相手や配偶者に「嫌われない(捨てられない)」ように、機嫌を損ねず、意に添うようにふるまうことから、結果として、暴力被害を長びかせてしまいます。
 さらに、このメッセージに囚われている人は、親の暴力行為を肯定する、あついは、容認するために、自分に都合のいい理由をつくる必要がでてきます。
 なぜなら、心の安定を保てなくなるからです。
例えば、「厳しいしつけ」ということばは、「親が、私のこと、私の将来を思って厳しく接してくれた(間違ったおこないを正してくれた)」と“愛情による行為である”と暴力行為を肯定することばに置き換えることができます。
そして、自分は親に愛されていたと信じ込むことができます。
信じ込むことで、「私は、けっして親から拒絶されていたのではない」と承認欲求を満たすことができ、心の安定を獲得するすることができるのです。
一方で、親の方も「厳しくしつけた」と表現することで、親の責任(務め)を立派に果たしていると自分自身を褒めたたえ、同時に、その行為の動機を“子どもの将来のために”ということばを使って、その行為を正当化することができます。
子どもは自己否定されたと失望することもなく、親は罪悪感を覚えることもないわけです。
まり、こうした思い込みにより、お互いに傷つかないですむのです。
こうした認識下にある被害女性の多くが、親子の関係を表現するとき、「Ⅰ-7-(2)デートDVから結婚に至る経緯」でとりあげている「事例111(分析研究7)」の被害女性Eのように、「親に愛情を持って厳しくしつけられたおかげで、いまの私があり、だから、厳しくしつけてくれた親に感謝している。」と述べます。
DV被害を受けていない女性が同じことを話しているときには、ことば通りに解釈してもいいわけです。
しかし、慢性反復的(日常的)な暴力を受け続け、なんとか自己を保っている状態の被害女性が、「私は、親に厳しくしつけられました」という表現をするときには、注意が必要なのです。
なぜなら、被害女性の多くは、「わたしは、誰にも、暴力で傷つけられない大切な存在である(自分のことを大切に生きる)」ことを親から学び、身につけていない、つまり、アタッチメントの獲得に問題を抱えているからです。
例えば、事例111の被害女性は、相談の初期は、『愛情のこもった料理を母がいつも準備してくれていた。パンやケーキまで母親が勉強し、手作りで食べさせてくれた。親は優しく愛情いっぱいに育ててくれた。』と述べていました。
その後、離婚を決意し、乳児を連れて遠距離にある実家に帰り、大学に進学したのを機にひとり暮らしをはじめて依頼、14年ぶりに両親と同じ屋根の下での生活がはじまりまると、被害女性は、その母親から「あんたは、体罰を娘にしないから、娘が訳のわからない行動を自分でするんだ!」と怒鳴りつけられることになりました。
そして、被害女性の母親は、孫(被害女性の娘)を叩いたり、殴ったりするようになったのです。
つまり、14年ぶりに同居する被害女性の母親の言動や態度により、「被害女性は、子どものころ、娘のように、母親から叩かれたり、殴られたりしていた」事実が明らかになったわけです。
その後、離婚が成立した被害女性は、実家をでて、アパートを借り、子どもと生活をはじめますが、その母親は、毎日のようにアパートを訪れ、「育て方が鳴っていない!」と被害女性を罵倒し、子どもに体罰と称して叩いたり、殴ったり暴行を繰り返したのです。
この被害女性の母親は、実は、夫(被害女性の父親)から暴力を受け続けているDV被害者だったことも明らかになりました。
夫からDV被害を受け続ける一方で、承認欲求を満たすために、子ども(被害女性)に過度に干渉し、その中で、体罰と称する暴行(身体的虐待)を繰り返すことは、DV被害者によく認められるものです。
この被害女性の母親は、大学進学を機に実家をでてひとり暮らしをはじめた娘(被害女性)に対して、過剰に干渉し続けていたわけです。
ところが、被害女性は、母親に過剰に干渉されていたことを、「優しく、愛情いっぱいに」と記憶を置き換えていたわけです。
被害女性は、記憶を置き換えることで、自己肯定できていたのです。
では、「親に愛情を持って厳しくしつけられたおかげで、いまの私があり、だから、厳しくしつけてくれた親に感謝している。」ということばを、分解して、因果関係を検証してみます。
「親に愛情を持って厳しくしつけられた」は“事実”を、「おかげで」「いまの私がある」は“状況”を示し、「感謝している」は“解釈(意見、感じ方)”を示しています。
“おかげで”という状況は、行動と結果(こういうことをして、結果として、こうなった)を表現するものであることから、この「厳しくしつけてくれた親を感謝しているいまの私」という状況は、交際相手や配偶者から慢性反復的(日常的)に暴力を受け続けている、場合によっては、その暴力下で子どもを育てていることを示すことになります。
つまり、上記の事実認識では、論理が成り立たないのです。
事実と状況認識が違ってくると、解釈(意見、感じ方)が変わってきます。
こうした事実認識の“ズレ”を見直すことによって、親に対するいまの思い(感情)が間違った思い込みであったことを明らかすることができます。
しかし、当事者が、この事実を受け入れることは簡単ではありません。
なぜなら、先に記しているとおり、親の自分に対する愛情の存在が根底から揺さぶられ、心が強く抵抗するからです。
いま慢性反復的(日常的)な暴力を受け続けている(もしくは、いた)状況にあり、厳しくしつけてくれた親に感謝し、世間にどのように見られるかといった不安に囚われている被害女性に共通している問題が、私を大切に生きる、つまり、私は暴力で傷つけられたり、支配されたりしてはならない大切な存在であると認識できていないということです。
つまり、「暴力で傷つけられる」「暴力で支配される」ことが、「自分を大切にできていない」ということを認識できていないことです。
このことは、厳しくしつけしてくれた親の下では、自分は暴力で傷つけられたり、暴力で支配されたりしてはならない大切な存在であるという自己規範を構築できなかったことを意味しています。
なぜなら、「厳しいしつけ」と認識してきた親の言動やふるまいは、暴力(虐待)でしかなかったからです。
「私は親に厳しくしつけられた」と、暴力のある家庭環境で育ってきた事実の置き換えをし、一方で、「自分は、けっして暴力で傷つけられてはならない大切な存在である」という概念を持ち合せていない(心を育まれていない)人が、交際相手や配偶者から再び暴力を受けることになったとき、「けっして暴力で傷つけられてはならない大切な存在である子ども」という概念を持ち込む(子どもの心を育む)ことは難しいのです。
そのため、無意識下で、結果として、暴力のある家庭環境に子どもを留めてしまうことになります。
無意識下で、結果として、暴力のある家庭環境に子どもを留めてしまったとしても、誰も、被害女性を責めることはできません。
しかし、被害女性がDV被害を認識できたときには、その事実と向き合うことは重要です。


(8) 親の期待に応える結婚。離婚という事実を向き合うのは難しい
配偶者からDVを受けていても、多くの被害者は、以下のような理由により、離婚を躊躇します。
それは、第1に、「夫の暴力は怖くて仕方がないけれども、暴力をふるう夫とはいえ、子どものこともあるし、いまはまだ離婚までは考えられない。だから、コトを荒立てたくないし、近所や学校に家庭の事情を知られるのも困る・・」と、世間体や対面を気にし、恥ずかしさから、躊躇なく警察に通報したり、家をでたり、離婚したりする決心ができないケースです。
第2に、母親が「子どもには父親が必要だから、子どもの手がかからなくなるまで、私ひとりががまんすればいい」と口を閉ざし、ひとりで暴力を耐え続けるケースです。
第3に、「暴力をふるったり、外に女をつくったり夫であっても、私が本妻なんだから、絶対に別れない!」、「うちの会社(自営業)をここまでにしたのは、私が支えてきたから。人に羨まれる家を持てたのもそう。それを全部捨て去ることなんてできない」と自分の立場(貢献度)を持ちだし、婚姻関係に固執する(暴力のある環境に留まる)ケースもあります。
また、離婚を決意し家をでて離婚調停を申立てたとき、頑なに「子どもが大学を卒業するまで教育を受けさせるなど、子どもの父親としての義務を果たして欲しい。そして、月1回は子どもに会って欲しい。」と暴力をふるう夫に対し、“常識論”を持ちだして交渉に及んでいるケースがあります。
 こうした状況下にある母親に認められる傾向は、「慢性反復的に繰り返される暴力による子どもや自身へのダメージ(後遺症)」よりも、a)子どもには両親が揃っていなければならないと認識していること、b)(特に、子どもが男の子のとき)子どもには父親が必要であると認識していること、c)優先しなければならないのは、経済的に余裕があり、子どもに教育の機会を与えられると認識していること、d)夫(男性)が働いで収入を得て、妻(女性)は家にいるのが務めと認識していること、そして、e)女性としてのプライドを優先させていることなど、自己規定・自己規範となる“価値観(結婚観、家族のあり方)の存在”があります。
自己規定(法やルール)・自己規範(道徳観や倫理観)となる価値観は、被害者(もしくは加害者)の育った家庭環境、国や地域といったコミュニティに大きくかかわるものです。
したがって、暴力に耐え続ける母親(もしくは父親)だけに限るものではなく、日本社会に色濃く残っている、もしくは、日本社会の中心的な価値観ともいえます*-127。
この現実は、被害者がDV被害をどう受け止めるか(認識するか)という問題だけでなく、被害者から相談を受けた者が、どのようにDV被害を受け止め(認識し)、どのように助言(対応)するかに影響を及ぼすという意味で重要です。
なぜなら、親や祖父母、きょうだいなどの親族、友人、職場の上司や同僚、子どもの学校の教職員、医師(歯科医を含む)や看護師、保健師、DVや児童虐待相談の窓口の職員、そして、弁護士、警察官に至るまで、すべてのアボドケーター(援助者・支援者)は、被害母子に対する助言は、その人の価値観に大きな影響を受けるからです。
したがって、DV被害の相談を受ける機会のあるすべての専門機関の職員、学校園の教職員、弁護士、警察官、そして、DV被害を発見する機会のある医師(歯科医を含む)や看護師、保健師、児童相談所の職員は、被害者に助言・対応するときに、自身の規定(法やルール)・規範(道徳観・倫理観)、つまり、価値観(結婚観、家族のあり方)の存在が影響していないかを考察しなければならないわけです。
また、知識や経験が乏しいとき、相手の求めているニーズではなく、意図的に自分が説明できる(自分の得意な)限定的な分野に絞り込んで(誘導して)、助言や対応をしてしまう怖れがあることから、必要な知識を正確に理解することがなにより重要になります。
 では、ある被害女性が、慢性反復的(日常的な)暴力被害を受け、2人の子どもを連れ、居住地とは離れた県にある実家に帰ってきて4ヶ月後の4月、長男の幼稚園の入園にあたり、幼稚園の園長とのやり取りを例に、被害者の相談を受ける(被害者の話を聞く)機会のある人物の規定(法やルール)・規範(道徳観・倫理観)、つまり、価値観(結婚観、家族のあり方)の存在が、助言にどのように影響していくかを見ていきたいと思います。
被害女性は医師で、父親も医師でした。
そして、被害女性は、既に、実家から通うことのできる病院で働きはじめていたので、それほど経済的な心配はない状況でした。
 夫からの暴力に耐え切れずに実家に逃げ帰ってきたのは、はじめてではなく、2度目のことでした。
 そして、被害女性は、最初に、実家に逃げ帰ってきてから何度か相談に訪れている行政の相談機関で、「夫の暴力が怖くて、いっしょに生活を続けることは考えられない。」と話す一方で、頑なに「離婚はしたくない」と繰り返していました。
 被害女性は、4月、実家から通える幼稚園に長男を入園させることにしました。
そこで、被害女性は、長男を転園させる幼稚園の保育士(園長)に対して、行政の相談機関で話したように、「夫の暴力が怖くて、いっしょに生活を続けることはできないけれども、いまは、離婚は考えていない。」、「ただ、万一、夫が長男を迎えにきたときには、いっしょに帰さず、直ぐに連絡をください。」と話しました。
では、被害女性が長男を転園させる幼稚園の園長について、A園長とB園長に登場してもらい、2つの生い立ちで考えてみたいと思います。
最初は、A園長と被害女性とのやり取りです。
A園長は、父親のいうことがすべて、口ごたえすることは許されず、失敗したときには殴られることもあった、いわゆる「厳しいしつけ」「いき過ぎた教育」を受けて育ち、“多少の暴力はどこの家庭でもある”ことだからと、「母親は、子どもの将来のために、ある程度の暴力はがまんしゃきゃ」と考える人です。
そして、園長Aは、被害女性の「離婚はしたくない」思いに共感し、その思いを察して、被害女性に「暴力行為がなくなれば、また、いっしょに生活することできるんでしょ?」となげかけました。
被害女性が、「そうなれば、いいんですけど。」と応じる(ことばをひきだす)と、「そうよね、その方が、お子さんたちにとってもいいわよ。」、「やっぱり、両親が揃っていることは、子どもにとっても大事なことよ。」と同意し、「それに、片親だと、からかわれたり、仲間外れにされたりするかもしれないし、…」と、子どもを片親で育てることのデメリットを次々とあげていきました。
そして、園長Aは、叩きかけるように、「この間、参加したセミナーで、加害者更生プログラムっていうのがあるって聞いたんだけど、そういうのを受けてもらうのもいいんじゃない?」、「あっ、ちょっと待ってね。確か、資料の中に、実施機関のリストが載っていたはず。」…とひとりで話を進めていきました。
次は、B園長と被害女性とのやり取りです。
B園長は、A園長と同様に、いわゆる「厳しいしつけ」「いき過ぎた教育」を受けて育ちました。
しかし、B園長は、怖くて帰るのが嫌だった家は、小学校高学年になると息が詰まりで帰りたくない家になる一方で、思春期後期(13-15歳)になると、同級生たちとどうかかわったらいいのか(距離感をどうとったらいいのか)わからずに悩み、苦しみ、大学に進学し、ひとり暮らしになったのを機にカウンセリングを受けていました。
そうした自身の体験から、「いかなる理由があっても、暴力は許されない」との考えで、虐待(面前DVを含む)の早期発見・早期支援が必要と考えるようになりました。
そして、地域の保健師、スクールカウンセラー、小児科医、警察、児童相談所の職員とも連携して情報交換をとったり、幼稚園の夏休み期間を利用して、専門機関向けの宿泊研修に参加したりするなど、専門知識を習得し、幾つかのDV事案に携わってきました。
 園長Bは、被害女性の夫の暴力が怖くて、いっしょに生活を続けることはできないけれども、いまは、離婚は考えていない」と思いの背景に、なにがあると思いました。
 そして、園長Bは、被害女性に、「直ぐに結論をだせないだろうから、暴力を受け、どれだけ大変な思いをしてきたのかを専門の人に聴いてもらうと少し楽になるかもしれないわよ。お母さんの心をしっかりケアしないとね。」と話し、多くのDV被害者を支援してきた経験豊富な専門機関につなげました。
専門機関では、多くの時間をかけて、どのような暴力を受けてきたのか、そのときどういう気持ちだったのかを聴いたあと、夫婦観や結婚観に関するなげかけをしていきました。
被害女性に育った家庭環境の話をしてもらうと、多くの場面で、失敗することへの不安感・恐怖心を抱えていたであろうことが伺えるエピソードがでてきました。
 その都度、疑問に感じたことを確認するなげかけ(質問)に応じてもらう中で、被害女性の「DV被害を受けていても、頑なに離婚したくない」との言動の“背景(根底)”にあったものは、「(どのような理由があろうとも)離婚することは、失敗に他ならない」との考え・価値観が存在していることに気づきました。
つまり、被害女性には、「失敗する」ことへの“恐怖心”が存在していたのです。
被害女性にとっての「失敗」とは、「親の期待に応えられない」ことで、親の期待に応えられないことは、被害者にとって「恐怖」そのものだったのです。
被害者が“ここまで”歩んできた人生のすべてが、「親の期待に反することは、親に失格の烙印を押される」という恐怖心に打ち勝つことだったのです。
それは、「医師である父親を失望させない」ことでした。
 つまり、被害女性の「離婚はできない」という“本意”は、「親の期待に応えられない(失望させる)不甲斐ない“私”は、きっと親に嫌われる(認められない)に違いない、だから、離婚は絶対にしてはいけないの!」となります。
 被害女性にとっては、離婚対象の加害男性(夫)との関係性よりも、親(特に、父親)との関係性の方が、プライオリティ(優先順位)が高かったわけです。
 夫の暴力よりも、父親の期待を裏切る(失望させる)ことの方が、恐怖だったのです。
この親の期待を裏切る結果を極端に怖れる、つまり、“失敗する”ことを極度に怖れる思考パターン(間違った考え方の癖=認知の歪み)は、当事者(親を含む)の多くが自覚できていない子どもを支配のための暴力行為、つまり、いき過ぎた教育、過干渉・過保護、厳しいしつけの下でつくられるものです。
交際相手や配偶者からの暴力から逃れるために帰ってきた実家は、実は、暴力のある家庭環境であり、しかも、本人も親の方も“暴力行為”を無自覚であることから、この“心の問題”の解決は、とても厄介です。
 なぜなら、被害女性が逃げ帰った実家の考え、価値観そのものが、「離婚することは、人生の失敗」、「人生を失敗しないために、あらゆる教育の機会を提供し、厳しく育ててきた」というものだからです。
被害女性が、「離婚を決意し、2人の子どもと生活の再設計をはかる」ことを決心するためには、専門機関のカウンセリングを継続し、暴力で傷ついた心のケアをしながら、一方で、支配的な親から自立していく(仕事をしながら、子育てをしていく)ために、それぞれの目的に沿った専門機関のサポートを受け、実家をでることでした。
 以上のような親の期待に応えるという“承認欲求”を満たすことを優先させる考え方の癖は、「認知の歪み」そのものです。
しかし、親を含む当事者は、いき過ぎた教育、過干渉・過保護という親の行為を暴力と認識していないことから、簡単に、「必死に期待に応えようと頑張ってきたこれまでの生き方は間違いであった」と受け入れることなどできるわけないのです。
 何世代も続いてきたであろう親(家)の価値観に縛られ、たとえ、交際相手や配偶者から暴力を受けても、私は母親なんだから、「子どもの将来のために、がまんしなければならない」と耐え続けてきたことが、あるとき、両親間のDVを目撃させてきた(面前DV)として、それは、「心理的虐待」にあたるという事実を知らされたとき、母親は大きなショックを受けます。
中には、「DVにずっと耐えてきた私が、子どもにDVを目撃させてきたとして、なぜ、子どもを虐待したと非難されなければならないのですか!」と強い拒否反応を示すこともあります*-128。
しかし、暴力のある関係性を終わらせる、つまり、加害者とのかかわりを断ち切るためには、DVを目撃させてきた子どもの母親として、不合理で、理不尽ともいえるこの事実と真正面から向き合う必要があるわけです。
こうした意味で、被害者が、被害者心理を含めたDV問題に精通した第三者の支援を受け、同時に、暴力で傷ついた心のケアにとり組むことは重要です。
なぜなら、被害者である母親ひとりで抱えきれる問題ではないからです。
特に、①離婚後、ひとりで子どもを立派に育てあげられるかといった不安感、立派に育てあげられなかったことを非難されたくないとの思い(強迫観念/被害妄想)に心が揺さぶられ、暴力のある状況に留まる選択をしていたり、②「カラカラに乾いた渇望感、底なし沼のような寂しさ=見捨てられ不安」があるために、暴力のある関係性にさえ自身の存在意義を求めたりしてきた被害者に対しては、加害者の上辺だけの優しいことばや態度を根拠なく信じようとしたり、すがりつこうとしたりする、つまり、暴力のある環境に戻ったり逃げたりを繰り返す傾向があることから、注意深く対応する必要があります。
これまで、日本社会の中で見過ごされてきた「虐待やDVのある家庭環境で暮らしている子どもの心身の健康が大きく損なわれる」という問題については、「配偶者暴力防止法」にもとづき、“一時保護”として、「母子寮(母子生活支援施設)などの保護施設(シェルター)に母親とともに入居してきた子どもの80%が、心理的ケアを要する臨床域にある」と報告されているように、“被害親子の精神健康は相互に影響する”ことがわかっています。
ところが、配偶者からの暴力にひとり耐えてきた母親、そして、子どもにかかわる学校園の教員、行政窓口の相談員や職員、そして、医師や看護師、弁護士の多くが、母親や子どもの心身の不調の原因は、「暴力のある家庭環境で生活をしていることにある」という事実と結びつけていないことが少なくないのです。
その結果、例えば、子どもに万引きや家出、非行、不登校やひきこもり、リストカットや過食嘔吐、ODといった自傷行為、パニック症状など、暴力被害の後遺症が表れはじめたとしても、適切なアプローチをとることができず、子どもに更なる苦しみを与えてしまうことがあるのです。
また、長年の暴力被害により、①多くの被害者が、記憶が途切れ途切れになっている(記憶の断裂=解離性健忘の症状)ことから、被害状況の話がまとまらなかったり、②自尊心と自己肯定感が損なわれ極端に自信を喪失していたり、③「自分が悪いから」、「自分が至らなかったから」と自責的(自分に責任があると暴力を受け入れてしまう)になっていたり、④人を信用できずに猜疑的になったり、⑤攻撃的になったりしていたりすることがあります。
 こうした被害者に認められる傾向は、被害者が、援助者(アボドケーター)に被害の状況を正しく伝えられなかったり、援助者と良好な関係を築くことができなかったりする障害要因になります。
また、同じ理由で、職場や友人との対人関係に支障が及んでしまうこともあります。
 さらに、⑥暴力の苦しさから逃げるためにアルコールや薬物、ギャンブル依存に陥ったり*-129、⑦自尊心をとり戻す、つまり、承認欲求を満たすために複数の異性とやり取りをしたり、交際したりするようになり、育児に手が回らなくなるケースもあります。
 背景にDV被害があったとしても、⑥⑦のように、育児に手が回らなくなってしまうと、それは、ネグレクト(育児放棄)、つまり、児童虐待行為と認識されてしまうことになります。
*-127 現在の文化・風俗、風習、慣習、食習慣、言語など、その多くは、江戸時代の「藩」で培われたものであるように、日本社会といっても同一ではありません。
また、国際結婚では、それぞれの文化・風俗、風習、慣習、食習慣、言語をもとにした道徳・倫理観といった規範、法やルールといった規制は違います。
日本では犯罪にあたる行為であっても、他の国家では犯罪にあたらないこともあります。
木造建築であった日本では火付けは、最高刑「死刑」もありうる重罪ですし、清時代アヘンに国家が存亡の危機を味わされた中国では麻薬にかかわる犯罪は、最高刑「死刑」となっているように、個々の国の法体系や罪状のあり方は、個々の国が歩んできた文化と深くかかわっています。
したがって、文化・風俗、風習、慣習、食習慣、言語などについて、相互に理解すること、その中で培われてきた相互の価値観や考えを尊重することが必要です。
*-128 同様に、「厳しいしつけ」という名の下で、いうことをきかなかったり、失敗(親の思い通りにならなかった)したりしたとき、親に殴られたり、蹴られたりして育った子どもが、親になり、自分の親にされたように、「厳しいしつけ」という名の下で殴ったり、蹴ったりする行為は“あたり前(どこの家庭でもおこなわれて、特別なことではない)”と思っていたある日、第三者が、子どもに殴られたり、蹴られたりした暴行痕を見つけ、虐待行為として警察署に通報し、その結果、児童相談所に子どもを保護される事態となったとき、「子どもを奪われた!」と児童相談所に敵意をあらわにし、「連れ去りは不法行為だ! 子どもを返せ!」と激しい怒りをぶつけることも少なくありません。
 こうした事態に陥ったとき、当事者にとって、これまでのおこないはすべて間違いであり、また、親からされてきたことは虐待行為であったという事実と向き合い、受け入れることは簡単なことではありません。
これまでの考えや価値観を覆される事実と向き合い、受け入れることは、自身が深く傷つくことになります。
信じていたものが崩壊する葛藤に苦しむより、その原因をつくった者(あるいはグループ、社会)を徹底的に非難し、誹謗中傷するなど、他者を攻撃したり、排除したりすることで、自身の“これまで”の考えや価値観が間違っていないと“正当化”していく方が楽です。
*-129 アルコールやギャンブル、買い物など、そのことが好き過ぎるがゆえに、身体を壊して病気になったり、仕事などに行けなくなったり、育児放棄に陥ったり、家族や第三者に暴力をふるったりするなど、日常生活を脅かしているにもかかわらず、自分の意志で止めることができない、つまり、「不健康にのめりこんだ」「ハマった」「とらわれた習慣」になっている状態(そのような状態にある)のことを“アディクション(嗜癖)”、または、“依存状態”といいます。


(9) 危険な「きっと、加害者更生プログラムで変わってくれる」との考え
 DV加害者、パワーハラスメントやセクシャルハラスメントの加害者、体罰の加害者たちに共通するのは、“ある条件下”であれば、暴力を容認してしまう考え方です。
それは、自身の暴行や暴力を正当化するために、例えば、「被害女性の態度」という“条件”を女性への暴行の理由づけとして用いることです。
問題は、こうした“ある条件下”であれば暴力を容認してしまう考え方が、日本社会のコミュニティの多くの場でみられるということです。
しかし、たとえ、“ある条件下”であれば、暴力を認めてしまうような考え方が、日本社会で常態化しているとしても、「暴力行為は、どのような関係においても、どのような場所においても、なんらかの条件があったとしても、等しく許されない」という考え方に立つ必要があります。
この「被害女性の態度」を暴力の理由づけとして容認する考え方・価値観は、所属するコニュニティ、個々人の“認知”そのものです。
この“ある条件下”であれば、暴力を認めてしまうという認知が正しくないという考え方・価値観に立つと、“歪んだ考え方の癖(認知の歪み)”ということになります。
では、“認知の歪み(歪んだ考え方の癖)”に対するアプローチで実施される「加害者更生プログラム」では、この“ある条件下”であれば、暴力を認めてしまうという考え方・価値観をどのように捉えているのでしょうか?

① 加害者更生プログラムの基本姿勢
「加害者更生プログラム」の基本姿勢では、『暴力の責任に関して、飲酒やストレス、被害女性の態度が暴力の理由づけに用いられますが、それらのことがあっても暴力を用いない人が多いこと、あくまでもそうした方法を選択しているのは、DV加害者の自己に都合のいい考えでしかないことを示し、暴力を選択した責任は100%加害者にあることを示す。』として、こうした理由づけをいっさい認めていません。
この「加害者更生プログラム」については、「Ⅴ-27.加害者更生プログラム。「ケアリングダッド」を実施するうえでの原則」と1節を設けて、DV加害者更生プログラムについて説明しています。
そして、元交際相手や元配偶者に対するストーカー事件の増加に伴い、加害者教育の必要性に注目が集まりつつあります。
そのため、DV加害者更生プログラムを受ければ、暴力はなくなり、別れたり、離婚したりしなくてもすむのではないかと期待してしまう被害者、被害者の家族たちは少なくありません。
しかし、DV加害者更生プログラムは、被害者が、相手が変わってくれることを期待して受講を希望するものではなく、加害者本人が、自分の意志で、暴力の対象となる女性や子どもと離れ(同居を解消し)、自分自身の暴力性や歪んだ認知と向き合うために受講するものです。
「自分の意志で、自分自身の暴力性や歪んだ認知と向き合う必要性」について、加害者本人の自覚状況を示すひとつの調査結果があります。
それは、平成26年7-12月、東日本の11警察本部からストーカー規制法にもとづく文書警告をだされ、治療の一環としてカウンセリング(加害者更生プログラム)を打診された284人(うち男性249人(87.68%))の加害者のうち、「受けたい」と応えた加害者は3.61%(9人)というものです。
専門家のカウンセリングを紹介するチラシそのものの受けとりを拒否した加害者が76人(30.52%)で、そのうちの50人(20.08%)は「自分には必要ない」と応じています。
また、チラシを受けとった208人(83.53%)のうち、134人(64.42%)は「参考にもらっておく」、「受けるかどうか考えてみる」と応えたのが30人(12.05%)でしたが、「参考に」、「考えてみる」という164人の加害者の反応は“対面上”であると考えられることから、自らの意志で治療にとり組む前向きさはなく、チラシの受けとりを拒絶した50人とさほど違いはないわけです。
したがって、メディアなどで、加害者プログラムの成果などを紹介されたものは、「受けたい」「治したい」と加害者自らの意志で治療にとり組んでいるものであることを十分に認識しておくことが重要です。
ただし、DV被害者支援に携わる者として、4%に満たないとはいえ、「加害者更生プログラム」の受講を自らの意志で示す加害者に対し、プログラムを提供する意味は、被害者を守るために、なにもしないで手を拱いているより、建設的であることはいうまでもないことです。
ここに、「加害者更生プログラム」の存在価値があります。
 重要なことは、被害者の思い、つまり、プログラムを受けて変わってくれて、暴力をふるわなくなるのであればという期待感で、別れたり、離婚したりするのを「回避」するための切り口にするものではないということです。
そして、被害者の抱える問題は、「加害者更生プログラミング」の受講を、被害者自身が、別れたり、離婚したりすることを「回避」するための切り口にする思考、つまり、認知の歪みです。
それは、被害者自身が抱える、結婚したら、子どもができたらといった“条件”を設けて、「変わってくれる」「暴力をふるわなくなる」と“根拠のない期待感(願望)”でしかないことです。
したがって、被害者が離婚を回避したり、復縁をしたりする条件として、加害者に「加害者更生プログラム」の受講を期待するのは、再び、暴力のある生活という火の中に飛び込む可能性が高くなることを理解しなければならないのです。
 「加害者更生プログラム」の受講という一種の治療は、治療者だけでなく、家族を含めて、一生涯(その後の人生)、治療にとり組む覚悟が必要となる薬物やアルコール依存者と“同等”と認識する必要があります。

 それは、薬物やアルコール依存者の家族に必要なことは、「イネイブリング(依存者を支える者)」になってはいけないということです。
 つまり、被害者が、加害者と“これまで”の生活を続けながら、「加害者更生プログラム」を受講させることは、支配欲求を抑えられない依存となる原因(状態)を手助けしまう行為になる、つまり、イネイブリングに類似する状態ということです。
 イネイブリングには、依存状態にある者を支えることで、自分の存在価値を確認し、承認欲求を満たしているという問題があります。
親から受けた心の傷に関しては、確かに癒やしが必要です。
しかし、心の傷が癒やされても、身につけてしまった暴力がおさまることはありません。
つまり、「この人の苦しみや哀しみは、私だけがわかってあげられる(私だけが苦しみから助けられる、私だけが心の傷を癒すことができる)」との思いで、イネイブリングとなっても、暴力はおさまらないのです。
したがって、「加害者更生プログラム」を受講させることで、被害者が、加害者と“もたれ合い”の関係性を保とうとしてはいけないのです。
なぜなら、この“もたれ合い”の関係性は、「共依存*-130」という深刻な状態だからです。
*-130 「共依存」については、「Ⅱ-22-(6)ACに“共依存”の傾向がみられるとき」「同-(7)共依存からの回復」で詳しく説明しています。

② 暴力行為と暴力行為に対する認知
暴力は、親の暴力行為で示す“コミュニケーション”として、子どもにすり込まれ、身につけてしまう感情表現です。
暴力という手段に頼れば、簡単に人をコントロールできるということは、親の下で、子ども時代に学び、身につけてきたものです。
学習した暴力を実行に移すときの加害者心理は、怒りの感情とともに、不安や怖れ(恐怖)という感情が大半を占めています。
不安や恐怖を感じる状態を、脳は、自身に“危険”が迫っている状態と察知します。
人が不安や恐怖をうち消す方法、つまり、自身に迫っている危険を防ぐには、a)攻撃して排除すること、b)かかわりそのものを避ける(回避する)こと、c)不安や恐怖に鈍感になる(なにも感じなくしたり、心を閉ざしたりする)ことの3つです。
暴力のある家庭環境で育ちアタッチメントを損なっていると、自分の意に添わない言動をされると、“自分の権威が脅かされた”という不安を抱き、脅威を感じます。
つまり、危険が迫っていると認識します。
同時に、“自分の存在価値そのものが否定されたのではないか”という疎外感、孤独感を抱きます。
その不安や脅威、恐怖、疎外感、孤独感を悟られ甘く見られたり、見下されたりしないために、怒りの仮面(ペルソナ)を被って、妻や交際相手、子どもをコントロールしなければならないのです*-131。
なぜなら、そうしなければ、自身の心のバランスは崩れてしまうからです。
交際相手や配偶者、あるいは、子どもをコントロールするために最も効果的な方法が、痛みと恐怖によって自分に従わせることのできる、意のままに操れる暴力なのです。
そして、この暴力によるやり口は、親の下で学び、身につけたものです。
したがって、「暴力行為で、痛みと恐怖を与え、意のままに人を操ることができる」という認知を、「加害者更生プログラム」で改善することができるかということです。
 ここで、重要なことは、第1に、親による暴力被害が軽度であるほど、認知の歪みは浅くなり、暴力被害が重度になるほど、認知の歪みは深くなるということ、第2に、親による暴力が軽度であるほど、脳の発達に与えるダメージが浅くなり、暴力が重度であるほど、脳の発達に与えるダメージが深くなるという視点です。
そこで、「加害者更生プログラム」では、「第1の視点」である“認知の歪み(間違った考え方の癖)”に対するアプローチですから、「暴力行為で、痛みと恐怖を与え、意のままに人を操ることは、間違っている」ということを学びことができます。
 つまり、親による暴力被害が軽度で、認知の歪みが浅い加害者に対しては、「加害者更生プログラム」のアプローチにより、一定の効果が認められる可能性があるということです。
 このことが意味することは、第1に、不安や恐怖を覚え、“危険”が迫っている状態と察知し、危険を防ぐためにとる行動、つまり、脳の反応については、「加害者更生プログラム」では対応できず、第2に、親による暴力被害が中度、重度で、認知の歪みが深いときにも、「加害者更生プログラム」では対応できないということです。
 この親による暴力被害が重度になると発症するのが、「愛着障害」を起因とするサイコパス(精神病質者、反社会性障害)、ボーダーライン(境界性人格障害)、自己愛性人格障害などの人格障害(パーソナリティ障害)、パラノイア(偏執病、被愛妄想)、統合失調症(精神分裂病)です。
 つまり、「愛着障害」を起因とする人格障害、精神疾患を抱えている加害者には、「加害者更生プログラム」では対応できないことになります。
*-131 逆に、疎外感、孤独感を訴える(情に訴える)ことで、意図的に、私が支えてあげるとの気持ちをひきだすように持っていくことでコントロールするやり口もあります。

③「暴力を学び落とす」ということ
怒りの仮面を被って駆使される暴力は、加害者が大人になるまでの間に、親からコミュニケーションとして学習し、身につけてきたものであることから、暴力を止めさせるのは、「暴力を学び落とす」ための最教育が必要です。
その再教育の“場”が、「加害者更生プログラム」と考えることができます。
暴力の背景には、相手を自分の思うようにコントールしたいという欲求と、そのために最も効果的な方法として暴力を正当化する考え方があります。
つまり、相手を自分の思うようにコントロールしたいという欲求と、そのための最も効果的な方法として暴力を正当化する考え方がベースにあります。
したがって、DV加害者に対する“再教育”とは、「欲求」と「考え方」を変化させるためのものということになります。
しかし、“欲求”と“考え方”は、既に、加害者の人格の一部となっています。
したがって、人格の一部となっている“欲求”と“考え方”に変化を及ぼすことは、並大抵なことではありません。
それは、「育て直し」という意味で、気が遠くなるほどの時間が必要です。
このことは、人格に歪みを生じている加害者が「暴力を学び落とす」ためには、加害者更生プログラムの実施期間(時間)だけでなく、その内容も足りないことを意味します。
内容としては、少年事件で、精神鑑定がおこなわれ愛着障害などが認定され、医療少年院に送致されたときには「育て直し」のためのプログラムが実施されていますが、それに匹敵するものが必要です。
問題は、医療少年院でおこなわれる「育て直し」のためのプログラムは、脳(特に、前頭葉)の発達途上にある児童(18歳未満)、そして、22歳でほぼ成長は遂げているものの、脳の確立に多少余地が残されている可能性がある26歳未満の少年に実施されるということです。
つまり、こうしたレベルのプログラムを用意することができたとしても、加害者更生プログラムの対象者のほとんどは、22歳を超えています。
実際に、「加害者更生プログラム」の参加者の50%は30歳代で、20%が50歳代、20歳代、40歳代という順になっています。
現実として、「加害者更生プログラム」を実施する年齢は、大きな問題です。

④ 暴力のうまみ(対象者)と離れることが条件
DVが常態化していても、離婚を回避するために、被害者が「加害者更生プログラムを受けて欲しい」と考えたり、逆に、加害者が「加害者更生プログラムを受けるから、離婚を考え直して欲しい」とお願いしたりすることがあります。
いずれにしても、第1に、「加害者更生プログラム」で一定の効果が見込める可能性があるのは、“認知の歪み”の程度が、人格そのものにまで至っていないこと、第2に、薬物・アルコール依存患者と同様に、暴力衝動(欲求)の対象となる妻や子どもとの共同生活を解消することが必要です。
共同生活は、被害者にとっては、暴力のある環境が継続されることであり、加害者にとっては、支配したいとの“暴力欲求”を満たす者が用意されていることになります。
「加害者更生プログラム」を受講する加害者と生活をともにすることは、薬物依存治療やアルコール依存治療を受けている者の前に、薬物やアルコールをを置くことと同じです。
 「Ⅱ.児童虐待と面前DV。暴力のある家庭環境で育ち、育つということ」の中で、胎児期から脳がどのようにつくられ、暴力によるストレスが脳に与える影響などを論じています。
 “快感中枢”がうまみを覚えてしまう、つまり、中毒状態は、薬物やアルコールだけでなく、セックス、暴力にも及ぶものです。
 “快感中枢”が覚えたうまみは、意志(前頭葉)では、コントロールできるものではありません。
したがって、「絶対にやらない」と強い意志を示しても、なにも意味を持たないのです。
一度、薬物が体内に入ると、“快感中枢”がうまみを覚えてしまいます。
一度と覚えたうまみが渇望すると、“快感中枢”は、そのうまみを強く要求するようになり、依存状態がつくられます。
つまり、脳からその欲求を消しさることはできず、できるのは、眠らしておくことだけです。
「眠らしておく」とは、快感中枢が覚えたうまみとのいっさいの接触を断つことです。
眠りから覚める刺激を側においておけば、再び、その刺激を求めるのはあたり前のことです。
暴力で覚えた“快感”も同じです。
したがって、加害者が、「加害者更生プログラム」を受けるときには、家族(配偶者や子ども)と別れ、更生する覚悟と決意がなければならないのです。
更生のためには、加害者自らが、配偶者や子どもに暴力をふるっていることを自覚でき、暴力のある家庭で子どもが育つことの影響を正確に理解したうえで、暴力で支配しようとするふるまいを治したい、暴力に頼らない人とのかかわり方を学び直したいとの強い意志が必要不可欠です。
なぜなら、加害者に必要なのは、治療ではなく、“更生”だからです。
加害者自身が、自分を変えたい、配偶者や子どもを暴力に巻き込んではいけない、離れて暮らさなければ、子どもたちにとり返しのきかない重い十字架を背負させてしまうことを自覚しなければならないのです。
DV加害者が向き合わなければならないのは、「暴力行為は、どのような関係においても、どのような場所においても、なんらかの条件があったとしても、等しく許されない」ことを学ぶことよりも、配偶者を支配している、屈服させている“快感に浸れる”という「うまみ」を捨てる覚悟です。
そして、「うまみ」をえるための対象が側にいる状況では、その「うまみ」を拒絶することは難しく、更生を拒む要因となるということ理解しなければなりません。
つまり、更生には、暴力の火種が燻らないように、その「うまみ」とのいっさいのかかわりを断ち切り、種火を完全に残さないことが必要なのです。
 そのため、被害者が、加害者に「更生するのを待っているよ」といったことばで、期待を持たせてはいけないのです。
 なぜなら、期待を持たせることは、褒美を得られることにつながるからです。
 つまり、暴力欲求を求める者にとっての褒美は、暴力行為そのものです。

⑤ 加害者の属性と加害者更生プログラムの有効性
「加害者更生プログラム」の受講を自らの意志で示す加害者に対し、プログラムを提供する意味は、被害者を守るために、なにもしないで手を拱いているより、建設的であるという意味で、「加害者更生プログラム」には、存在価値があります。
 ただし、DV加害者を一括りに捉え、すべてのDV加害者に対応できると考えることには、無理があります。
 つまり、本来、対等な関係に、上下の関係、支配と従属の関係を成り立たせるためにパワー(力)を行使する者の認知の歪みの程度が“軽度”なケースに限り、DVや性暴力などの加害者に対する更生プログラムは、一定(わずかな変化を含む)の成果が期待できます。
 自己愛性が高く、サイコパス的な傾向が顕著なケースについては、「Ⅱ-15-(11)人格障害の治療」の中で説明している通り、「加害者更生プログラム」の受講以前に、精神科医にもとづく治療そのものが困難です。
また、虐待体験などにより、脳機能として、暴力衝動(欲求)をコントロールできない者は、認知の歪みに対するアプローチをおこなう「加害者更生プログラム」は意味を持ちません。
ADHDやアスペルガー症候群など発達障害を抱える者の“障害の特性”やパニックアタック(パニック発作)が結果として、暴行や暴力となっているときには、「障害に対する治療」の治療の一環として、対人関係を学び直す必要があるものの、「加害者更生プログラム」は、発達障害の“特性”のもととなる器質的疾患の治癒を目的としていません。
したがって、パニックアタックについては、専門医師の治療、精神治療薬の服用が必要になります。
そこで、ADHDやアスペルガー症候群などの発達障害の抱える者の“障害の特性”による加害行為であるかを見極めるうえで重要なことは、当事者が、2次障害としての暴力のある家庭環境で育っていたか、遅発性の発達障害であるかどうかという正確な情報です。
 「Ⅱ-12-(11)自己正当型ADHDとAC」などで詳述しているとおり、小児型ADHDであった子どもが、暴力のある家庭環境で育つという“2次障害”は、遅発性の発達障害に分類されるものです。
この遅発性の発達障害の“障害の特性”に対する理解は、DV、パワーハラスメントやモラルハラスメント、体罰などをふるまいに及ぶ加害者の特性と絡む問題であることから重要な意味を持ちます。
そして、ADHDやアスペルガー症候群など発達障害を抱える者が、暴力のある家庭環境で育つことによる2次被害は、ADHDのAC(アダルトチルドレン)、自己正当型ADHD、アスペルガー症候群のACなどを生じさせますが、アタッチメントを損なっているという意味で、「自己愛性が高く、サイコパス的な傾向を併せ持つ」ことから、「加害者更生プログラム」による効果は期待できません。
 したがって、加害者を“一括り”として捉え、「加害者更生プログラム」を提供することは、逆に、弊害を生みだす怖れがあるということです。
つまり、①暴力をコントロールできる脳機能を未獲得のまま育っているのか、②加害者の認知の歪みが人格にまで及んでいるのか、それとも、③暴力行為が、ADHDやアスペルガー症候群などの発達障害を抱える者の障害の特性によるものなのか、④その障害を抱えた者が2次被害を受けて育っているのかなどを正確に見極めていかなければならないということです。
 ここで、ストーカー規制法にもとづく文書警告をだされ、治療の一環としてカウンセリング(加害者更生プログラム)を打診された加害者の参加状況と、性犯罪に及び服役している者に対して実施されている「性犯罪の再発防止プログラム」の現状について、少し説明しておきたいと思います。
 これらのプログラムは、すべて“認知の歪み”に対するアプローチでおこなわれます。
そして、レイプなどの性暴力行為は、交際相手や配偶者を支配するための暴力と似通った中毒性のあるものであることから、「性犯罪の再発防止プログラム」の現状を理解することは、別れ話を切りだしたあと、復縁を求める話し合いを求めてつきまとうストーカー行為に及ぶリスクを考えるうえで重要な意味を持ちます。
 では、最初に、警察からストーカー規制法にもとづく文書警告をだされた者に対するカウンセリング(加害者更生プログラム)の現況について触れておきます。
警察からストーカー規制法にもとづく文書警告をだされ、治療の一環としてカウンセリング(加害者更生プログラム)を打診された加害男性249人(女性は35人)のうち「受けたい」と応えた加害男性はわずか9人(3.61%)であったという報告があるなど、加害者更生プログラムに参加している加害男性はごくわずかです。
しかし、上記のとおり、加害者の認知の歪みの程度が“軽度なケース”では、一定(わずかな変化を含む)の成果が期待できることから、「加害者更生プログラムの受講を自らの意志で示す加害者に対して、プログラムを提供する意味は、なにもしないで手を拱(こまね)いているより建設的である」という考え方に立つと、十分に、「加害者更生プログラム」の存在価値はあるわけです。
一方で、加害者の認知の歪みの程度が人格にまで及んでいたり、性犯罪に及んでいたりする者、特に、「Ⅱ-14.パラフィリア(性的倒錯・性嗜好障害)」で詳述しているパラフィリアに起因していたり、双極性障害(躁うつ病)の躁状態であったり、性的逸脱行為や性暴力そのものに中毒性が認められていたりする者に対しては、現状の「加害者更生プログラム」では、成果を期待することはできないのです。
警察庁が、平成17年6月-同24年5月の再検挙者を詳細に調査した結果、「13歳未満の子どもに対する強制わいせつや強姦などの暴力的性犯罪で服役した者について、過去5年間で警察に出所情報が提供された740人のうち、105人が性犯罪で再び検挙(20.27%)され、その過半数が出所後1年未満だった」こと、「再検挙者の4分の1にあたる26人が所在不明になっていた」ことがわかりました。
性犯罪で再検挙された105人のうち、暴力的性犯罪が63人(60.0%)で、子どもを対象にしていたのは49人(46.67%)でした。
犯罪の検挙暦は1回が24人、3回18人、2回15人、13回と18回が各1人で、検挙暦なしは10人に留まっています。
出所時の年齢をみると、20代が22人(21%)、30代が44人(42%)と若年層が6割以上を占め、最年長は76歳でした。再検挙までの期間は、平均444.3日で、1ヶ月以内が8人、1-2ヶ月が4人、2-3ヶ月が10人、3-6ヶ月12人、6ヶ月-1年が23人、1-2年が14人、2-3年が8人、3年以上が1人で、「性犯罪の検挙暦が多いほど、再検挙までの日数が短くなる傾向もみられた」ということです。
平成27年1月、福岡県豊前市で小学校5年生(10歳)の女児が連れ去られ殺害された事件で逮捕、殺人、死体遺棄、強姦致死、わいせつ目的誘拐に問われ、平成28年10月3日、福岡地方裁判所小倉支部で無期懲役の判決(求刑死刑)が下った内間利幸(47歳)は、過去にも小学生女児を狙ったわいせつ事件を起こし、12年間の服役中に半年間受けた「性犯罪の再発防止プログラム」で学んでいました。
内間がおこした過去の小学生女児を狙ったわいせつ事件とは、平成8年-同111年にかけて発生した沖縄県の連続強姦事件のことです。
平成8年、23歳の女性を強姦し、1万1千円を強奪したあと、同11年、立て続けに9歳、11歳、16歳の少女を雑木林や空き地などに無理やり連れ込み、強姦しようとしました。この3件は、いずれも未遂に終わりましたが、少女ら2人にケガを負わせています。
同12年、那覇地方裁判所は、内間に対し、懲役12年の判決を下し、内間は、熊本刑務所に服役することになり、同23年、内間は、「性犯罪の再発防止プログラム(性犯罪者処遇プログラム)」を受講することになりました。
「性犯罪の再発防止プログラム」は、性犯罪の前科がある男が、平成16年に奈良県で起こした女児誘拐殺人事件がきっかけとなり、平成18年、刑務所で、性犯罪再犯防止指導を特別改善指導のひとつとして導入されました。
このプログラムは、各刑事施設の職員が受刑者に面接を実施し、リスクの査定をしたうえで、その結果に応じてプログラムを受講させるか否か、また、受講させるのであればどのプログラムが適切かを決定したうえで、実施されるものです。
内間は、公判の中で、「性犯罪の再発防止プログラム」で学んだ“性衝動の制御方法”について、内間は「覚えていない」と回答しています。
 内間は、拘留中、面談に訪れたメディアに対して、受講していたプログラムについて、「あまり、…よいようには思えんかったです。周りの人に気を使うので…。いろいろな工場におります囚人たちが、こういう犯罪をしている人だけ集められてプログラムを受けますので。いつ、こういう教育してるかというのを周りの囚人たちに知られてしまうので、気を使いました。」、「服役の理由を知られたくはない。そこに神経をとられてしまいました。」と述べるなど、プログラムそのものではなく、「それを受講することによる周囲の目が気になった。」、続けて、「プログラム自体は、…真に迫ってくるとか深みはなかったです。8人くらい集まって。事件については触れなくて、生い立ちを軽く話して、どういう風にすればこういう犯罪がなくなるかとか意見を出し合うんです。」、「それは、教育係とか刑務官とか関係なく、自分らで話し合いを進めていきます。なので、そこら(深い話)はやっぱり避けようとする。表面的だったなという印象です。」と述べています。
プログラムでは、グループディスカッションだけでなく、自分の気持ちを紙に書きだすという作業もおこなわれています。
事件前はどういう仕事をしていたか、この場でどう変われるかということ、社会復帰をしてどうしていくか、犯罪に再び手を染めてしまいそうになったら、どうするかなどのテーマについて、自分なりの考えを綴っていきます。
問題は、この紙に「書きだす」という作業を繰り返すことによって、プログラム参加者が身につけることは、“反省の仕方だけ”であるという事実です。
つまり、この「プログラムそのものが、自分の性衝動を止めることができなかった根源を見つめる機会とはなっていない」ことについて、内間は「表面的だった。」と指摘しています。
事実、再犯後の内間は、月命日の31日は、ない月もあることから、月の最終土曜日を月命日と定め、“断食”をしたり、毎日、被害児童への祈りを捧げたりするなど、反省の態度を“示す”ことは日々続けています。
また、「私には祈ることしかできません。神様と共に天国で平安にお過ごしくださいと毎日祈っております。」などと、被害児童の冥福を祈り続けていると文字にしたためています。
ところが、公判では、内間は「口を塞いだだけ。」と殺意を否認したり、わいせつな行為について、10歳の被害児童の「同意があった。」と主張したりしています。
 このことは、内間が、上辺だけの反省のことばで表現することができても、その反省を実際の言動や態度・ふるまいで示すことが“つながっていない”ことを示しています。
 第三者という二人称・三人称に対し、幼少期に、自己と他の分離ができず、自己と他の境界線があいまいなまま成長してしまっていると、二人称・三人称の第三者に対する反省という概念は存在しないことから、ことばとしては、第三者に反省のことばを述べることができたとしても、善悪の判断ができない一人称の“わたし”は、反省する言動や態度・ふるまいという行動に移すことはできないのです。
 この状態は、DV被害者が、交際相手や配偶者からの暴力に耐え切れずに実家に帰ったとき、DV加害者が、被害者に対して、「本当に申し訳ないことをした」と謝り、「二度と暴力はふるわない。」と約束したものの、そのことばを信じ、加害者のもとに帰った被害者が、再び、暴力被害を受けることになるのと同じです。
 したがって、親による暴力被害が重度であり、これらのプログラムが意味を持たない人物かどうかを見分けるポイントとなるのが、一人称の世界観であること、つまり、自己と他の境界線があいまいであることがわかります。
このように、認知の歪みが深く、快感中枢がうまみを覚えている人物に対するプログラムの有効性は、疑問視されているのです。
事実、法務省は、「性犯罪での受刑中にプログラムを受講した者と、受講しなかった者のそれぞれの性犯罪再犯率は、12.8%と15.4%であり、その差は、わずか2.6ポイントしか違わない」ことを認めています。
そして、子どもを狙った性犯罪は、再犯の可能性が高いことから、「日本では13歳未満を対象にした性犯罪者に限り、法務省が出所時の情報を警察庁に提供し、警察が所在確認し、面談などをおこなう」ことができるようになっていますが、強制力はありません。
そのため、平成27年12月末で、全国に815人いる刑期を終えた性犯罪者のうち、わずか41人(5.03%)の所在しか確認できていません。
重要なことは、刑期を終えた性犯罪者が、自ら性犯罪を繰り返さない強い意志と覚悟を持ち続けられるかということです。
自ら警察に所在を知らせ、面談を受け続けることは、自身に課すその抑止力として重要な意味を持ちます。
なぜなら、強い意志と覚悟が必要だからです。
しかし、刑期を終えた性犯罪者の774人(94.97%)は、自らの意志で警察に所在を伝えていないのが現状です。
つまり、内間のように、間違った考え方の癖(認知の歪み)については、「性犯罪の再発防止プログラム」の受講により、表面的(上辺)にはわかったかのように見繕う(演じる)ことはできても、“快楽中枢”が覚えたうまみは、捨て去ることはできないのです。
その結果、うまみを求めて、再び、性犯罪行為に及ぶことになります。
その774人の内のひとりが、「性犯罪の再発防止プログラム」を終了した内間利幸でした。
重要なことは、「性犯罪の再発防止プログラム」は、犯行に至る行動と思考パターンを省みさせる「認知行動療法」を施し、性衝動をコントロールできるようにすることを目的に開発されたものですが、この加害者の“歪んだ認知”に対してのアプローチは、DV加害者やストーカー加害者を対象にした「加害者更生プログラム」と基本的に同じアプローチでつくられているということです。
「加害者更生プログラム」は、“これまで”人とのかかわりに暴力を持ち込む考え方の癖(認知の歪み)による過ちを繰り返してきた加害者が、“これから”かかわる人たちに同じ過ちを繰り返さない(再犯防止)ために、加害者自らの強い意志にもとづいて学び治す場です。
 しかし問題は、性暴力やDV行為(身体的暴力、性的暴力、精神的暴力、経済的暴力)の背景に、暴力から得られる強烈な快感刺激を求めるマグマが噴きあがってくるような強烈な衝動(欲求)は、人とのかかわりに暴力を持ち込む考え方の癖(認知の歪み)に対するアプローチでは対応できない領域ということです。
 加えて、自己正当化型ADHDや発達障害を抱えている者の“障害の特性”が、DV行為の背景にあるときには、「加害者更生プログラム」そのものが意味を持たないことになります。
加害者更生プログラムについては、「Ⅴ-38.DV加害者更生プログラム。「ケアリングダッド」を実施するうえでの原則」において詳しく説明しています。
また、自己正当化型ADHDや発達障害を抱えている者の“障害の特性”にもとづく加害行為を受けた被害者特有の心理状態については、「Ⅰ-2.被害者に見られる傾向」の中の「カサンドラ症候群」で、詳しく説明しています。


(10) 調停に持ち込まない、暴力に順応してきた考え方の癖
婚姻破綻の原因がDVにあるとする離婚調停では、被害者が、DV加害者の心理・行動特性をバックボーンとして状況を読みとることができなければ、足元をすくわれてしまいます。
加害者の態度、考えやいい分の変化を、DV加害者の心理・行動特性に照らして推論し、考えなければならないのです。
つまり、被害者は、加害者の心理と調停の流れを読みとり、切り崩しを仕掛けていかなければならないことになります。
加害者の主張が、a)“(逆らった、裏切ったことへの)こらしめ”なのか、b)調停委員に対し“いい人”という虚像を演じているのか、c)子どもを介して“配偶者とのかかわりを続けよう”としているのかといった流れ(意図)をつかみとり、主体的に調停を進めていかなければならないのです。
加害者の発言や主張の真意を読みとれず、調停の流れをつかむことができないと、加害者が主導権を握り、後手後手の対応を迫られることになります。
一度、後手に回ると、状況を打開するのは容易でなくなるのはいうまでもないことです。
加害者の発言や主張の真意をどのように読みとったらいいのかについては、「Ⅰ-11.断ち切るために必要。加害者に共通する行動特性の理解」で、ポイントを整理していますので、ここでは、被害者が、暴力に順応して身につけてきた間違った考え方の癖(認知の歪み)にフォーカスし、離婚調停において、被害者自身の発言や主張により、不利な状況を招くことのないように、幾つかのポイントを整理しておきたいと思います。

① 夫の意に添うようにふるまわない
離婚調停では、先に記しているとおり、「夫は、私のことを思って~してくれていたのだと思いますが、…」と、夫は“きっとこうしたかったに違いない”と夫の気持ちや考えに思いを馳せて(思いを汲んで)はいけないということです。
大切なことは、第1に、「私は、夫に~された。」と受動態で思い述べるのではなく、「夫は、私に~をした。」を能動態で、事実を伝えることに徹することです。
第2に、思い(意見)と事実をきちんとわける、つまり、状況(事実)を説明し、考えを主張することが大切です。
なぜなら、司法に携わる人は、法に照らして説明された事実で可否を判断していきますから、ロジカル(論理的)でなかったり、因果関係のない話であったりすることを嫌う(苦痛と感じる)のです。
裏づけのない感情論には辟易してしまったりすることを理解しておく必要があります。
依頼した弁護士が「陳述書を書いても、裁判官や調停委員は長い文章は読みたがらないし、読まない。」といったりするのは、こうした解釈によるものです。
裁判所の判例を見るとわかるように、その判決文は難解で、とても長い文章です。
つまり、彼らが慣れ親しんでいる文体、文章構成であれば読むし、どれだけひどい思いをしてきたのかを嘆き、共感を訴えることばばかりを長々と書き綴ってしまっている文章は、ロジカル(論理的)でないので読みたがらないというだけです。
陳述書は、報告書として事実経過とまとめ、因果関係にもとづいて論理的に主張しているものであれば、裁判官も調停委員も、そして、依頼している弁護士もきちんと読みます。
たとえ、夫が「権利」として「親権」や「面会交流の実施」を主張してきたとしても、「夫はその権利を行使する資格がない」ことの“根拠”を、論理的(因果関係にもとづいて)に示せばいいことになります。

② 夫の機嫌を損ねないことを考えない
調停では、調停委員や加害者の発言に、なにか“変化”の兆候がないだろうか、その前にどういうやり取りがなされていたのかと、“流れ(その場、そのとき状況とその都度変わる状況の変化)”を読みとることが重要です。
いまの状況がどうなっているのかを読みとることは、ごくあたり前の「なぜだろう?」と考えるチェック機能です。
しかし、暴力のある環境で暮らしてきた被害者にとっては、ごくあたり前のことではなくなっていることが少なくないのです。
なぜなら、暴力のある環境で生活する中で、「いっても無駄」、「いってもなにも変わらない」と思い知らされてきたツラい体験を積み重ねてきているので、疑問を感じること、つまり、“なぜ?”と考えることを封印してきたからです。
「いっても無駄」、「なにも変わらない」と思い知らされる前には、「俺にはお前が必要なんだ」と甘いことばをいってくれたりしたかと思うと、突然、「テメエはまだわからないのか!」と大声で怒鳴りつけられたり、“相反する受容(優しさ)と拒否(暴力)”を交互に繰り返され、「どちらの夫が本当なの?」と思考混乱をおこし、「どうして? 夫はこうなんだろう」と、夫のことばかり考えている一定期間があります。
その期間を経て、夫にはいってもムダ、夫はいっても変わらないという諦め、つまり、無力さを思い知らされ、絶望感を抱くようになっていきます。
それだけでなく、「テメエは痛い目に合わないとわからない!」と“責任はお前にある”との意味を伴ったことばで、加害者自身のふるまいを正当化する発言とともに、怒鳴りつけられたり、殴られたりしていると、「悪いのは自分」と思い込まされていくことになります*-132。
こうしたプロセスを通じて、思考がコントロールされていく中で、被害者は、なぜ?と考えることを封印(疑問を感じない、持たないようにする)していくようになるのです。
そして、暴力のある環境で暮らす被害者(妻や子ども)は、思考がコントロールされる中で、夫(もしくは父親)の気分を害しないように、機嫌を損ねないように顔色を伺い、意に添うように先回りをして考え、尽くします。
苛立ちや怒りの気配を察知するために全神経を使うことで、心身ともにすり減らし、怯えながら、息をひそめて生き延びてきたのです。
“なぜ?”“どうして?”と思うとツラく、耐えられなくなることから、考えることをやめてしまい、感覚を鈍感(感覚鈍麻)にして、心が傷つく(精神が破壊される)ことから守らなければならないのです。
人は、心を破壊されることから守るためには、ツラい現実(真実)から目を背け、“なあなあ”“うやむや”にして過ごすか、すべての記憶を消し去るか、“もうひとりのわたし”に抱え込んでもらうしかないのです。
心は傷つき、疲弊し、「もう耐えられない」と心が悲鳴をあげ、加害者の夫のもとから逃れる決心をしてきたDV被害者の多くは、この思考習慣をそのまま離婚調停に持ち込んでしまいがちです。
しかし、調停には、夫がどうするかを考え(どうしたいかと思いを馳せ)、夫の“機嫌を損ねない”ように、“意に反しない”ように考える、暴力のある生活環境で育ち、暴力のある環境に順応するために身につけなければならなかった考え方の癖(認知の歪み)を持ち込んでしまってはいけないのです。
被害者の多くは、「こんなことをいったら機嫌を損ねてしまうかもしれない」といいたいことを口にしなかったり、「他人にペラペラしゃべりやがってと夫を怒らせてしまったら、なにをされるかわからない」との思い(恐怖心や不安感)に囚われ、“なにをされてきたのか”を話すことができなかったりします。
こうした状況は、“これまで”暴力に支配されていた生活となにも変わらず、夫の土俵で戦うことになります。
被害者であるあなたの思考言動パターンが、加害者である夫を擁護することになったり、夫の主張の裏づけをしてしまったりして、自分自身で不利な状況を招いてしまうことになるのです。
さらに、被害者が、「人に悪く思われたくない」思いや、「こんなことを口にしたら、変な奴とか、そんな話バカげているとか批判されないだろうか」との強い不安感を抱えているときには、たとえ、自分の考えとは違ったり、自分がいいたいことではなかったりしても、調停委員や弁護士の意向に沿った(意に反しない)ことを発言してしまうことがあります。
事例178(分析研究14)で、被害者Fと支援者とのメールのやり取りの中で、Fが「…。N弁護士のメールのことは、わかってもらいたくて色々説明しているところですかね。4月22日23日あたりです。急に距離をつめすぎているように感じました。N弁護士に気持ちをもっと話した方がいいのかなと思ったのと、本当に苦しかったんだと気づいてもらえたら、調停も多少は違う結果になったりするかなと思いました。わかってくれる!と思って飛びついてガッカリ…のような感じです。」と書いているように、Fは、依頼した弁護士に気兼ねして、「なにをされてきたのか」「どのような状況におかれてきたの」という事実にフォーカスするのではなく、弁護士の意向に沿った(意に反しない)ようにふるまおうとしてしまった結果、状況を悪くしてしまったのです。
暴力状況を的確に示す「夫に馬乗りになられ、顔を床に押しつけられた」という身体的な暴行の事実は伝えず、細かなお金の使い方まで詮索され、干渉された嫌な気持ちをひきずっているできごと(経済的暴力、精神的暴力)を詳細に伝え続けたことで、深刻なDV事件とは認識されなかったのです。
Fが、「夫に馬乗りになられ、顔を床に押しつけられた」身体的暴行を弁護士に、そして、調停委員に話すことができなったのは、自身が夫から受けた暴行は父親が母親を殴ったり、叩いたりしていた状況に比べたいしたことがないと認識し、きっと弁護士や調停委員にもそう思われたり、「大袈裟」とか、「変わった人」と思われたりするに違いないと口を閉ざしてしまったのです。
つまり、話してどう思われるかという強い不安感(感情)は、伝えなければならない事実よりを優先されてしまうのです。
大袈裟な人、変わった人、おかしなこという人、嘘をつく人と思われなくない感情、つまり、「人によく思われたい」という思いは、コミュニティで生きるために、仲間に阻害され、孤立するのを防ぐ機能として、または、人の意思決定(判断基準)において、重要な役割を果たすわけです。
しかし、その思いが強過ぎるときには、対等な対人関係を損なう原因になります。
なぜなら、この「人に悪く思われたくない」、「人によく思われたい」との感情は、人の気を惹いたり、人を騙したりする“世渡り術(生き抜く術)”して巧みに利用するツールにもなりうるからです。
人を騙すという悪意としての利用については、マインドコントロールを仕掛ける者は、人の“情”につけ込んでくることを、「Ⅰ-5.被害者心理。暴力で支配、マインドコントロールされるということ」の4項(暴力、洗脳、マインドコントロール)、5項(霊感商法、対人認知の心理)、6項(結婚詐欺師の言動・行動特性)の中で詳しく説明してきました。
繰り返しになりますが、DV加害者の暴力に耐えられず、「もう耐えられない。離婚する。」と宣言したとき、謝ったことなどなかった配偶者が、泣きながら「ごめん。もう二度と嫌がることはいわない」と何度も必死に詫び、許しを請い続けます。
人は何度も「ごめんなさい」「ごめんなさい」と謝られると、それを許さないほど私は非常じゃない、冷たい人間じゃないとの思いが湧きあがります。
そして、「こんなに謝っているのだから、きっと変わってくれるに違いない」と根拠のない期待を込めて許すことになります。
しかし、DV加害者のこうした行為は、誤りを悔い改めるためのものではなく、人の気を惹いたり、人を騙したりする術としてのおこないでしかなく、目的は、いまの不利な状況や困った状況を打開するためです。
つまり、世渡り術(生き抜く術)として、“人の弱み”となる「人に悪く思われたくない」「人によく思われたい」と思い(情)を巧みについてきた行為ということになります。
この「人に悪く思われたくない」、「人によく思われたい」という思い強い人、つまり、囚われ、縛られている人は、「人にどう思われているか」と、人の評価を気にし過ぎる傾向があります。
「さっき、あんなこといったけど、どう思われただろうか」と心が惑わされ、強烈な不安感に襲われ、場合によっては「消えてなくなりたい」思いに駆られたり、一方で、強烈な不安感が猜疑心となり、場合によっては攻撃してその不安を排除しようと試みたりします。
猜疑心が強いばかりに、依頼した弁護士を信じることができず、弁護士を解任し、違う弁護士と委任契約を結ぶことを繰り返してしまう被害者がいます。
*-132 DV被害を第三者に話すとき、「夫に暴力をふるわれるのは、私にも原因があるのです。」と表現してしまうと、「原因はあなたにあるというのは?」と訊かれ、応えるという流れになります。
 このことは、“あなたの問題”としてフォーカスされることを意味します。
その結果、詳細な状況を知らない第三者には、“原因があるなら仕方がない”と認識されてしまうことになります。中には、「問題のあるあなたのふるまいや言動を直していく」ことにフォーカスされたアドバイスを受けることになることもあります。
問題は、自分自身で、詳細な状況を知らない第三者のように“問題のある私のふるまいや言動を直していかなければならない”と、自らの意志で助言を求めることがあるということです。
このとき陥りやすいのが、「自己啓発セミナー」を隠れ蓑とした新興宗教やカルト教団、そして、スピリチュアルなものにつけ込まれ、傾倒してしまうということです。

③ “私の事情”を持ち込まない
a)職場で、上司が部下に「君のことを案じていっているんだ。」という発言や、b)学校で、教師が生徒に、そして、c)家庭内で、親が子どもに「お前(君)のことを思っていっているんだ。」といった発言は、そうしてくれないと、社内で、学校で、家庭内で、世間的に、“自分の立場が悪くなる”との思いからの発言です。
つまり、自己のふるまいを正当化する言動ということです。
そのため、こうしたいい方をする上司、教師、親に対して、部下や子どもたちは「なにいっているんだ。そんなの自己保身じゃないか(世間体が悪いからだろ)! “嘘つき”!」と愛想をつかし(信頼を失い)、以降、耳を傾けなくなります。多くの場合、立場上、それでは威厳が保てないことから、パワー(力)を行使して無理やり威厳を保とう(いうことをきかせる、従わせる)とすることになります。
集団、コニュニティの中で生活してきた人は、子どものときから“えこひいき”と“自己保身”の発言やふるまいに対して、とても敏感です。
なぜなら、その特別な存在であることは、乳幼児が生き延びるために必要な“性”であると同時に“術”だからです。
そして、この感覚は、大人の社会、地域コミュニティ、職場、学校、家庭、そして、家庭裁判所でおこなわれる離婚調停の場においても同じ感覚が働きます。
「被害者」という特別な存在となったとき、調停委員が加害者の主張に対して、被害者寄りのいい方をしてくれない(そのまま伝えてくる)と、否定されているとか、わかってもらえていないと感じ、その瞬間に「どうせなにをいってもわかってもらえない」と口を閉ざしてしまうことがあります。
調停委員は、本来中立的な立ち位置で、双方の話を聞き、双方の考えや意志を伝えるのが役割です。
DV離婚事件では、一方の話を聞いているときには、もう一方は控室で待機している中でおこなわれることから、2名の調停委員が、双方の主張や考えを仲介することになります。
そのとき、加害者である夫の話を聞き、「夫は~といっていますが、…」と話を切りだすことにさえ、「調停委員たちは、夫の話を聞いている=夫の主張を認めている」と解釈してしまい、「調停委員は私がどれだけツラく苦しい思いをしてきたのかをわかってくれない」と批判し、強く拒絶してしまうことが少なくないのです。
暴力のある家庭環境で育っていると、敵か味方か、好きか嫌いか、白か黒か、善か悪かと二元論(二者選択)で考える思考パターンとなっていることから、「自分だけの味方である」ことを求めるのです。
調停委員のすべての発言に、「自分だけの味方である」と感じられないと、「やっぱり、私の気持ちをわかってくれない」と拒絶してしまうことになります。
つまり、自分のことを被害者としてえこひいき(特別扱い)してくれるなら味方、中立的であっても敵という構図をつくってしまうのです。
家庭裁判所でおこなわれる調停の場で調停委員などの第三者に伝えなければならないのは、どれだけツラかったのかという気持ち(感情)ではなく、「なにがあったのか」という“事実”です。
「どのようなことをされたのか」、「どのような状況におかれていたのか」という“事実”を正確に伝えることができれば、被害者が必死に訴えなくても、第三者は、「それは大変な思いをしてきただろうな」、「ツラかっただろうな」と感じるものです。
つまり、日常的にどのようなDVがおこなわれてきたのかという“事実”が正確に伝われば、調停委員などの第三者は、自ずとどれだけツラく大変な思いをしてきたのかに想いを馳せることができるのです。
調停委員などの第三者が想いを馳せることができない状況にあるときには、「事実を正確に伝えていない」ことになるのです。
そして、被害者に「親権を相手にとられたくない」との思い、「子どもを相手に会わせたくない(面会交流の拒否)」との思いが強すぎると、「子どものことを思って~」、「子どもへの影響を考えると~」と必死になってしまうことになります。
こうした感情的な言動は、自己都合の言動(私の事情)でしかないと思われ、不利な状況を招いてしまうことがあります。
そして、「嫌だ」とか、「許せない」と心が拒絶し、感情的になったり、相手の人格を貶めるような誹謗中傷を繰り返したりする事態を招いてしまうことがでてきます。
たとえ被害者という立ち位置であっても、相手の人格を貶めるような誹謗中傷は、第三者にいい印象を与えないだけでなく、仮に、相手が「DVなんてするはずはありません。でっちあげです。私のほうこそ被害者なんです。」と主張しているときには、その主張を裏づけてしまう結果に陥ってしまうことさえあるのです。

ここで、自身のDV被害、子どもの面前DV被害(精神的虐待被害)について正しく認識できていない状態で家をでて、別居した妻が申立てた「婚姻費用の分担請求」を受けて、夫が「離婚調停の申立て」をおこない、「離婚と父親が親権を持つ」ことを求めたDV離婚事件でおきた“おかしな状態”をみていきたいと思います。

-事例181(DV95・分析研究17)-
2人の男の子(5歳の長男はアスペルガー症候群の診断を受けています)を連れて家をでた被害女性は、夫が申立てた離婚調停において、「子どもの親権を譲れない」と主張する一方で、暴力に耐えきれず子どもを連れて家をでたものの、子どもには父親が必要との思いで、父親と子どもとの面会交流に積極的でした。
ところが、子どもに父親を会わせてみると、家に迎えに行っても子どもを帰そうとせず泊まらせるなど約束を破り、子どもに「ママがパパを追いだしたんだよ。」と母親の悪口(誹謗中傷)いったり、それだけでなく、子どもの通う幼稚園や保育園、小学校、習いごと先に現れ、子どもを追いかけたり、お菓子をわたしたりするようになりました。
そこで、被害女性は、これまでの態度を一転させ、夫に「子ども(長男)が不安定になっているので、しばらく面会を控えて欲しい。」とお願いしました。その被害女性の訴えに対し、夫は、調停において、「妻が子どもに会わせなくしている(会わせようとしない)。」と妻のふるまいを非難するようになり、一転して、離婚調停が“拗れていく”ことになりました。
そして、調停委員は、調査官は調停が拗れた原因は、被害女性(妻)の方であると認識することになったのでした。

被害者は、「夫は子どもを迎えに行っても帰らせず、泊まらせたり、私(母親)の悪口を子どもに吹き込んだり、父親が子どもの通う幼稚園(保育園、小学校)の近くで待ち伏せし、子どもにお菓子をわたしたりするので“困っています”。」と窮状を訴えるのではなく、「父親が幼稚園(保育園、小学校、習いごと先)で待ち伏せし、子どもの写真を撮ったり、お菓子をわたしたりするのは“異常だ(おかしい)”!」と父親のふるまいを非難したのです。
いてもたってもいられなくなっている被害女性は、続けて、「夫の異常行為によって、子どもが怯え、不安定になっているので、家に行かせたりなどはできない。」と強く拒否し、続けて、「公共の場で、エフピックなど第三者機関に同席してもらうなど条件をつけたい。」と主張しました。
つまり、否定と禁止のことばで、夫に対し一方的にさまざまな要求をつきつけるようになったのです。
こうした被害女性のふるまいは、調停委員や調査官などの第三者には、これまで話合いは良好に進んでいたのに、突然、父親と子どもが会うことに異議を訴え、あえて拗らせてようとしていると感じさせてしまうものだったのです。
当初、父親との面会交流を切望したのは、被害女性(妻)の方だったのですが、その主張を突然覆し、夫のふるまいを誹謗中傷しながら訴えたことで、調停委員や調査官には、被害女性の発言は、夫(父親)だけを非難し、人格を貶めようとするものであることから、被害女性が「子どものために」、「子どもにとっては」という理由で訴えるわけですが、被害女性は情緒不安定で、主張に一貫性はなく、ときに支離滅裂との印象を与えてしまいました。
「困まっている」と窮状を訴えるか、「異常だ!」とおこないを非難するかによって、聞き手(調停委員や調査官)の受ける印象はまったく違うものになってしまうのです。
面会交流を争点とする離婚事件では、被害女性が、加害者である父親と会せたくないために「子どもの将来が心配だ」、「子どもに後遺症がでることが心配だ」と、子どもの“将来(未来)”に対する“仮定”の話を主張することがよくありますが、司法や行政に携わる者は、こうした仮定の話には、明確な根拠(因果関係)を示されなければ否定的な立場で対応します。
つまり、調停委員や調査官は、「面会交流をしてみないとわからないよね。」との考えを示すことになります。
明確な根拠(因果関係)を示すことなく、感情的に「父親と会わせたくない!」と訴えることもまた「私の事情」と解釈されてしまうことになるのです。
そして、この事例181も被害女性が家をでる前に、自身がDV被害を受けていることを正確に認識することができなかったことから、加害者である父親と子どもとの関係に、常識的な考え方を持ち込んでしまったことが、のちに自身を窮状に追い込むことになってしまったのです。

④ 「いい負かされなくない」思いを持ち込まない
孫子の兵法に「彼を知り、己を知れば、百戦危うからず」とことばがありますが、広く解釈すると、「相手(加害者特性)を知らず、自分(被害者心理)を知らずに戦をおこなう(離婚調停に臨む)ことは“危く”、身を滅ぼす(とり返しのつかないミスを犯す)ことになりかねない」ということになります。
DV被害者の多くは、長い間、配偶者の暴力に怯えてきています。
夫の顔色を伺い、意に反したふるまい、機嫌を損ねないように細心の注意をするといった、暴力のある環境で生き延びるための多くの“術(すべ)”を身につけています。
しかも、暴力のある生活を続けていく中で、「私が悪い(いたらない)」ので暴力を受けても仕方がないと、自分がその環境に留まる行為を正当化して(受け入れて)います。
こうした暴力のある環境に順応するために身につけてきた考え方や思考習慣は、暴力に順応した“認知の歪み”によるものです。
そして、被害者の暴力に順応した認知の歪みは、DV加害者にとって“都合のいい考え方”でしかないのです。
被害者は、このことに気がつかなければならないのです。
もし、このことに気づくことなく加害者と話し合ったり、離婚調停に臨んでしまったりしてしまうと、これまでのいうに、DV加害者に跪き、許しを請うてきた日々となんら変わらない事態が待っています。
加害者との生活と同じように、離婚調停は、加害者の土俵で進められることになります。
被害者であるはずの訴えを信じてもらえないまま堂々巡りが続き、八方塞がりになり、理不尽な思いをさせられ、絶望感に苛まれることになります。
つまり、加害者がDV行為そのものを認めず、子どもの親権や面会交流を求める離婚調停に臨む状況は、暴力に支配されていた状況が「家」から「調停」に“場”を変えただけで、なにも変わっていないことになります。
しかも、力ではかなわないと思いながらも“相手に負かされまい”と必死にパワーゲームを挑んできた被害者は、そのままの思考回路で離婚調停に臨んでしまうリスクを抱えているのです。
また、被害者が、加害者の支配下にあった状態の「私は心を持ってはいけない」、「私の考えや意見を持ってはいけない」との縛りから開放されたとき、これまで溜め込んできた怒りの感情をあらわにしやすくなります。
一方で、加害者は、外面よくふるまえる“術を熟知”し、“理解のあるいい夫(父親)”を演じることに長けているわけです。
こうした状態を離婚調停に持ち込んでしまうと、感情をあらわにする妻、冷静に対応する夫といった「構図」になってしまいます。
この「構図」は、いうまでもなく、加害者の夫だけに都合のいい状態になることを意味しています。
この時点で、勝負が決まってしまうことになります。
DV離婚事件では、DV加害者の夫が、「妻が家庭放棄をした(家事や育児を疎かにしている)。」と離婚原因をつくったのは妻にあり、「子どもはその犠牲になって、かわいそうだ。」と嘘・偽りを真実であるかのように主張し、いかに悪妻であったのかを一つひとつあげていくなど傍若無人なふるまいに、「いわれっぱなしで悔しい!」との思い、「調停委員に、夫の嘘・偽りを信じられてはたまらない」との思いで、ヒステリックにいい返す過ちを犯してしまいます。
感情的になり、冷静さを失った被害者は、加害者と同じ穴の狢(むじな)になってしまうのです。
調停や裁判に、感情的なパワーゲームを持ち込んではいけないのです。

⑤ 私のツラさをわかって欲しい“思い(感情)”を優先させる
 DV被害を受けたとき、被害者は、第三者にDV被害を相談したり、第三者にDVの状況を説明したり、または、第三者にDVを立証するために事実を示したりしなければならないことがあります。
 第三者とは、家族、友人、職場の上司や同僚と気心が知れている相手だけでなく、女性センターなど行政の相談機関の職員、民間の支援機関の職員など、警察署の警察官、医療機関の医師や歯科医師、看護師、医療事務員、児童相談所の職員、学校園の教職員、弁護士、家庭裁判所の裁判官(審判官)や調停委員、調査官などです。
 気心が知れている家族、友人、職場の上司や同僚は、感情移入しやすいので、DV被害の事実よりも、ツラく苦しかった思いに共感してくれることから、DV被害の事実よりも、交際相手や配偶者がいかにひどい人物なのかを訴え、その訴えをともに哀しみ、ともに憤るなど、思いに共感してくれます。
 しかし、女性センターなど行政の相談機関の職員、民間の支援機関の職員など、警察署の警察官、医療機関の医師や歯科医師、看護師、医療事務員、児童相談所の職員、学校園の教職員、弁護士、家庭裁判所の裁判官(審判官)や調停委員、調査官などの第三者は、被害者のツラく苦しかった思いだけに共感するわけにはいかないのです。
なぜなら、相談されたDV事件に、適切な対応策を示したり、解決のために行動したりしなければならないからです。
 このとき重視するのは、「事実(経緯・状況を含む)を正確に把握する」ということです。正確にDVの事実を把握できなければ、いま必要な対応策はなにかを判断できないからです。
 被害者にとって、相談した人が、いま必要な対応策はなにかを判断できない中で助言は、場合によっては、自身に危険が及んでしまったり、理不尽な思いをさせられたりする事態を招くことになるわけです。
 例えば、警察ひとつをとっても、「DVを受けている」と警察署に相談したり、「DVを受けた。保護してください」と警察に助けを求めたり、「暴行を加えられて傷害を負った」と警察署に被害届(あるいは、告訴状)を提出して刑事事件として捜査を依頼したりするなど、さまざまなケースが考えられます。
DV相談は生活安全課の警察官が対応し、“一時保護”は、「配偶者からの暴力の防止及びに被害者の保護等に関する法律(配偶者暴力防止法、いわゆるDV防止法)」にもとづいて決定されることから、生活安全課の警察官とともに、役所の職員(福祉事務所の職員を含む)などが対応し、同法の“保護命令”の発令を求めるときには、「DV被害証明書」を発行してもらうために警察官か女性センターの職員、裁判官(事務官を含む)が対応し、「被害届」をだすときには刑事課の刑事、そして、立件できると判断されたときには、地方検察庁の検事が対応することになります。
また、「婚姻破綻の原因は配偶者からのDVにある」として、家庭裁判所に「夫婦関係調整(離婚)調停」を申立てるときには、被害者が、DVの事実を伝えなければならないのは、2名の調停委員と2名の調査官(幼い子どもがいて、親権・監護権が争われているときに加わる)に対してであり、調停が不調になり、提訴(裁判)となったときには、裁判官に対してということになります。
その前に、弁護士に相談したり、委任契約にもとづいて代理人となってもらったりするときには、その弁護士に、DVの事実を伝え、加えて、財産分与や損害賠償金(慰謝料)、親権、養育費、面会交流に対してどう考えているのかを伝える必要があります。
離婚調停は、調停を申立てた者と申立てられた者(相手方)が、民法770条第1項に定める離婚事由に則り、調停委員を介して合意するための話合いであることから、“DVの認定”を求める場ではなく、調停委員など調停に関わる人たちに対し、DVの事実を伝える場です。
「配偶者暴力防止法」に準じて“一時保護”の決定、“保護命令”の発令を求めたり、「刑法(傷害)」に準じて刑事事件として起訴を目指したり、「民法(離婚)」に準じて民事事件で離婚を成立させたりする場では、ときに、共感されなかったり、疑問視されたり、場合によっては、反論されたりすることがあるかもしれませんが、それは、事実を明らかにするために、疑問点や不可解な部分を一つひとつ潰していくためのプロセスなのですから、「私がどれだけツラく苦しい思いをしてきたのかわかってくれない」と“共感”してもらえないと嘆くのではなく、一貫してDVの事実を主張し続ける(伝える)姿勢にだけフォーカスすることが重要です。
重要なことは、「これまでのツラく苦しかった日々をわかって欲しい」との“思い(感情)にフォーカスしない”ということです。
つまり、気心が知れている第三者に、事実を伝えるということは、ビジネスの基本となる「事実と意見(感情)は分けて、伝える」という一種の技能が必要になるわけです。
以上のように、第三者にDVの事実を伝えるとき、その第三者の立ち位置に応じて、「被害者に求める必要な情報の“内容”と“質”は異なる」ということです。

⑥ 一呼吸、間を置く。待たせる勇気を持つ
多くの被害者は、加害者とのやり取りでは、“パッと”応えないと怒鳴られ、罵倒されてきています。
“ひと呼吸をおく(考える間をとる)”ことなど許されない状況におかれています。
そのため、離婚調停においても、どうしても“パッと”応えなければならないと強迫観念に駆られやすくなります。
ひと呼吸、間をおくことは、特に交渉の場では欠かせません。
コミュニケーションスキルでは、“沈黙の効果”とよばれるものです。
しかし、頭では理解できても、実行することはなかなか難しいものです。
なぜなら、間による“沈黙”にどれだけ耐えられるかを試されるからです。
待つことは、人を信じられるかを試されていることを意味します。
人を信じられることは、自分を信じられることに通じ、それは、アタッチメントを獲得できる家庭環境で育っていることを示しています。
ところが、間という沈黙が耐えられない人は、相手がなにを考えているのか不安になり、いたたまれず口をだしてしまったり、余計なことまで話してしまったりするのです。
こうした不安は、話したことやふるまいをどう思われたか、どう受けとられたか心配している(評価ばかりが気になる)人たちにみられる特徴です。
そして、人を信じることができず、疑心暗鬼になる思いを払拭するために、暴力で怯えさせ、跪かせ、許しを請う姿を見ることで、ホッと安堵感をえられる歪んだ感情を抱えるDV加害者ほど、間という沈黙、待つという行為を嫌がるのです。
なぜなら、沈黙は、不安を刺激し恐怖となっていくからです。
間という沈黙、待つことができないDV加害者の特性を理解しておけば、使い方次第で、調停や裁判で加害者を苛立たせたり、怒らせたりすることで、本性を晒すことができるわけです。
まずは、調停委員がどう思うかに囚われず、ひと呼吸をおき、いま自分が話したいことはなにかに集中します。
結果として、自然と適度な間がとれることになります。
ドキドキといつも怯えていたはずの被害者が、一緒に暮らしていたときと違い、地に足をつけ、落ちつき、ひとつひとつ冷静にかつ丁寧に対応している姿(DV事案として、別々に控室が用意されていても)は、加害者には恐怖になります。
加害者は、こうした場合にどうするかといったひきだしを持っていないので、苛立ち声を荒げたりしてボロをだす公算がでてくるのです。
調停は、調停委員や調査員のための場ではなく、被害者のあなた(とお子さん)の将来がどうなるかという“運命を託す場”ですから、あなたが主役です。
どうどうと時間をとり、あなたのために時間を使わなくてはならないのです。
メモをとり、それを見ながら、「考えをまとめますから、少し時間をください。」、「弁護士の先生と少し話をさせてください。」を回答する“最初のことば”にすればいいのです。
ポイントは、私の事情(思い)、私に気持ちをわかって欲しいという感情を伝えるのではなく、事実だけにフォーカスして、「こうした状況を、どう思いますか?」と調停委員や調査官になげかけることです。
調停委員や調査官になげかけた返答の内容によって、調停委員や調査官のモノサシ(価値観・判断基準)やいまどのように考えているのかを把握することができます。
調停委員や調査官、裁判官は、そして、弁護士は、それぞれ立ち位置も役割も違うわけです。
そこで、被害者は、調停委員や調査官のモノサシ(価値観・判断基準)を最初に把握し、その都度、調停の流れの中で、いまどのように考えているのかを把握することが重要なのです。


(11) 関心を持ち、疑問を抱き、調べ、事実を知り、受け入れる
両親間の暴力を目撃する、つまり、「面前DV」にかかわる問題は、「過干渉や過保護」「親の過干渉や過保護」「いき過ぎた教育」「厳しいしつけ」とともに、「臭い物に蓋をする」ように、日本社会そのものが長くその事実を認識してこなかった(表立って話題にすることを避けてきた)ものです。
社会そのものがあるテーマや問題に無関心で無知であることは、知らないこと(異質なこと)への不安や恐怖、猜疑心を招き、偏見、区別や差別、排除・無視などの暴力をもたらします。
さらに、暴力で育ったことによるツラさや苦しみ、葛藤を抱えていても、新たに、「親に虐待されて育った人=親に愛されずに育った人=不憫な人、かわいそうな人」と“烙印”を押され、“区別される(色眼鏡で見られる)”ことへの不安、怖れが強くなることがあります。
私たちは、特別なこと、一握りの人たちのことと区別する(色眼鏡をかける)ことで、「自分たちには関係ないこと」として見て見ぬふりをすることがあります。
そして、偏見や差別感を持って特定の人を排除しようとしたり、見て見ぬふりをしたりしていることに少なからず後ろめたさを感じたり、心を傷めたりします。
特定の人を排除しようとしたこと、見て見ぬふりをしたことに対する後ろめたさや罪の意識から解放され、罪悪感に苦しまないように、なにも感じないようにしたり、逆に、より過激に排除や差別をしたりすることもあります。
これは、とても怖いことです。
なぜなら、知らないことへの怖れや不安が、対立を生み、抗争を生みだすからです。
事実を知ることによって、厳しい現実を突きつけられ、深く傷つくことになるかもしれません。
しかし、その事実と向き合わなければ、心の問題の解決の途につくことができないのも現実です。
知らされたくない事実もあると思います。
一方で、事実を知りたい被害者、事実を知りたいDVのある家庭環境で育ち生き難さを抱えてきた被害者も少なくないわけです。
そこで、後者の方たちには「事実を知る権利がある」との立ち位置をとっています。
いまDV被害に苦しんでいたり、DVのある家庭環境で育ち対人関係に悩んでいたりする方たちには、「事実を伝えることは、決して、その人そのものを否定したり、非難したりして責めているわけではなく、事実認識は、暴力による関係性を断ち切るときに必要な情報(知識)」と捉えて欲しいと願っています。
暴力の連鎖は、この世代で終わらせるために、被害女性を含めて、2世代、3世代にわたるコミュニティ(社会)全体として、暴力とはなにか、暴力が生みだすものはなにかについて問題意識を持ち、そして、学び、行動して欲しいと思います。


** ①-a)DV・デートDV・性被害に関する相談、-b)家庭裁判所への「婚姻破綻の原因はDVにある」とする離婚調停の申立て、地方裁判所への保護命令の申立て、警察への被害届の提出に向けての支援依頼、②DV被害の状況をまとめるためのWord文書フォーマット(DV・夫の暴力、子への虐待チェック・ワークシート;「Ⅲ-3.暴力の影響を「事例」で学ぶ。(Ⅰ)添付資料:ワークシート」の中の「DV・夫の暴力、子への虐待チェック・ワークシート」)の送付依頼、③カテゴリー〔Ⅲ1-9〕掲載『暴力の影響を「事例」で学ぶ。虐待とDVの早期発見・支援。母と子どもが暴力から脱するための手引き(3部5章42節)*』のPDFファイル送付依頼については、カテゴリー〔Ⅰ-I〕の中の「<DV・性暴力被害相談。メール・電話、面談>..問合せ・相談、サポートの依頼。最初に確認ください。http://629143marine.blog118.fc2.com/blog-entry-501.html」をご確認いただければと思います。


2010.10/1.11:31
2013.2/20 文体修正、カテゴリー変更
2013.11/30
2016.6/10 ブログ再構成・再編集にともない「※」の記述に加筆




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